蛍夜の契り・下
巫神楽において巫女姫という身分は、決して権力者ではない。どちらというと“象徴”という意味合いが強く、かつては龍幻郷の想像主・全龍が有したとされる原初の力のうちの一つ、“誕生”の力をその身に宿した
一切の穢れない陽の気を保つことで、傷を癒やし魔を滅する姿は身内だけではなく下界の只人からも神聖視され、人々を導き混沌の時代に終止符を打つ存在と称された。
しかし、始祖・道真が人の世の滅亡を企み大罪人へと身を堕としてからは、同族という理由だけでその名声も地に堕ちたも同然。以来、時代が移ろうに連れて巫女姫の存在は只人達の記憶からは薄れ、今では里内に留まり、ただただ結界と封印を維持するためだけに生涯を捧げる人柱となってしまっている。
まさに籠の中の鳥。自由に羽ばたく翼を失った運命を背負った少女は、今宵、血を分けた妹と過ごす時が最後の自由であると悟っていた。
——もしこれから辿る運命が、歴代の巫女姫達と同じものだとしたら。
姉妹はせせらぎの音に向かってしばらくの間竹藪を進み、禊の滝を訪れた。
「——これは……すごいな……」
滝壺に足を踏み入れた千鶴は、感嘆の声を漏らした。
夜の闇に包まれた滝壺に、無数の蛍が舞い踊る。その光の粒が水面に映る様子は、夜空に散りばめられた星々がそのまま地に落ちてきたかのようだ。辺りには鈴虫の音色と滝のせせらぎが奏でる協奏曲が響き渡り、現実から離れ幻想郷にでも迷い込んだのかと錯覚させる。
「……ふふ、美しいでしょう。そういえば、あなた夜にここを訪れたことはなかったわね」
呆気に取られ立ち尽くす千鶴の横を千景が通り過ぎ、振り向いた。その表情はどこか儚く、寂しげだ。
「ああ……正直驚いた。陽が出ている時とは大違いだ。そういう姉様は、何度か見たことがあるのか?」
「ええ。最初は、あなたが里を抜け出してその後を追った時。あの時は周囲の様子なんて気にかけている余裕はなかったけれど、それから何度か夜に屋敷を抜け出して来たことがあるわ。ここに来ると、不思議と心が鎮まるから」
「……耳が痛い話だな」
幼少の頃、身勝手に里を飛び出した挙句、妖魔に出会し、大木のくぼみに身を隠したあの夜。
身を案じて危険を
——夜叉として覚醒した、あの夜。
成長した今でも、当時の記憶は鮮烈に思い浮かぶ。途端に、拭い切れぬ罪悪感が込み上げてくる。
姉もその夜のことを考えているのか、思い詰めた表情をしている。だが、続く言葉は意外なものだった。
「……ごめんなさい、千鶴」
「……姉様?」
隣に立つ姉は、俯き声を震わせた。
今日の姉は、どこかおかしい。毅然とした振る舞いは崩れ、感情が露わになっている。
そう考えているうちにも俯いた姉の表情は悲痛に歪んでいき、肩を震わせる。そして、とうとう目からは一筋の涙が流れた。溢れ出る感情をせき止めていたなにかが、ついに決壊したのだ。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……! 就任祝いだなんて、まるであなたが戦うことがめでたいかのように、私は……! あなたを戦いの場に投げ出したのは私だというのに、あなたに修羅となるような生き方を強いたのは私なのに!」
一度決壊した心の防壁は、もう戻らない。千景はその場に崩れ落ち、まるで洪水のように、長年奥底に封じていた本心をただ曝け出した。
「あなたの体に刻まれた癒えきらない傷を見るたびに、自分がどれほど残酷な選択をしてしまったか思い知った! それでもあなたは責務として受け入れ、全うしていた。そんなあなたが心配で仕方なかったけど、中途半端な優しさはあなたの覚悟に泥を塗るだけと思うと、なにも言えなかった……!」
「姉様……」
水辺でうずくまりながら語る姉は酷く小さく、弱々しく見えた。
違う、姉様は私を救ったんだ。姉様が機転を利かせてくれなければ、私は今頃——。
そう伝えたくて、震える姉の背中に手を添える。でも、うまく言葉が出てこない。私の手の温もりを感じたのか、姉の震えが少し収まった。それでも、湧き出る感情は止まるところを知らない。
「あなたは私を守ると言ってくれた。そんな資格などない私を、変わらず『姉様』と呼んでくれた。……嬉しかったわ。でも同時に、怖くて仕方がなかった。あなたが心根のどこかで、私を恨んでいる気がして——」
