落日の桃源郷・壱

 姉妹が蛍夜の契りを交わしてから一夜明け、また一月がめぐった。


 如意月にょいづき


 龍が所持しているとされる、願いを叶える宝珠にちなんで名付けられたものだ。


 如意月は龍脈をめぐる気が大陸全土を一周し、また新たに廻り始める月と考えられており、輪廻天性、つまり生命の誕生と終焉が収束する月でもあるという言い伝えが残っている。


 特に、逆撫月から如意月へと移り変わったこの日は“大廻時おおめぐりどき”と呼ばれ、神々廻家にとって極めて重要な日でもあった。


 なぜなら、初代巫女姫が始祖・道真の霊魂を封印したのも二百年前のこの日であり、一年の中で最も龍脈が活性化する日でもあるからだ。


 代々神々廻家は、この大廻時に巫女姫継承の儀は執り行ってきた。新たに巫女姫となった者は、一族の存続と人の世の平穏を願い、その霊力を以って封印術を施し直す。そういった一連の儀式を終えることで、当代巫女姫としての証とするのが代々受け継がれてきた習わしであった。


 

 そしてきたる、大廻時の早朝。


 明け方の冷たい空気にじめりとした湿り気が纏わり付く中、神々廻千景は数刻後に執り行われる継承の儀に向け、自室で巫装みそを調えていた。


 鏡の中の少女は、もう見知らぬ人のように思えた。


 障子の向こうには、鉛を溶かしたような空が広がっている。儀式を執り行うには不吉すぎる空模様に、千景は僅かに眉を寄せた。だが、その表情も今は白粉の下に隠されていく。


「千景様、少しお顔を右に」


 侍女に言われるがまま、千景は首を僅かに傾ける。刷毛が頬を撫で、白粉が肌に降り積もる。十六年の生を重ねてきた素顔が、一筆一筆と白く清らかな仮面の下に隠されていく。同時に、紅筆を取った侍女が、千景の唇に近づける。朱の艶が、白磁のような素肌に映える。小さく開いた唇に、紅が滲んでいった。


 ついに母から継承する時がきた、巫女姫という役目。その重みが、今まさに現実として千景の肩のしかかっている。背筋が凛と伸び、おのずと呼吸が浅くなる。空模様など関係ない。たとえ雷が落ちようと槍が降ろうと、この儀式は完璧に務め上げねばならない。


「お髪を結わせていただきます」


 別の侍女が、長年大切に育ててきた漆黒の髪に櫛を入れる。爪先まで響く心地よい感触に、千景は一瞬だけ目を閉じた。幼い頃、母に髪をかしてもらった記憶が蘇る。あの温もりが、今は懐かしい。


 化粧と髪結いを終えると、白無垢の下着に丁寧に袖を通し、その上から緋袴を締める。真紅の色が、鏡の中で白い肌と鮮やかな対比を描く。胸元で結ぶ紅紐も、手慣れた侍女の手により完璧な角度で結ばれていく。


「——お支度が整いました」


立ち上がる千景の緋袴が、さらりと音を立てる。朝靄が障子一枚隔てて立ち込めているというのに、その姿は厳かな光に包まれているかのよう。


 鏡の中の少女は、もはや昨日までの少女ではない。妹と談笑する姉としての面影はなく、そこには凛として清らかな巫女姫としての姿があった。


 千景は深く息を吸い込み、そっと吐き出す。数百年に及び代々受け継がれてきた、神聖な役目。その重みと誇りを胸に、千景は静かに障子に手をかけた。


 そして、思い出す。


 昨夜交わした、蛍夜の誓い。照れくさそうに目を背ける、妹の顔。絡めた指の感覚は、まだ残っている。


 この日のため、これまで生きてきたのだ、案ずることはない。


 一族を永劫終わることのない贖罪の運命から解き放つため。


 妹と過ごした在りし日々を取り戻すため。


「——参りましょう」


 そう告げると、千景は外廊下へと一歩踏み出した。



♦︎



 その頃、懐刃の寄合所は不穏な空気に包まれていた。


 明け方よりも早く、里の周囲を“遠見”の権能によって観察・警戒していた千里隊筆頭・無為から、『南西に強大な妖気反応あり、高速で移動を続ける旋風つむじかぜを発見』との報告が寄せられたためだ。


