落日の桃源郷・玖
「ちょっと、あんた——……!」
来るのが遅い。普段通りの物言いでそう
剛羅が羽織る一張羅から覗く筋骨隆々とした肉体は、到底無事とは言い難い、痛々しい状態であった。首から左腕にかけた上半身の半分が包帯で覆われ、白い布地には所々血が滲んでいる。僅かに覗く首元の皮膚は壊死しているように黒ずんでおり、立っていられるのが不思議なほどだ。顔色も青白く全開とは程遠いが、四足獣を見据える隻眼には確かな闘志が宿っている。
「くそ……片腕しか使えねえってのはもどかしいもんだ。隻眼の次は隻腕かよ、まったく笑えねえぜ」
剛羅は右手の感触を確かめるように何度か拳を握ると、忌々しそうに呟いた。包帯で覆われた左手は言葉通り機能していないのだろう、力なくだらりと垂れ下がっている。
「……ごめん。みんなを守れなかった……!」
四足獣が放った雷撃によって骨すら残らず焼き尽くされた隊士達の最期がよぎり、胡鞠は苦悶の表情を浮かべ項垂れる。預かっていた命を無惨に散らせてしまった自責の念は相当なものだ。
「なんだ、今日はやけに塩らしいじゃねえか。やめろやめろ、気色悪い。お前は脳天気にがつがつ飯を食ってるのが一番似合うってもんだ」
「な、あんたねえ!!」
一方の剛羅は凄惨な戦場にいるとは思えないほどに落ち着いていた。普段となにも変わらぬ物言いで胡鞠をからかい、これまた普段通りの痴話喧嘩のような反応を示した胡鞠を豪快に笑い飛ばした。
「そうだ、お前はその調子でなくちゃいけねえ。なあに、てめえを責める必要はねえさ。——“
だが、四足獣を睨んだ瞬間、途端に眼光は鋭く、声色は厳かなものになる。
「六妖……あいつが……!?」
剛羅の言葉をなぞり、胡鞠は驚愕する。
二百年前、神々廻道真が人の世を滅ぼそうと暗躍した際に率いた六体の妖。個々が規格外の妖力を有し、災厄の権化と称されるほどの脅威。そのうちの一体が、今まさに相対している四足獣だというのだ。
「奴は
「ちょ、ちょっと待ってよ! 六妖は大昔に一匹残らず封印されたか、討伐されたはずでしょ!? 大体、なんであんたがそんなこと知って——……まさか、あんた達が一月前に遭遇した妖魔って……」
「ああ、ご明察通り、あの雷獣だ。奴は北方の山地で、なにかを探しているようにも見えた。それがなんなのか、大体の見当はつくが……奴らがどでかい野望を企んでるってことだけは、確かだろうな」
剛羅の突拍子もない発言に胡鞠が困惑していると、再び暗雲に覆われた空から雷鳴が轟き、四足獣が呻き声を放つ。見ると、虎模様の身体がばちばちと紫電を帯び始めており、先程地上を襲った雷撃を再び放とうとしている。
それを目にした地上に展開する隊士達は狼狽えるばかり。逃げようにも行き場も分からず、右往左往する他ない。
「まずい、また……!」
「任せろ」
「は? ちょっと、どうするつもり!?」
胡鞠は退避しようとするが、対して剛羅はずい、と一歩踏み出した。
そして野太い一声と共に、手にした大槌の柄の部分を垂直に地面に打ち付けた。同時に、大槌に変化が起きる。重厚な
「な……!」
その光景に胡鞠は驚愕するが、同時に天上から眩い閃光が降り注ぐ。次いで響き渡る、四足獣の呻き声。二度目の雷撃が、再び地上に牙を向いた。誰一人として逃す気はないのか、地上に襲いくる紫電の柱は一度目よりも広範囲に渡り、その数も増している。
「これじゃ逃げ場が……!」
「狼狽えるな、そこでじっとしてろ」
「え……?」
胡鞠は迫る雷撃を前に打つ手がない。だが轟々とした雷撃の炸裂音と四足獣の呻き声が響く中、やけに澄んだ剛羅の声が耳に入った。雷が放つ強烈な閃光に照らされ、次第に薄れゆくその背中は、胡鞠に言いようのない安堵を覚えさせた。
胡鞠はあまりの眩しさに顔を腕で覆う。だがいつまで経っても、紫電がその身を焦がすことはなかった。
そして恐る恐る目を開け、眼前の光景に息を呑む。
地上の生命全てを
そして放たれた雷撃の轟音と四足獣の呻き声が収まった頃、戦場には不気味な静寂が訪れた。
自身の命がまだあることに驚いた胡鞠と隊士達は、堂々と佇む剛羅を見て驚愕する。
剛羅の大槌はどういうわけか一回り大きくなっており、赤い筋が消えた代わりに紫電ならぬ紅電を帯びている。それは剛羅の燃えたぎる闘志を体現しているかのようで、
「さすがは六妖ってとこか、とんでもねえ力を秘めてやがる……! てめえの生命力、ありがたく受け取ったぞ」
剛羅は嬉々として言うと、四足獣を挑発するように見据える。右手で紅電を帯びた大槌を肩に担ぎ、機能を取り戻した左腕で拳を握った。はらりと落ちた左腕の包帯。そこから覗いた剛腕は、大槌と同じように紅い電流を纏っていた。
予想だにしない展開に、胡鞠や隊士達同様、四足獣も仰天したらしい。怒りを露わにし、宙に浮いたまま雄叫びを上げた。
「あんたそれ、まさか血操術!? どうしてあんたが……」
——血操術。龍の権能をその血に継いだ者にしか扱えない秘術。本来、特異な血質である神々廻と五龍血の末裔しか宿していないはずの力だ。
