落日の桃源郷・柒

 ——結界が崩壊した。


 それは数百年の歴史をもつ巫神楽において、誰にとっても予期せぬ事態となった。


 俗世との境界。妖魔を退け続けてきた不落の防壁。初代巫女姫の代から維持されてきた不可視結界に覆われていたからこそ、巫神楽は平穏と桃源郷のような景観を保ってこられた。それが崩壊した今、もはや巫神楽は野晒し同然であった。


 青ざめた隊士の報告を聞き、重役達はにわかには信じられないといった様子だ。だが祈沙羅と千景が事実であると肯定すると、途端に慌てふためき、我先にと霊山から離れるべく、動き出した。


 その様子のなんと情けないことか。


 現人神あらひとがみなどという威厳などもはやなく、迫る脅威に怯え逃げ惑う姿は俗世に生きる只人のそれとなんら変わりない。


 誰もが狼狽する中で、真鶸だけが冷静さを保ち、毅然と振る舞っていた。浮き足立つ隊士達をまとめ上げ、次々と的確な指示をとばす。


 ともかく、混乱した場を収めなくては話にならない。


 我先にと逃げ惑う重役達の誘導は隊士達に任せ、真鶸は祈沙羅と千景の元へ歩み寄った。


「御二方、すぐに退避を。貴女様方だけでも、里の外へお逃げください。もはや始祖・道真の復活は疑いようがない、巫神楽ここは間も無く戦場となりましょう。当分の間、身を隠すのです。そう——神々廻に従順な刑奉の者達なら、受け入れるはず」


 封印が破られてから道真の霊魂の気配が消えてしまったが、暗雲に覆われた空と押し寄せる妖魔の報告を考えれば、霊魂は既に解き放たれたと考えるのが妥当だろう。


 そして刑奉ぎょうぶ家は真鶸の出自でもある五龍血の一家であり、黒鉄家と並んで唯一、神々廻家に忠実な一族であった。


 彼らの隠れ里は北の渓谷にひっそりと存在しており、外敵の侵入も少ないという。

 

 山岳地帯のため起伏が激しく作物の実りも少ない厳しい土地だが、戦火を逃れ千景達が身を潜めるにはまさにうってつけの土地であった。


「なにを……! 巫神楽を捨ておけと言うのですか!?」


 だが、千景は声を荒げ拒絶した。


 真鶸の提案は、巫女姫としての矜持、数百年にわたり先祖が継承してきた全てを捨てることと同義だ。それは責務に対し並々ならぬ覚悟を持って臨んできた祈沙羅や千景からすれば、到底容認できるものではない。


 だが真鶸には戦局が見えていた。結界が崩壊した今、四方八方から妖魔が攻めてくるということだ。文字通り、四面楚歌の状況に陥ることは火を見るより明らかであった。加えて剛羅・千鶴という戦力を欠いている現状で、敵を迎え撃ち掃討することは不可能に近い。


 だが、例え巫神楽は蹂躙されたとしても、巫女姫の血筋さえ絶たれなければ再起は可能というのもまた事実であった。


 聡明な千景は言わずともその意図を理解したのか、苦悶に満ちた表情を浮かべ、言葉を呑み込んだ。


 そんな娘の様子を黙って見ていた祈沙羅だったが、どこか悟りきったような表情になると、静かに口を開いた。


「……真鶸、千景を頼みます。私にもはや力はない。せめて、この地と共に最後を迎えましょう」


「御母様、なにを! それは私も同じこと——」


 そこまで言いかけて、千景は思い出す。


「つぐな——」


 そして、弟子の名をつぶやく。先ほど脳裏に浮かんだ光景で千景は確信していた。


「真鶸様!! あの子を……つぐなを一刻も早く安全なところへ! 私ではないのです……真に生き残り、贖罪の連鎖に終止符を打つのは私ではなくあの子なのです!」


「千景様、一体何を——」


 容量を得ない千景の発言に祈沙羅と真鶸が困惑していると、不意に重役達のどよめきが収まった。


 そして口々に「親方様?」「親方様だ!」と声をあげ出したのだ。


 一同がその方向を見ると、床に伏してもはや再起不能とまで言われていた神々廻家現当主・神々廻道元が、確かな足取りで悠々と石段を上がってくるのが見えた。


 素足で寝衣姿のまま、手には剥き出しの刃。その足取りはかつての威厳を取り戻し、近頃の不調が嘘のようである。


「道元殿……?」


 祈沙羅は思わぬ亭主の登場に驚き、慌てて駆け寄っていく。


「お身体はもう良いのですか? どうかご指示を! 封印が破られ————」


 今だに立ち上がれずにいた千景の隣でその様子を眺めていた真鶸だったが、その慧眼は見逃さなかった。


「——っ! 近づいてはなりません、祈沙羅様!!」


 刃を握る道元の手元が僅かに震えた気がして叫ぶ。


 だが、既に手遅れであった。


 道元はなんの予備動作もなく、至って無感情に刃を握った手を振るった。


 同時に宙を舞う、祈沙羅の頭部。斬撃に巻き込まれた黒髪が、血飛沫に混じってさらさらと花弁のように散っていく。



 ——ごとり。



 誰もが静まり返った広場に、鈍い音が無情に響いた。


 切り離された祈沙羅の頭部は地に落ちると、血潮を吹きながら数回転がり、その視線を千景の方へ向け、ゆっくりと止まる。


「——え……?」


 母の死を目の当たりにし、千景が発した言葉はそれだけだった。


 鮮血特有の鉄錆の匂いが広間に吹きつける風に運ばれ、鼻腔を刺す。


 視線の先には、びくびくと痙攣を繰り返す体から切り離され無惨に転がった母の頭部、そして虚無な瞳。それらを吸い込まれるように見つめいるうち、停止した無音の世界から意識が引き戻されていく。


 心臓の鼓動が、やけにけたたましく聞こえた。


 動悸が激しくなるに連れ、時が止まったかのような感覚は薄れていく。そして変わりに沸き起こるのは、受け入れ難い現実に対する拒絶感。


「あ……あぁ……!!」


 千景が声にならない叫びを上げると、涙は自然と溢れ出す。再び湧き起こる吐き気に耐えきれず、思わず口元を覆う。


 悪い夢でも見ているかのような光景にその場の誰もが戦慄し、呆気に取られていた。


 対して道元は変わらず、無感情に佇んだまま。


 地面に転がる妻の骸に対しても、恐怖に顔を歪めた同胞に対しても、まるで羽虫を潰した程度であるかのような、退屈そうな表情で見るばかりだった。




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