 龍脈が活性化する大廻時を利用するのは、なにも神々廻家に限った話ではない。妖魔の妖力も増大するため、強い生命力を宿す神々廻の生き血を求めた妖魔がここぞとばかりに襲来することはこれまで何度もあった。


 だがここ数ヶ月の間続いていた、妖魔の前例ない動向をかんがみれば単なる襲撃ではなく、皆同様になにか狙いがあると勘繰るのは必然であった。



 複数の部隊の人員が丸ごと収まるほど広い寄合所には、懐刃頭領である真鶸をはじめ、千鶴、胡鞠、鋼月の三人の筆頭が隊士を引き連れ、緊急招集されていた。無為は普段から居座っている物見櫓ものみやぐらですでに血操術を展開し周囲の監視と情報伝達に専念、剛羅に至ってはまだ昏睡状態が続いていた。


 集まった隊士たちは戦闘用の装束に着替え、迅速に動けるよう装備を整えている。


 千鶴は昨晩、千景から譲り受けた装束を纏っていた。


 上半身には白衣ならぬ黒衣、下半身には腰巻き状に変形した緋袴、腰の帯はさらにしめ縄でがっちりと固定されている。腕甲から細身の具足に至るまで全て真紅と漆黒の二色で構成されている。手にした大太刀・絶華が放つ威圧感も相まって、繊細な造りの中にも物々しさが漂う、なんとも独特な装いである。


 その佇まいを見て胡鞠は「なにそれ、かっこいい!!」などと目を輝かせていたが、厳粛な面持ちで入室してきた真鶸を見ると、ただ事ではないと察したのか途端に大人しくなった。



「——高速で移動する旋風……確か、鎌嚇れんかくと名乗っていた。おそらく奴だろう」


 真鶸から一連の報告を聞き終えた千鶴はそう呟くと、つぐなを保護した時の記憶を呼び起こす。


 巨大な鎌のように発達した両腕から繰り出される、胡鞠では反応すらできなかったほどの俊敏な一撃。加えて、高位の妖魔が有する再生能力。僅かだったとはいえ、夜叉の血を解放していなければ切り刻まれていたかもしれない。対等に渡り合える者は限られている。


「数ヶ月前、お前と胡鞠が遭遇したという妖魔だな。断定はできんが、その可能性は高い」


巫神楽こちらに向かってきているのか?」


「いや、無為の報告によれば、一箇所に留まったまま旋回するような動きを繰り返しているらしい。遠すぎず近すぎず、といったところだ。十中八九、陽動か待ち伏せだろうな。下手な動きは命取りになるが、対処せんわけにもいかん」


「ふむ……」と千鶴が考え込むと、隣に座っていた胡鞠が「はいはいはーい!!」と勢いよく手を挙げ、身を乗り出した。


「あたしが行くよ! あの時はまんまとやられたからね、今日こそ借りを返してやる!」


 胡鞠はそう啖呵たんかを切ると、士気は十分だといった面持ちでふん、と鼻を鳴らした。


「だめだ」


 だが間髪入れずに真鶸は否定する。胡鞠はそのまま床にずっこけ、威嚇する猫のように真鶸を睨んだ。


「なんで!?」


「今日が大廻時ということを忘れたか? 力を得るのは我々だけではない、奴らとて同じだ。一度敗れた者を再び向かわせるような愚策は認めん。それに、今は剛羅を欠いている。突貫隊を率いる筆頭が必要だ。お前は【轟】と【颯】、両部隊を指揮し、里の防備にあたれ」


 真鶸が指示を終えると、同席していた突貫隊の男達は「お願いしやす、姐御あねご!!」と口を揃えた。


「むさ苦しいなぁ……てことは、やっぱり——」


「断る。私は里に留まり、儀式の警護にあたらせてもらう」


 ——このままでは私に白羽の矢が立つ。


 胡鞠の視線でそう感じた千鶴は、即座に拒絶した。


 長らく待ち望んでいた姉の晴れ舞台だ。近づくことは許されていないが、屋敷の者達の目に映らないほど遠目から見守るくらいはできるだろう。身勝手な主張であることは承知の上だ。姉の晴れ舞台に奇襲の可能性がある以上、里を離れるわけにはいかない。こればかりは譲れなかった。