そういえば剛羅から出自などの身の上話はこれまで一度も聞いたことはなかったと胡鞠は思い返すが、その疑問に対し返答はなかった。
「悪いが、今はご丁寧に説明してる暇はねえ。……胡鞠よ、これから言うことをよく聞け」
剛羅は有無を言わさぬ口調で語り始める。静かだが凄みを含んだ物言いに、胡鞠は黙って耳を傾けた。
「神々廻の巫女達が身を清める“禊の滝壺”の場所は知ってるな? その滝の裏側に、外界へ抜け出せる隠し通路がある。今頃、真鶸の旦那も神々廻の連中をそこへ導いているはずだ。もう
剛羅は静かにそう締めくくると、手にした大槌を前に構え、臨戦態勢をとった。
「ちょっ、なに言ってんの!? あたしも戦う、どんな手を使ったか知らないけど、手負いのあんた一人でどうにかなるわけないでしょ!!」
「はっ、言ってくれるじゃねえか。だがお前よりかはずっとましだ。いくらすばしっこいお前でも、あの雷撃はそう何度も避けられるもんじゃねえ。それにな、また奴の放つ雷撃を吸収しようにも、今の身体じゃそう何度も防ぎきれん」
含みはあるが的を得た分析に、胡鞠は反論の余地がない。自身の無力感を呪い、歯を食いしばる。それに、余裕な笑みとは裏腹に、最後の言葉も事実なようだ。剛羅の身体を覆う包帯に滲んだ血の染みは広がっており、先ほど見せた異能を行使するにも代償を伴うようだ。
「……だったら、あたしにも考えがある」
それを見て、胡鞠は腹を括ったように首に下げている鈴に触れた。するとチリン、と音を立てて鈴が揺れ、胡鞠の放つ気配が変わった。縦長の猫のような瞳孔は更に鋭くなり、妖しげな光が灯る。
「やめとけ、馬鹿野郎。周りの気配を感じねえのか? 結界が失われたせいで胸糞悪い陰の気がそこら中に充満してやがる。今それやったらお前、飲み込まれるぞ」
「うるさい。あいつをどうにかしないと戦局は悪くなる一方だし、あんただけにいい格好はさせないから。……それにもし勝てなくても、あんたと一緒なら——」
つかさず剛羅が制止するが、胡鞠はそれを無視して前に出ようとする。
「はっ、つくづく強情な野郎だ。ありがてえ申し出だが——悪いな」
剛羅はそう言うと、横を通り過ぎようとした胡鞠の鳩尾目掛け、力一杯大槌の柄を叩き付けた。いくら筋肉量の多い胡鞠でも、剛羅の振う剛腕から繰り出される一撃を耐えられるはずがない。不意を突かれた胡鞠は「がっ」と呻き、前のめりになってその場に崩れ落ちる。
「あんた……ふざけんじゃ……——」
胡鞠は剛羅の意図を悟ったのか、それを阻止すべく彼の装束を掴むが、そのまま気を失い、ずるずると倒れ込んでしまう。
「筆頭!! 一体何を!?」
「胡鞠様!!」
一部始終を見ていた隊士達が一斉に駆け寄り、各々声を上げる。
剛羅はそんな彼らを黙って見渡すと、静かに口を開いた。
「——俺様からの最後の命令だ。お前ら、胡鞠を連れてここを離れろ」
「な、何を馬鹿なことを! 俺たち突貫隊は一蓮托生、最後まで筆頭と共に——」
「うるせえ!! てめえらじゃ足手纏いになるだけだ! あの化け物はそういう代物だ、一度対峙したなら分かるだろうが!」
突貫隊の隊士達は当然反論したが、続けて放たれた剛羅の怒声に返す言葉がないのか、口を閉ざしてしまう。
「……ったく、辛気臭えな。男が一人、花道を遂げようってんだ。それに水を差すってのは野暮ってもんだぜ。それに、奴さんも一騎討ちをお望みなようだからな」
剛羅がそう言って雷獣に視線を向けると、低い呻き声を上げながら再び雷撃を放つべく紫電を蓄えている。奴の身体と周囲の黒雲に
その様子を見て、隊士達は自分達にできることはもうないと悟ったようだ。目に涙を滲ませ、泣く泣く退却を始める。遊撃隊の隊士も気絶した胡鞠を抱え、「ご武運を」と言い残して去っていく。
「……達者でな。いい女なだけに名残惜しいが、惚れた女に心中させる気はねえ」
剛羅は遠ざかっていく隊士達に抱えられた胡鞠を見ながら、一人密かに、届くはずのない想いを口ずさんだ。
そして、再び訪れる静寂。
一人の豪傑と一匹の異形を残し、他に人も妖魔の姿もない。無数に蠢いていた妖魔は二度の雷撃に巻き込まれ、全て塵と化してしまっていた。
焦土と化した戦場に、雷獣の蓄電する音と奴の低い呻き声だけが不気味に響き渡る。
それを前にして、同じく剛羅も
そして紅く変色した瞳で雷獣を見据え、狂気じみた怒りを
「——さあて、ここからは弔い合戦だ。……てめえに殺された部下達の無念、身を持って想い知れ!!」
————この日、巫神楽北方の境界付近では絶えず雷鳴が轟き、紫と紅、異なる二色の閃光が
全方位から無数の妖魔による襲撃を受け、里全体が戦場となった巫神楽だが、中でも剛羅と雷獣の激突は熾烈を極めた。彼らが戦った北方の境界付近では木々が薙ぎ倒され、山肌が抉られ、元の地形の原型を留めないほどであった。
幾度となく、命を散らすかのように激しく衝突する
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