4.巫女
俺はコンクリートの床に、おとなしく寝転がる。後ろで縛られているため、横向きに寝た。足の結束バンドがわずかに食い込んで、窮屈だったが痛みはなかった。人を縛るのに慣れていないと、痛みを与えずに人を拘束することは出来ないだろう。この百田は、かなりの数の人間の自由を奪ってきたのだろう。「先輩」が、キャンプの時に使うような寝袋を持ってきて、俺の後ろで広げ始めた。これに詰め込まれれば、目隠しはいらない。その上でトランクに入れられれば、耳もふさぐことも必要ないだろう。さるぐつわも、車内に二人だけならいらない。必要最低限の物で、必要最低限の命令で、人一人を簡単に拉致できるものなのだ。俺は他人事のように感心していた。思った通り、俺は寝袋に入れられ、一番上までファスナーを閉められた。暗闇に視界は閉ざされ、息苦しさも感じたが、乱暴には扱われずに済んだので、やはり痛みはない。次に俺が目にする光景は、きっと無機質なで病院のような研究所の中だろう。もしかしたら、実験用マウスのように、透明なアクリルケースや、檻の中かもしれない。そして何らかの実験に協力させられ、実験用マウスとして死ぬのだ。
生物の時間を思い出す。俺が毎日育てていたハツカネズミの一匹が、クロロホルムで眠らされた後に、解剖用のハサミで腹から切られた。解剖が巧い人間がやると血は出ないと、生物教師が自慢げに言っていた。そしてハツカネズミの神経をハサミの刃先で弄り、反射神経や条件反射の説明をした。その時、俺が恐ろしかったのは、死んでいくハツカネズミではなく、まして解剖をする生物教師でもなかった。俺が怖かったのは、クラスの連中だった。ハツカネズミの解剖をすると聞いたクラスメイト達は、皆一様に、嫌な顔をした。そして「かわいそう」だとか、「動物虐待」だとか言って、解剖に反対していた。しかし、解剖が始まると、クラスメイト達がどうしたか。我先にと生物教師の周りに集まり、嬉々として解剖の様子を見ていたのだ。俺はこの時、人間の本性を見た気がした。そして人間の本性とはこんなにも、醜いのかと思い、背筋が凍ったのだ。あの後、解剖されたハツカネズミはゴミとして処分された。弔う者など、俺も含めて誰もいなかった。
あのハツカネズミと、俺は同じになるのだ。そう思うと涙が溢れてきた。死ぬとか、殺されるとか、殺すとか、こんなに残酷なことがあっていいのかと思った。ろくな人生ではなかったかもしれない。それでも、一生懸命に生きてきた。がむしゃらに頑張ってきた。たった十八年だったと、今さら諦められるのか。どうして俺なんだ。こんな不幸にばかり恵まれた人生を、どうして俺は生きなければならないんだ。俺の他にもいただろう。道を踏み外した奴とか、ろくでもない奴とか、傲慢な奴とか、ムカつく奴とか。それなのに、どうして俺はこんな訳の分からない、頭のおかしなことばかり言う奴らの、バカみたいなことに付き合わされるんだ。こんなのはおかしい。間違っている。そう思った時、俺は自分がやったことを、初めて後悔し始めていた。
俺がやったことは、もしかしてこいつらと同じことだったのではないか。簡単に、俺は他人の命を奪った。奴らが銃を持っていたように、俺もタトゥーを持っていたからだ。簡単な理屈だ。人は、自分に付与された力を、他人に向けたくなる。倫理なんて、簡単に捻じ曲げられる。相手が悪いのだから、正当防衛するのは当たり前。相手が先に攻撃してきたのだから、ただ応戦しただけだ。そこにたまたま力があったから、咄嗟に使ってしまっただけだ。最初は殺すつもりはなかった。本当は、ただの脅しだった。何とでも言える。世界で銃規制が進まない理由の一つは、悪人は銃を手放さないから、善人も自己防衛のために銃を持つ必要があるという論理が働くからだと、どこかのテレビが言っていた。俺がタトゥーを持っていたから、相手は自前のタトゥーに加え、銃を持ってきた。分かりやすい論理。その分、稚拙極まりない論理でもある。俺も、稚拙で愚かだった。酷いことを言われたからと言って、殺すことはなかった。それも、元々は友人だと思っていた奴らだった。担任も、カウンセラーも、俺と共に学校生活を送って来た人だった。それなのに俺は一過性の恨みで、簡単にその命を奪った。大切な人がいただろう。家族がいただろう。仲間や友人がいただろう。これから出会う人もいただろう。俺は残酷なやり方で、五人もの人間からそれらすべてを奪ったのだ。今の俺が味わっている恐怖や緊張さえ、覚える暇もなく三人の青年は死んだ。そして、二人の大人は、生きたまま焼かれて死んだ。恐怖や痛み、苦しみや熱さにもがき苦しみながら、死んでいった。俺が、殺した。
暗闇の中、わずかなエンジン音が聞こえた。とうとう、俺は荷物のように運ばれていくらしい。しかし、次の瞬間、俺は突如開いたトランクから、全くの空中に投げ出されることになった。何がどうなったかは分からないが、一瞬の浮遊感が俺を襲った。このまま地面に叩きつけられれば、重心がある頭から落ちて死ぬだろうと思ったが、そうはならなかった。見えたのは、鈍色の空。そして俺を咥えていたのは、一匹の獅子だった。銃声が鳴るが、近くの街灯に当たった。寝袋入りの俺を咥えた獅子は、軽々と跳躍し、車の上を足場にして大きく跳ねた。一瞬見えた車には、街路樹の枝葉が複雑に絡み合って、空転するタイヤからは焦げたゴムの臭いがしていた。そして、次に破れた寝袋の隙間から見えたのは、俺よりも年下と思われる少女の後ろ姿だった。
「巫女、これはどうする?」
獅子が、低く人間の言葉を発した。いや、正確には言葉は頭の中に直に響いた。俺は驚き、混乱するばかりだ。
「そのまま待機して。出来るだけ守ってあげて」
今にも木の枝や蔓に押しつぶされそうな車は、スクラップ工場の中の車さながらの光景だ。ドアごと蔓に巻き付かれているために、二人の男は車の外に出られない。割れた窓から少女に向かって金髪の男が銃を向けたが、「先輩」がそれを手で下げさせる。
「えーっ、先輩、何でダメなんですか? せっかくお姫様が来てくれたのに」
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