落日の桃源郷・弍

 曇天に覆われた隠の森を、千鶴は無為によって強大な妖気が探知された南西の方角へと進んでいた。


 朝方だというのに、森の中は薄暗く陰鬱としている。なにより、不気味なほど静まりかえっていた。この時間帯ならば、小鳥のさえずりの一つくらい聞こえてきてもいいものだ。だが、まるで生物の気配は感じられず、森全体が死に絶えてしまったかのようだった。


 時折、邪悪な妖気を帯びた風が枯れ枝を軋ませ、黄ばんだ葉を舞い上げる。その度、千鶴たちの表情が強張った。


 目標は近い。一度だけといえども、対峙した妖魔の妖気ならば体が覚えている。千鶴は風が孕んだ禍々しい妖気を感じ、強大な妖気反応の正体は鎌嚇であると確信した。


 そうなると、不安が残る。自分だけならさして問題はない。かつては夜叉の血を僅かに解放しただけで、奴の片腕を容易く斬り落とせたのだ。さらに解放すれば、完全に仕留めることも容易なはず。


 だが、後ろに続く隊士たちはどうだろうか。


 真鶸は経験豊富な選りすぐりの精鋭を抜粋したと言っていたが、果たして彼らに高位の妖魔を相手取るだけの力量があるのか。身体強化した自身の速さに顔色一つ変えずについてきているあたり、それなりの実力なのは間違いないのだろうが。それでも、懸念と疑念は残る。


 そもそもなぜ、単独で動くほうが遥かに能力を発揮できる自分に、部下を率いる筆頭という立場を与えたのか。


 中途半端な戦力は、正直邪魔だ。それに、他者を庇いながらの戦闘はどちらかというと苦手な方だ。存分に力を発揮できない要因となり得る以上、足枷という他ない。


 聡明な寂瑜の発案とはいえ、神々廻家直々の命となると、どうもきな臭い。


 もしくは、なにか別の意図があるのか——。


 

 走り続けながらそんなことを考えていると、遥か上空で、甲高いいななきが聞こえた。


 曇天の空を見上げると、木々の隙間から一羽の鷹が高速で移動する千鶴の部隊を追尾するように飛んでいる。無為が飼育する鷹だ。独立して行動する千鶴たちへの、ささやかな支援である。鷹の眼を通して、その視界は巫神楽にいる無為と共有されているため、なにか異変があれば報告せずとも把握することができる。



「——止まれ」


 しばらくの間森の中を疾走した頃、千鶴は部下たちに停止を促した。


 乱立する木々の先、少し開けた所で待ち構えているように旋回を続ける旋風を見つけた。同時に、千鶴は確信する。このおぞましい妖気、間違いない。やはり旋風の正体は鎌嚇であった。


 千鶴達が木々の影や茂みに身を隠し様子を伺っていると、やがて旋風は収束し、一つの獣のような形を成した。


 そして鎌のように湾曲した腕を持つ妖魔、鎌嚇が姿を現す。


 数ヶ月前、千鶴に切断された片腕は再生していない。失った腕の恨みは凄まじいのか、纏う風は荒れ狂い、凶暴なまでの殺気と妖気を孕んでいる。


「——ようやく現れやがったか。久しいな、巫女夜叉」


 一方の鎌嚇も、待ち焦がれた宿敵の気配に気付いたらしい。千鶴達が隠れる方向を血走った目で睨むと、高揚した様子で言った。


 対して千鶴は、潜んだまま隊士達の表情を伺う。そこに恐怖の色はない。鎌嚇を前に尻込みしている様子はないが、彼らを率いてからまだ日は浅い。連携を取るといっても、胡鞠とのように阿吽の呼吸とまではいかないだろう。やはり単独の方が優位に立てる——そう判断した。


(私が出る)


 隊士達にそう目配せすると、彼らも頷いた。


 そして、手にした鞘から絶華の刀身を抜き放ち、ゆっくりと茂みから出る。


「……やはり私を誘い出していたのか。まあいい、何度立ちはだかろうと同じだ。もう片方の腕もろとも、その首切り落とす」


「大した自信だな。相変わらず気に食わねえ小娘だ。——だが……夜叉の血を宿していようと所詮は小娘、まだ青い」


「なにを……——っ!」


 鎌嚇の口角がいやらしく吊り上がった瞬間、千鶴は背後に殺気を感じ取った。振り返ると、部下たちが鎌嚇ではなく千鶴に刃を向け、襲いかかろうとしているところだった。


 刹那の瞬間、刀を振りかぶった男と目が合う。その瞳に光はなく、表情から生気は感じられない。亡骸が傀儡のように操られているかのような、妙な気配だ。


 だが、この程度の不意打ちでは揺るがない。一瞬虚を突かれたが、身体は意思よりも早く反応した。男が刀を振り下ろすよりも早く、振り向きざまに流れるような横薙ぎを一閃。無論、峰打ちだ。