「それも認めるわけにはいかん」


 そう思った矢先、真鶸の一言が突き刺さった。


「なぜだ! あの時、奴の片腕は解放した絶華で斬り落としたんだ、再生もしていないだろう。それに胡鞠もあの時は不意を突かれて全開ではなかった。高位の妖魔といえど、手負いならば引けはとらないだろう!」


「千鶴様、それ遠回しにあたしを馬鹿にしてない……?」


 声を荒げる千鶴に対し、胡鞠は冷やかな目でぼそりと呟く。


 激しい内輪揉めの予感に、集まった隊士達もたじろいでいる。


「そういう問題ではない。千鶴、お前に部隊を率いて向かわせろと、親方様より命が下った。拒否権はない」


「なっ……!? このような時になぜ私が! それに……あの男はまともな判断ができる状態ではないだろう!!」


「口を慎め、無礼者!! よいか、私情に囚われている場合ではないのだ。剛羅と言う戦力を欠いている今、采配を誤れば取り返しのつかない事態になりかねん。お前を筆頭に据えた意味を忘れたか」


「……っ……!」


 返す言葉がなかった。


 仮に、二部隊を率いた胡鞠を派遣したとして、隊士の中から犠牲は必ず出る。隊士を庇いながらでは、胡鞠も本領を発揮できない。優しい彼女の性格を考えれば、傷を負った隊士を捨て置き戦闘に集中するなどできるはずもない。


 部隊の統括と神々廻家の警護を兼任する真鶸が外に赴くのも論外だ。


 ならば、やはり適任は自分しかいない。迅速かつ独立して行動でき、高位の妖魔相手でも互角以上に渡り合える巫女夜叉はこのような時のために存在する。


 そして、昨夜交わした姉との契りを思い出す。


 姉が並々ならぬ覚悟で儀式に臨むというのに、私だけが幼稚な我儘わがままを突き通すわけにはいかない。共に思い描いた未来を絵空事で終わらせないためにも、今は責務を全うしなければならない。そう思うと、絶華を握る手に自然と力がこもった。


「……わかった、手早く片付けて儀式までには戻る。柘榴、お前は姉様のそばに。私が戻るまで姉様を守っていてくれ」


 無理矢理自身を納得させ、隣に控えていた柘榴を優しく撫でる。すると、一吠えする歯切れの良い返事が聞こえた。


「——行くぞ、お前達」


 千鶴がそう言い立ち上がると、後ろに控えていた数名の者達もそれにならった。千鶴を筆頭とした部隊の隊士達だ。筆頭とまでいかずとも精鋭揃い、妖魔討滅に特化された部隊である。


「千鶴様」


 戸口に向かう千鶴を、兵装隊【楔】筆頭、鋼月が呼び止めた。


「くれぐれもご注意を。一新した防具はいずれも耐久性を格段に向上させていますが、万能ではない。高位の妖魔による一撃ともなれば尚更です」


「わかっている、そう易々と触れさせはしないさ。姉様から譲り受けた装束に傷はつけたくないからな」


「一応、私も千景様とご一緒に仕立てたのですが……」


 はは、と鋼月は苦笑いする。


「千鶴様、ちゃっちゃっとやっつけてきてよね!! 危なくなったらすぐ助けにいってあげるから!」


 鋼月に続き胡鞠も声をかけるが、千鶴は「いらん世話だ」とおどけてみせ、隊士達と共に寄合所から出て行った。


 その様子を見計らって、真鶸はやれやれといった様子で話を続ける。


「——よし、では聞け。各部隊の配置を言い渡す」


 真鶸の指示に隊士達が耳を傾ける中、胡鞠は千鶴達が出て行った戸口の方を見たまま、怪訝そうな顔をしている。


「どうかしましたか、胡鞠殿」


 すんすんと鼻翼を震わせながら匂いを嗅ぐような挙動を見せる胡鞠を不審に思い、鋼月は声をかけた。


 胡鞠は人一倍鼻が利くのだ。一度嗅いだ人間や妖魔の匂いは、多少距離が離れていても判別できるほどに。


「あ、ううん、なんでもない。……あたしの思い違いかな。千鶴様の隊の人たち、こんな匂いだったっけ……?」

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