落日の桃源郷・肆
——時は少し遡り、巫神楽。
千鶴が里を出た頃だ。朝露に濡れた石畳を、ある一行が粛々と進んでいた。先導する侍女たちの掲げる灯籠が、朝靄の中、闇の名残をおぼろに照らしている。
一行の中央で歩みを進めるのは、この日、正式に巫女姫となる神々廻千景である。
化粧を施した彼女の顔を覆う白羽の布は、月光を閉じ込めたかのような儚い輝きを帯びている。朱の緒で結い上げられた髪に煌めく金の飾りは、代々継承されてきた証。布の端が微かに揺れるたび、その下から覗く千景の紅を差した唇が見え隠れしていて、普段とは違う艶やかさを醸し出す。
継承の儀に臨むべく特別な巫装に身を包んだ千景の姿は、かつて現人神と呼ばれた一族に相応しい、神秘的なものであった。
そして千景の足元には、子犬姿の柘榴の姿がある。千鶴の言いつけ通り、側を離れず護衛役を務めているようだ。だがなにか感じるものがあるのか、落ち着かない様子だ。
山頂付近の屋敷一帯から伸びる石段を
一行が歩みを進める度、吊り橋からは木板の軋む音が不気味に鳴り響いた。
千景は吊り橋の上を一歩、また一歩と進みながら、前方に
陽は昇っているはずだが、霊山一帯は暗雲が立ち込めているせいで薄暗く、禍々しい気配に包まれている。周囲に漂う先代巫女姫たちの霊魂が灯籠のようにぼんやりと辺りを照らしているが、それがかえって不気味さを増している。
禍々しい気配は、歩みを進める度に増していく。周囲に漂う空気はまるで瘴気のようで、体に纏わり付くような錯覚さえ覚える。封印されている状態ですら、これほどまでに異様な邪気を放っているのだ。もし封印が破られでもしたら、そして始祖が霊魂のみならず肉体まで取り戻してしまったとしたら——そう考えただけで、千景は身震いした。
そうしているうちに橋を渡り終え、ついに霊山へと足を踏み入れる。母に連れられ何度か足を運んだが、やはり慣れるものではない。それほどに、漂う気配はむせ返るほど濃密なものであった。
そこから先は、無数に連なる朱塗りの鳥居に囲まれた石段を上がり、社まで向かう。ここまで来るともはや陽の光は届かない。等間隔に置かれた灯籠の明かりを頼りに一段、また一段と進んでいくうち、まるで冥界へと迷い込んでいるような感覚に襲われる。
石段を登りきり社がある空間に出ると、そこには既に多くの者が集まっていた。広場の中心には儀式用の小さな舞台が用意されており、それを取り囲むように簡易的な座敷が敷かれ、そこには重役達や屋敷で仕えている侍女達が勢揃いしている。道元は床に伏したまま未だに回復の兆しが見えないのか、姿がない。護衛には真鶸と彼が率いる数名の隊士があたっており、緊迫感に包まれた表情で佇んでいる。
つぐなの姿も、この場にはない。秘めた才覚を見出され、例外的に千景の弟子となり侍女としても仕えているわけだが、言ってしまえばよそ者に変わりない。神聖で由緒正しい継承の儀に同席することは許されなかった。
「——心の乱れは収まりましたか」
千景が広間に足を踏み入れると、当代巫女姫にして、千鶴と千景の母である神々廻祈沙羅が歩み寄ってきた。彼女の装いは至って平凡な巫女装束だ。娘へ立場と務めを継承するため、巫女姫としての巫装はもはや不要ということなのだろう。先祖代々受け継いできた責務を全うできるからか、その表情は心なしか穏やかであった。
「はい。迷いはこの装束に袖を通す前に捨て去りました」
千景は一呼吸おいて、自身に言い聞かせるように断言した。迷いは禁物、儀式に臨むには、心を清く強く保たねばならない。
「よろしい。封印を維持するためには私たちのような直系の女が宿す霊力が必要です。それも高潔で、一切の穢れを知らないものでなければなりません。貴女はこの日のために生まれ、崇高な志で修練を積んできた。その
