5.一般人
「その大事なお姫様に間違って当たったら、どうすんだ?」
「大丈夫ですよ。僕は足を狙ってたんですから!」
「今日初めて撃つ奴のセリフかよ」
この状況でも、男二人は全く慌てた様子がない。それどころか、先ほどと変わらずに会話をしている。今にも車と一緒にスクラップにされそうなのに、恐怖もないように見える。俺だったらとうに失禁している。その俺は、獅子の前足のアスファルトの上で寝転がされていた。全く情けない状況である。
「あ、僕たちもタトゥーで応戦しちゃいます?」
「駄目だ」
車の中から、白いタオルが振られた。どうやら白旗の代わりらしい。振っているのは位置から見て「先輩」の方だろう。割れたガラス窓から顔を出し、「先輩」が叫んだ。
「今日はここまでだ。おとなしく退散させてくれ」
少女は車をにらんだままだったが、街路樹の枝や雑草の蔓が、次第に元の姿に戻っていく。どうやら今日はここで休戦となるらしい。歪な形になった車もやっと着地し、煙を上げて素直にどこかに走り去った。
駅は今までのことが嘘だったかのように、日常の風景を取り戻していた。街路樹は俺の見知った街路樹だったし、雑草もおとなしくアスファルトにへばりついている。そしていつの間にか、駅には人が戻ってきていた。駅員もいるし、キャリーバッグを引いた観光客や、通学している俺の高校の学生もいる。一体この人々は今までどこにいたのだろう。そして、今まで俺が置かれていた状況は、一体何だったのだろう。白昼夢か、幻か。しかし俺の目の前の少女は確かに存在していた。少女は何のためらいもなく、乱暴に俺が包まれていた寝袋のファスナーを一気に引いた。完全に寝た状態を見られた俺は、まるで裸を晒されたような羞恥心を覚えた。少女は何も言わずに、俺の手首をつかんで、シャツの袖を乱暴にめくった。そこには謎の男から譲渡された不気味なタトゥーがある。それを確認した少女は、興味を失ったかのように、俺の手首を離した。
「あの……」
取り合えず俺は、あの怪しい二人組から助けてもらったことに感謝しようと起き上がろうとした。しかし腕も足も縛られている状態ではそれも叶わず、芋虫のように地面に這いつくばる形となった。その時、背後に人の気配がした。そこにいたのは、大きな獅子ではなく、和服を着た男だった。
「え?」
「巫女」
男の声は、頭の中に直に響いてきた獅子の声と、全く一緒だった。
「分かってる」
少女の視線の先には、バス停がある。バス停のすぐ横には、小さな蔵にしか見えないバスの待合所があった。そこから二人のラフな格好をした青年二人が、こちらに向かって歩いてくる。少女は白いパーカーに、赤いプリーツスカートといういで立ちだ。配色だけを見ればまさしく「巫女装束」である。二人の男が近づいてくると、青年とばかり見えていた二人は、俺と大して年齢が変わらないように見えた。一人の男は鋭く吊り上がった目をしていて、髪をざっくりと一本にまとめ、耳にはピアスをしていた。もう一人の男は茶色い短髪で赤いコンタクトレンズをしていた。ピアスの男はジャンパーであるのに対して、コンタクトの男はコートを着ていて、中性的に見えた。
「いやぁ、お見事やったなぁ」
ピアスの男が、拍手する。少女は自分に向けられた賛辞に、無表情で応えた。
「本物?」
コンタクトレンズの男が、首を傾げて俺をのぞき込む。こちらの男も、関西弁の訛りがあった。俺は不躾な視線を不快に思ったが、自分の立場が分からず、その場で固まっていた。
「ええ。オリジナルよ」
少女は短く答えた。本物かどうかを問うと言うことは、偽物のタトゥーがあると言うことだ。そしてその真贋を見抜く審美眼を、この少女が持っているということか。だから、あの気味の悪い二人の男は、この少女を殺せなかったのか。まるで情報の洪水だ。俺にはもう訳が分からない。これでは本当に助かったと言えるのかさえ、分からないではないか。
「あのっ!」
俺はたまらずに声を張った。すぐに俺を囲んでいた四人が俺を見るが、その表情は忘れ物を思い出したかのようだった。つまり話題の中心でありながら、俺の存在は忘れられていたのだ。それは俺自身に価値があると言うよりも、俺のタトゥーに価値があると言うことだろう。
「誰か、ほどいてくれませんか?」
ポニーテイルの少女が、しゃがんで俺を見下ろす。しかしそれは俺の期待とは裏腹で、ほどいてくれるためではなかった。
「ほら、この紐で縛ってあるってことは、オリジナルでしょ?」
俺の手首を縛っている赤黒い紐を指さして、少女は言い、中性的な青年がうなずく。そうしてから、少女はポケットの中から小刀を取り出して、紐と結束バンドを切ってくれた。少女はそれらを地面にふらりと投げ捨てる。まるで味のしなくなったガムを吐き捨てるような捨て方だった。俺がそれを咎めるようににらんでいることに気付いた少女は、小さくため息を吐いた。
「良かった。一応、常識的な一般人で」
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