 回転の勢いを乗せた一撃を無防備な脇腹に食らった男はそのまま吹き飛び、倒れ込む。だが、すぐに何事もなかったかのようにゆらりと立ち上がった。


「貴様、血迷ったか? なんのつもりだ!」


 気絶させるほどには、力を込めたつもりだ。にも関わらず平然としている男を前に、千鶴は動揺を隠せなかった。部下達とは行動を共にするようになって、まだ日が浅い。深い信頼関係を築けた訳ではないが、恨みを買った覚えはない。


 ——もしくは、最初からあちらの側だったのか。


 それを裏付けるように他の隊士達も各々の武具を構え、千鶴を取り囲むように集まってきていた。こうなっては、もはや背中を預けるわけにはいかない。


 鎌嚇はまだ動く気配を見せないが状況は一転、千鶴は周囲全てを敵と見なし、警戒心を露わにする。


 だが千鶴が男を訝しむように睨んでいると、突然操り人形のように棒立ちしていた男の体が歪み始めた。


「なっ……!」


 異様な光景を前に、千鶴は目を疑った。


 男の身体から生肉が裂けるような音が鳴り、徐々に人の皮が剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、人とは似ても似つかぬ、触手に覆われた妖魔の姿だった。続けて、千鶴を取り囲んでいた隊士達にも同様の変化が起きる。鱗に覆われた肢体、禍々しい角、虫のような羽。隊士の皮を被った妖魔が、続々とその正体を曝け出した。


「おいおい、まだ“それ”を脱ぐのは早いだろうよ。まったく気の早い奴らだ」


「妖魔だと……!? 一体いつから……なぜ今まで気付けなかった……!?」


 もはや理解が追いつかない。


 鎌嚇はあらかじめ知っていたのか、なにやら意味深な言い回しだが、今の千鶴にそんなことを気にする余裕はない。


 妖気に人一倍敏感な自分が、その気配に気付かず今まで過ごしていたことが信じられなかった。


 同時に、凄まじい悪寒に襲われる。里の人間に扮した妖魔がこの場にいるものだけとは限らない。他の部隊の隊士、集落に暮らす民、そして屋敷の人間。同様の存在が紛れ込んでいる可能性は十二分にある。


 そして、姉の顔が浮かぶ。妖気を放つことなく人の姿を装えるのだとしたら、他の者達が気づけるはずがない.


 もし、儀式の場にその異形が紛れているとしたら——。


 その先に待っているのは想定し得る限り最悪な結末。巫神楽は未曾有の惨事に見舞われることになるだろう。


「——くそ!!」


 一刻も早く里に戻り、姉の無事を確かめねばならない。そう思い立つなり、瞬時に血流を操り、身体強化を施す。そして手にした絶華を鞘に収め、地を蹴った。


 狙うは、最初に変化した男。否、男であったもの。


 小柄な千鶴にとって、長尺太刀である絶華は一見持て余すように思えが、それは千鶴が凡人であった場合だ。


 常人離れした身体能力を持つ千鶴は、絶華を体の一部かのように扱う。


 無数の触手に覆われた妖魔目掛け突進すると、妖魔は千鶴を捕えようと触手を鞭のようにしならせ伸ばすが、千鶴にとっては酷く緩慢な動作でしかない。


「はあぁぁぁぁ!!」


 雄叫びを上げながら次々と迫る触手を目にも止まらぬ立ち筋で切り刻み、それでも捌けなければもう片手に握った長い鞘で殴打する。千鶴の動きは、まるで刃を持った獣であった。縦横無尽に地と空を動き回り、刃と鞘、そして四肢から繰り出される触手以上に不規則な斬撃と打撃で突破していく。


 そして勢いを殺さず、無防備になった本体へと迫る。体勢は低いまま、再び鞘に収めた絶華を居合の容量で抜き放つ。刹那の横薙ぎを前に、触手を失った妖魔は体を二分され、青紫色の鮮血を撒き散らしなが地に伏した。


 道場剣術や特定の流派などとは程遠い、ただ異形を殺すためだけに研ぎ澄まされた我流剣術。


 荒ぶる巫女夜叉を前に、一介の妖魔などもはや塵芥じんかいも同然であった。


 かといって、余韻に浸っている暇などない。


 脳裏に浮かぶのは姉の顔。想いを馳せる度、千鶴の身体は熱を帯び、感情を昂らせる。


 こんな有象無象など早々に蹴散らし、里に戻らねばならない。早く、一刻も早く——。


 そう息巻いて、千鶴は次の獲物を仕留めるべく身を翻す。


 だがその瞬間、斬り落としたはずの妖魔の触手が襲来し、千鶴の四肢を縛った。


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