慈愛に満ちた表情で語る母から送られた賞賛の数々に、千景は言葉が出なかった。幼い頃から巫女修行に明け暮れてきた千景を見る母の目は、常に厳格であった。だがその厳しさも、今日という日を万全な状態で迎えさせるためのものだったのだと、改めて実感する。
「千景、貴女を誇りに思います。生まれ持った才覚に自惚れることなく研鑽を積んできた貴女に、一人の巫女としてこの上ない敬意を」
そう言って、祈沙羅は千景を優しく抱擁した。
「御母様……はい、これまでのご指導、感謝致します」
同じく千景も、母を抱きしめる。
自分は後継の道具でしかない、求められているのは神々廻千景という一人の娘ではなく、血筋そのものに過ぎないのではという疑念は常にあった。だが、母の抱擁ではっきりと分かった。それは紛れもない母から娘に対する愛、決して自分は
——ただ、もし。
そんなことが頭をよぎり、
神々廻本家の人間に近づくことを許されていない妹は、当然この場にはいない。
もし叶うなら、近くで見守っていてほしかった。
(——いけない)
母と交わした束の間の抱擁を終えると、雑念を振り払うように、舞台へと歩み出る。
今頃、千鶴は巫神楽周囲の警戒にあたっているのだろう。妹が責務を全うしているのだから、姉である自分が浮ついたことを考えている場合ではない。
「——貴女に託します」
背後から、母の声が聞こえた。同時に、母の霊力が身体に流れ込み、血管を伝わって全身に広がっていくのを感じる。これは巫女姫が継承の儀を執り行うにあたり、初代の時代から欠かされる事なく行われてきた習わしだ。
先代の巫女姫が長い時をかけて練り上げた霊力を、後継の者に譲り渡す。その霊力は膨大なもので、器が脆く弱ければ、留めておくことすら難しい。そのため、後継の巫女は絶え間ない修練によって相応しい肉体と魂を作り上げる。その上で、数百年もの間、脈々と継承されてきた霊力を取り込むことで、封印を維持するだけの力を宿した新しい巫女姫となるのだ。
やがて千景を包んでいた緋色の光は収まり、霊力の継承は完了した。
そして千景は背中を押されるように、舞台へと上がっていく。
短い階段を上がる途中、広間に佇む真鶸と視線が交わった。
普段は凛として厳めしい眼差しの中に、今は密やかな想いが宿っている。僅か一瞬のことであったが、白羽の布越しに見つめ合う二人の間に流れる空気は、誰にも触れることのできない深い情感を帯びていた。
舞台に上がった千景は、眼前を見据える。
そこには岩肌に埋め込まれるように建てられた社。木製の格子越しに、真紅の巨石が目に映った。『血晶石』と呼ばれ、千景の背丈を優に超えるその巨石は、初代巫女姫が己の血肉を代価として生み出した封印の依り代だ。その表面に刻まれた幾重もの術式が、今も機能している証として、淡く紅い光を放っている。
(……なんて禍々しい)
改めて近くで見ると、その邪悪さに身の毛がよ立つ。だが同時に、心の奥底で黒い感情が渦を巻き始めた。
——これが全ての元凶。一族に贖罪の運命を背負わせ、最愛の妹に夜叉として生きることを運命付けた諸悪の根源。
こんなものさえ存在していなければ、妹が戦いに身を投じる必要もなかった。今頃、普通の姉妹として肩を並べて笑い合えていたはずだった。
それに、あのお方の身体だって——。
もはや封印などでは生ぬるい。いつか必ず、霊魂ごと滅してみせる。魂の一欠片も残さず、完全な“無”を奴にくれてやる。
心の奥底に巣食う憎悪が肥大していくことに盲目なまま、千景は祭壇のような舞台に腰を下ろした。
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