落日の桃源郷・捌
——見慣れた、赤黒い空間。
肉体の感触はなく、意識のみが浮遊する感覚。
目覚めが悪い朝は、決まってこのような空間の中を漂い、どこからか響いてくる声にうなされる夢を見ていた。
だが、なぜだろう。
これまでとは違い、なぜか居心地がいい。
慣れたというよりは、この空間そのものに馴染んだという方がしっくりくる。
今までは決して踏み込んではいけない領域なのだと直感で感じていたが、それも今となっては曖昧だ。いっそ身を預けてしまえば、楽になれるのではとさえ思う。
——もう間もなく、あの声が語りかけてくるだろう。
それは地の底から響くような、低くくぐもった声。深淵へといざなうような口調と声色で、私を呼ぶ。
だが、一向に声は聞こえない。
変わりに湧き上がってきたのは、誰のものかも分からない、底知れぬ憎悪。長い年月を経て積もり積もった怨念か、空間を覆い尽くすほどのどす黒い感情が、奔流となって溢れ出た。
次いで、ある情景が浮かび上がる。
業火に包まれた巫神楽。押し寄せる異形の集団。逃げ惑う民に、惨殺される同胞達。在りし日の光景が失われていく。雅な景観の桃源郷は血と炎によって不毛の地と化し、
そして慟哭の響く中、憎悪を秘めた凶刃は最愛の姉へと向けられ————
「——……っ!!」
頬に当たるひやりと冷たい土の感触の中、千鶴は目を覚ました。
「しまった——……ぐっ!」
有事に気を失っていた自身を責めながら慌てて身を起こすが、同時に背中を襲った痛みに悶絶する。鎌嚇に見舞われた斬撃による傷は、思いのほか深いらしい。装束にべったりと染み付いた血液は冷えて固まっているあたり出血は止まったようだが、かといって傷が塞がったわけではない。持ち前の自己治癒力を以ってしても、時間がかかりそうだ。
辺りを見回すと、頭部を刈り取られた妖魔の骸を除けば、その場にいるのは自分だけだった。
ざあ——と、風に吹かれて草木が揺れた。
不気味なほど静かだ。付近に妖魔の気配はない。
静寂の森の中一人残された千鶴は、意識を失う直前、無為が放った言葉を思い出す。いや、あれは無為であって無為ではないのだろう。別の人格、とでもいうべきか。声色も語気も、普段の辿々しい無為のそれとはまるで違った。
極めつけは妖魔に首を取る対象を誤認させたかに思える、奇怪な術だ。おそらく幻術のようなものの一種なのだろうが、無為にそのような異能があるとは聞いたこともないため、ますます混乱する。結果的にそのおかげで命拾いしたことに変わりはないが、素直に感謝する気にはなれなかった。
だが長考している時間はない。とにかく立ち上がらねばと体を起こしたところで、ある異変に気付く。体感からしてそこまで長い時間気絶していたとは思えないが、辺りは異様に暗かった。陰鬱とした隠の森だが、日中ならばもう少し明るいはずだ。
「陽が陰っている……? ——っ! なんだ、あれは……」
天上を見上げ、思わず息を呑んだ。登りきった陽が暗雲に覆われ、外輪だけを残し完全に隠れてしまっていた。
まさに不吉の象徴。厄災の前触れのような気がして、一刻も早く里に戻ろうとするが、続けて目に映った光景に絶句した。
木々で埋め尽くされた地平の先、巫神楽を含む霊山一帯から、空を覆い尽くす暗雲に吸い込まれるかのように、黒煙が立ち上っている。
その下で何が起こっているのか、もはや考えるまでもない。
先ほど夢に見た光景が、今まさに現実として起ころうとしている。
「あぁ……!」
絶望が、言葉にならない声として自然と漏れた。
真っ先に思い浮かぶのは、変わらず姉の顔だ。
『——今、其方を里に戻すわけにはいかぬ』
無為の放った含みのある一言が脳裏をよぎるが、その真意など今となってはどうでもよかった。
千鶴は落ちていた絶華を拾い上げると、背中の痛みなど忘れ去り、焦燥に駆られるまま駆け出した。
♦︎
その頃、巫神楽北方の境界付近。
結界の崩壊を皮切りに、里には蠢く異形の集団が雪崩のように押し寄せていた。
不気味な静寂に包まれていた境界付近はあっという間に血みどろの戦場となり、異形の雄叫びと隊士達の怒声、もしくは悲鳴が飛び交う。隊士達が振う刃と妖魔の爪や牙との衝突音が響き渡り、狂気じみた殺意と闘志が入り乱れる。
「——姐御! ここはもうもたねえ! 一旦退いて——ぎゃっ」
押し寄せる妖魔との混戦の最中、恐怖に駆られた男の声が響いたと思えば、それが彼の断末魔となった。
「くそ……数が多すぎるっての!」
刃を振う両腕は休めず、男の死に際を見て悲痛に表情を歪めながら、胡鞠は毒付いた。
無数の妖魔を各起点で迎え撃ったのは、胡鞠をはじめとした遊撃隊【颯】、そして一月前、北方の任務で正体不明の妖魔から雷撃を受け、壊滅状態となった剛羅が率いる突貫隊【轟】の生き残りだ。
筆頭である胡鞠が混合部隊の総指揮を務め、数人の分隊長を任命し事態の収束にあたってはいたが、圧倒的な数の差は埋めようがない。巫神楽の中でも屈指の戦力である千鶴、剛羅、真鶸は外縁部の守備に参加できず、無為に依存した情報伝達も機能していない。文字通り、五箇所の起点に戦力を分散し、死力を尽くす胡鞠達は孤軍奮闘の状態であった。
(これだけの数、一体どこから……!!)
