落日の桃源郷・伍

 舞台に座した千景は、大地をめぐる龍脈の流れに気を集中させる。


 里の周囲に張り巡らされた、血管のように入り組んだ生命の奔流。そこに自身の霊力を乗せ、封印の術式に注ぎ込み、上書きするのだ。


 少しでも心を鎮めるため大きく深呼吸すると、事前に用意されていた特製の鈴鐸すずのつを手に取り、静かに口を開いた。


「——掛けまくも畏き 龍神の大神 」


 霊力を注ぐと同時に、彼の地を創造したる龍神に向け呼びかける。手にした鈴鐸を小さく振ると、千景の静謐でいて凛とした声に加え、しゃんしゃんと鈴の音が静寂の広間に響き渡り、反響した。


幽玄ゆうげんなる龍幻ろうげん御地みち御創みつくりなされし時より 万象を統べたもふ 全能なる御神みかみに」


 古より伝わる言霊が、千景の口から紡がれていく。血晶石に霊力を注ぎ込みながら、一語一語、厳かに詠唱を続けていく。


 だが、静謐な声色と凛とした姿とは裏腹に、千景の心内で沸き起こった黒い感情の渦は激しさを増していった。


 ——生まれついた瞬間から決められた運命。許されない自由。外の世界を、私は知らない。唯一気が休まるのは、妹と過ごす僅かな時間だけ。それすら、立場や責務というしがらみのせいで奪われようとしている——


神勅しんちょくを蒙りて 巫女のつかさに在る身 陰霊退散いんりょうたいさん御業みわざを 司り給ふ御使みつかいとして 此処ここに座し奉る」


 ——そうなったら、私にはなにが残るのだろう? ただ身を捧げ続け、子を残すためだけに一族の男と交わり、老いて、死んでいく。最愛の妹と引き離された挙句——血筋という理由だけで、想い人と結ばれることすら許されない——


 誰にも明かしたことのない、心の奥底に長年封じ込めてきた、一人の男への恋情が今になって膨れ上がっていた。それは叶うことない恋慕への執着となり、千景が注ぐ霊力に穢れを生じさせた。


「——……いけない! 千景!! 今すぐ言霊をやめるのです!!」


 千景から湧き起こる陰の気を察したのか、祈沙羅勢いよく立ち上がり、叫んだ。同時に、一体何事かと、参列した者達からざわめきが起こる。だが、そのどれも千景の耳に届きはしない。完全に言霊と霊力の練り上げに集中しており、その意識は現世うつしよ隠世かくりよの狭間にあった。


 こうなっては、物理的に千景の意識を引き戻すしか方法はない。迷いや葛藤を孕んだ巫女の霊力は穢れたも同然、そんな代物を封印に注ぎ込めば、維持するどころか溢れ出る陰の気に拍車がかかり、どうなるか分かったものではない。


 祈沙羅は即座に行動した。千景が座る舞台へと駆け寄り、慌ただしく数段の階段を登り始める。


 その間も、千景は言霊を詠唱し続けている。


「我が血族の 犯し奉りし 重き大罪を あがなわんがため 数多あまた生命いのちの 安寧を守らんがため この身を 永劫に捧げ————」


 だが、生涯の献身を誓う口上に差し掛かったところで、それ以上言霊を紡げなくなった。身体が、心が、魂がそれを拒絶しているのようであった。


 ——この身を……捧げる? なぜ? 自身の幸福と願いを捨ててまで? ——そんなことに、なんの意味が。ただ搾取されるだけの生涯に、一体なんの意味があるというのだろう——


 天賦の才を秘めた巫女姫といえど、その心は人のそれとなんら変わりない。


 そして、人の心は容易くうつろうものだ。いかに高潔を保ったところで、一度でもほころびが生じれば陽にかげりが生じ、やがて陰へと転じる。


——消えろ、消えろ、消えろ——封印も、始祖も、血筋も、責務も、何もかも、消えてなくなれ——そうすれば、私も、妹も——そして、あのお方も、きっと————


 抗いようもなく、千景の心は、どす黒い感情で満ち溢れていった。


 同時に、千景の意識は更なる深淵の底へと迷い込む。


 そして浮かぶのは凄惨な光景、絶望そのものであった。


 見知った里の風景が、血に染まっていく。異形に蹂躙される中、人々は絶叫を上げ、血肉を裂かれ、骨を砕かれていく。母は子を抱き、老人が膝を震わせ、男達は刃を手に取る。だが、すべては徒労に終わる。炎に焼かれ、血に濡れ、理不尽な最期を迎える。後に残るのは焦土と、無数のむくろ。その惨状は下界へと広がり、行き着く先は人の世の終焉であった。