前触れなく、隠の森から突如出現した大量の妖魔に虚を突かれ、胡鞠達は防戦一方だ。
押し寄せる妖魔の波を押し返そうとするも、数の暴力を前に一人、また一人と隊士達が無惨な
肉片へと変わっていく。
「——引くな!! 押し返せ!!」
胡鞠は戦場を脱兎の如く駆け回り、すれ違う妖魔を次々と叩き、潰し、斬り伏せていく。そして普段の天真爛漫な姿からは想像もできないような鬼気迫る表情と気迫で叫ぶと、恐怖に囚われた部下達を鼓舞した。
だが、いくら異形の骸を積み上げようと、その数は減る気配すらない。無限に湧き出ているかのように、姿形の異なる妖魔が襲来する。
退却——胡鞠の脳裏を逃げの一手がよぎる。
持久戦では勝機などない。犠牲は増える一方だ。かといって、前線を放棄すれば民が暮らす山腹の集落まで敵の侵攻を許す事態になりかねない。いや、もしくは既に壊滅状態ということもあり得る。
こういった複数の戦場で複数の分隊を展開する時は必ず無為率いる千里隊【朧】の伝達網が必須なのだが、どういうわけか千里隊の隊士の姿も、無為の“眼”が宿った鷹の姿もない。
乏しすぎる判断材料では的確な指示など到底できるわけもなく、胡鞠は思考の渦に
そんな時、巫神楽を覆う尽くす暗雲の空に異変が起きた。黒雲の一部が数ヶ所で意思を得たかのように分離し、地上へと迫る。それらはやがて一つに集約され、もくもくと肥大化していく。
地上で戦う隊士達は異変に気付いていない。僅かな空気の匂いの変化を感じた胡鞠だけが上空を見上げ、青ざめた表情で「——退避!!」と叫ぶが、反応できた者はごく一部の精鋭のみ。
地上付近まで飛来した黒雲が一瞬、
折り重なった隊士達の悲鳴と妖魔の断末魔が収まった頃、難を逃れた胡鞠が目を開けると、戦場となった境界付近は元の地形をとどめていなかった。抉られた地面から立ち上る煙に、焼け焦げた樹木。規格外な力の前に消し炭となってしまったのか、落雷をまともに食らった隊士や妖魔は骨の一片も残っていなかった。
「そんな……!」
胡鞠が眼前の光景に絶望していると、黒雲は蠢き、その姿を変えていく。ばちばちとした電流を帯びながら正体を表したのは、般若のような形相で胡鞠達を見下す、虎模様の毛皮に覆われた四足獣であった。四肢には雷を帯びた黒雲が纏わりつき、それによってなのかは定かではないが、宙に浮遊している。
同時に放たれる、身が竦むほどに強烈な殺気。並の妖魔など比にならない。
硬直する胡鞠達を煽るように、四足獣は吠える。否、吠えるというよりは、嘆きのような呻き声を上げたのだ。魂の内側から侵食するかのような、なんとも形容し難い感覚が胡鞠達を襲う。
「なに、これ……! 意識が遠のく……!」
精神攻撃の一種か、生き残った隊士達は頭を抱えながら苦しみ、うずくまっていく。聴覚が敏感な胡鞠も堪らず地面に膝を突くが、そこへ聞き覚えのある
同時に巫神楽への通路を背にしていた胡鞠の背後から、根本から力任せに引っこ抜いたと思える巨木が凄まじい速度で飛来し、地上へ意識を向けていた四足獣へと直撃する。呻き声は止んだが、それは決定打にはならなかった。飛来した巨木は穴を開けて四足獣の体を突き破ったが、すぐに黒雲が集まり、その穴を塞いでしまう。
「——なんだ、実体がねえのか? ったく、つくづく厄介な野郎だ」
日頃やかましく感じていた野太い声も、今は頼もしい限りだ。
胡鞠が胸を踊らせ振り向くと、長らく昏睡状態だったはずの剛羅が、
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