 これは予見ではない、やがて訪れる現実なのだと、疑う気にはなれなかった。


(——ああ……ああ……!!)


 逃れようのない絶望に打ちひしがれている意識の中、どこからか語りかける声があった。


『————おのが心根の内に巣食う闇に気付いたか、若き巫女よ。ふふ、礼を言う。うぬの働きにより、我が宿策は大成した』


 千景の脳裏に、呪詛のように重く響く声。それはまさしく、邪悪そのもの。途方もない歳月を経て積もり積もった呪念が織りなす、陰の権化であった。


 神々廻一族の始祖、神々廻道真。


 当然のように、声の主がくだんの怨霊であると理解する。


『……となれば、汝にもう用はない。どのみち鳥籠の中で生涯を終える運命さだめよ、我が引導を渡してやろう。なあに、案ずるな。同胞もろとも、まとめて葬ってやろう。当然、汝の片割れも含めてな』


 片割れ。言わずもがな、千鶴のことだろう。


 ふざけるな、そんな非道を許せるものか。怒りに身を任せ声にならない怒号を上げるが、混濁する意識の中では無駄なことだった。


『もはや彼の地だけでは飽き足らん、人の世など無に帰す運命さだめよ。その傲慢、その欺瞞、その汚濁。すべて無に還す他なし』


 道真はさらに、嬉々とした、それでいて底知れぬ憤怒を感じさせる声色で続ける。


 飲み込まれるほどに激しい憎悪と憤怒。それは自身を封じた自らの一族に対してか、それとも人の世そのものに対してか。


 醜い穢れを孕んだ自身の魂では、到底太刀打ちできないほどの巨悪。なす術もなく深淵に渦巻く陰の気に晒されていると、鮮烈な悪意に混じって、僅かな道真の恐れを感じた。


 そして映し出されるのは、人の世を覆い尽くす闇に対し、果敢に挑む二つの人影。


 陰と陽、対極に位置する力を宿した者達を前に、道真は明確な“恐怖”を抱いている。


 そして、唐突に理解する。


 陰は夜叉、陽は巫女姫がそれぞれその血に宿した権能だ。だが陽の存在は、決して己自身ではない。


 そこまで考えて、全て合点がいった。


 偶然ではなかった。全ては必然。


 穢れをはらんだこの身と魂に、もはや巫女姫としての力はない。


 となれば、真に生き残るべきは————


 



「——……景!! 千景!!」


 だが、更なる深淵へと堕ちていく中、一筋の光明が差した。遠巻きに聞こえる悲痛な声に揺さぶられ、意識を引き戻される。


「————っ、……御母様……? ——うっ」


 必死の形相をした母に肩を揺すられるうち、千景の意識は鮮明になっていく。


 同時に、不意に込み上げてきた吐き気が喉を焼くように突き上げ、抗う間もなく胃の中身をその場に吐き散らした。胃液が鼻腔を灼き、目に涙が滲む。何度も何度も痙攣するように反り返る腹部に従って、吐瀉物が喉を突き破るように迸る。


 全てを吐き出し尽くしてもなお、体の奥底に潜む得体の知れない穢れが這い回るような不快感に、思わず口元を手で覆う。


 荒ぶる呼吸を整えながら、千景は全てを悟った。


 ——失敗した。務めの第一歩すら果たせなかった。


 そしてこの失敗は、未曾有みぞうの災厄を招くだろう。



 私は弱い。そして、どうしようもなく愚かだ。


 巫女姫として相応しくなるべく、これ以上ないほどに心身を完成させたつもりではあったが、虚勢を張っていただけに過ぎなかった。


 神々廻千景というむくろの中でひた隠しにしてきた孤独と嫌悪、それらが混じり合い増長された醜悪さこそが、紛れもなく、私という人間だったのだ。


 

 先ほどまで脳裏に響いていた、道真の言葉が再びよぎる。


 『宿策の大成』——『同胞もろとも纏めて』——そして、『人の世を無に帰す』


 過程や手段はまるで見当もつかないが、これらが導く事象は一つだ。


 封印が破られる。大罪人の霊魂が世に放たれる。


 伝えなければ。これから起こるであろう、巫神楽の地を襲うであろう惨劇を伝えなければならない。


「御母様……! 里が、封印が——」


 千景が狼狽えながらも祈沙羅の腕にしがみつき、深淵の中で垣間見た光景を伝えようとした時だった。


 天上の陽は完全に暗雲の影に隠れ、地上を闇が覆った。


 それすなわち、龍脈の流れが龍幻郷の地を一周する、大廻時おおめぐりどきの証。


 例年なら昇りきった陽から注ぐ陽光で地上は照らされるが、この年ばかりは様子が違う。


 燦然と輝く陽は闇に覆われ、その球状の輪郭だけを残し、漆黒の陽となった。それは道真が抱く怨念を体現しているかのようで、陰と陽が反転した証でもあった。


 広間に集まった者達は天上の異変に気付いたのか、空が見える位置まで移動し、天を見上げている。真鶸達は慌ただしく動き始め、敵襲に備えるべく厳戒態勢をとった。


 柘榴は高らかに吠えると、紅い紋様と炎を纏った妖犬の姿へと変化し、舞台上の千景の元へと降り立つ。低い唸り声を上げながら纏う炎を猛らせ、敵意を露わにしている。


 そうしているうちに、ビキビキと音を立てながら、血晶石に亀裂が生じた。


「——……っ、させるものか!!」


 祈沙羅が咄嗟に霊力を注ごうとするが、もう遅い。長年練り上げた霊力を千景に私た身では、もはや無力に等しい。


 一方の千景は立ち上がれない。己の内に巣食う闇を知ってしまった今、巫女姫としての矜持を見失ってしまっていた。


 祈沙羅の抵抗も虚しく、亀裂が広がっていた血晶石は粉々に砕け散り、その余波で社は崩壊した。


 その瞬間、一部の者だけはある変化に気付いた。


 血晶石の崩壊とほぼ同時に、巫神楽を囲むように点在する龍穴から禍々しい邪気に侵された陰の気が、火山が噴火したかのような勢いで立ち昇った。更に、足元を這い回るかのような無数のよこしまな気配。決して視認できたわけではない。だが気の流れを感知できる祈沙羅や千景は、凄まじい悪寒に戦慄した。


 次いで、襲いくる衝撃波。


 咄嗟に柘榴が二人の前に立ち塞がり炎の勢いで相殺しなければ、そのまま吹き飛ばされてしまっていたことだろう。


「——う……柘榴、助かったわ——……っ!?」


 千景は巻き起こった土煙を袖で払いながら言うと、ある違和感を覚えた。


 隣の祈沙羅も同じ感覚を覚えたようで、二人は顔を見合わせる。


「この気配……まさか結界が……!」


 悪い予感は当たった。巫神楽を覆っていた守護結界が、跡形もなく消えていた。


 前例のない出来事に二人が唖然としていると、ざわめく場内に慌ただしい足音が響く。


「————報告!! 報告!!」


 無為率いる、巫神楽周辺の観察・警戒を生業とする千里隊の隊士だ。そんな人間が、神々廻本家の者しか参列を許されない儀式の最中であることを理解した上で、喚くように叫び声を上げながら駆け込んできた。明らかに取り乱しており、酷く動揺している。


 鬼気迫った表情を見るに、吉報であるはずがない。


 誰もが次いで発せられる言葉を待っていると、男は裏返った声で凶報を告げた。


「……っ、む、無為様より、火急の知らせです!! 何者かの干渉により、結界の起点計五箇所は全て崩壊!! 妖魔の大群が……各所より里に押し寄せております!!」


 


 

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