「それは違う!!」
静寂の滝壺に、怒声が響いた。自分でも驚くほどの声量だった。姉はびくりと肩を震わせ、顔を上げる。木々の隙間から差し込む月光に照らされた姉の顔は、これまでの大人びて見えていたものと違い、少し幼く見えた。
「私が姉様を恨む? 馬鹿なことを言うな!! 私の命は処刑が決まったあの日、終わるはずだった。それを救ってくれたのは他でもない姉様だ。他の者達が私を忌み子として恐れる中、姉様だけが変わらずに接してくれた。私に、新たな生きる意味を与えてくれた」
「でも……そのせいであなたは……!」
「聞いて、姉様。今の私は巫女夜叉だ。姉様を守る刃だ。この身に流れる血は変えようがない、とうに
言葉通り、嘘偽りない本心。
迷いや葛藤はあった。全てを恨み、消し去りたいと自暴自棄になったこともあった。
だが今は違う。姉を守る刃となり、この身が朽ち果てるその日まで、戦い続ける。
それが私の、巫女夜叉としての生き方。
あの日、一族を敵に回し、さらには自身の命をも投げ打って私を救ってくれた、姉に立てた不滅の誓い。
それだけは、変わるはずもない。
「…………いいえ、千鶴。——なら、私もその覚悟に応えるまで」
しばらく呆然とこちらを見つめていた姉は、涙を手で拭って静かに笑った後、そう続けた。
立ち上がった後の表情に、先ほどまでの脆さはない。葛藤を抱えたままの少女の面影は消え、巫女姫・神々廻千景が
「私は、先代様達のような生き方をするつもりはないわ」
「……どういうことだ?」
意図が分からず、聞き返す。
すると、姉は普段の凛々しくも淑やかな表情で、力強く言った。
「始祖・道真の霊魂を、完全に滅する。神々廻が背負ってきた贖罪の運命から、みんなを解放するの」
「……! いや……姉様を疑うわけじゃないが、そんなことが可能なのか?」
千鶴の反応も当然だ。いくら天才と称される千景とはいえ、途方もない言動だ。規格外の霊力を誇っていたとされる初代巫女姫すら、命を引き換えにしたにも関わらず封印がやっとだった。加えて数世代と巫女姫が代わるに連れ、その霊力は衰えてきているのが現状だ。
だが千景の目には迷いがない。若さゆえの戯言ではなく、実現可能だと物語っている。
「私にも考えがあるわ。現状の封印結界術は、里周辺の龍脈を利用し成立しているのは知っているわね? その陣を、龍幻郷全域まで拡大したとしたら、どうかしら。利用できる生命力は、計り知れない。これは初代様ですら実現できなかったことよ」
千景の計画は、至極単純だった。現状の龍脈範囲の利用で封印を継続できているなら、その数倍の規模まで拡大すればいい。その規模ともなれば、封印だけには止まらず、完全に滅することも可能と考えてのことだ。
「……だが、それほど巨大な陣を構築するとなれば——」
「そうね。当然、術者である私への負担も大きい。消費する霊力も膨大なものでしょう。……それに、命を落とすかもしれない」
「それは……! いくらなんでも——」
「千鶴」
認めるわけにはいかない、そう言いかけた千鶴を、千景は制した。
「私が受け継いだ巫女姫の力も、あなたに宿った夜叉の力も、封印も、妖魔も——全てなくなったとしたら、どうなるか考えたことはある?」
唐突な問いだった。始祖の霊魂を滅した後のことを言っているのだろう。霊魂が消滅すれば、封印など不要になる。それを維持する巫女姫も、その血を求めて引き寄せられる妖魔も、それを討ち取る夜叉も、全ての因果が無に帰すだろう。
千鶴が答えあぐねていると、こう千景は続けた。
「神々廻の者達は、ただの人間になる、当然、私達も普通の姉妹になる。そうすれば、いつでも好きなだけ会えると思わない? 一緒に外を駆け回って、一緒に食事をして、一緒に寝て……そんな、なんの変哲もない日常を送れる」
「……悪くないな」
想像したこともなかった。姉妹で過ごした在りし日の光景が目に浮かび、思わず口元がほころぶ。
すると千景は「そうでしょ」と笑い、穏やかな目をして言う。
「一族のこともそうだけど——あなたを運命から解き放って、また一緒に過ごすことが、私の一番の願いだから。……千鶴は、それを否定するの?」
そして最後に、先ほど千鶴が放った一言の仕返しとでも言うように、おどけて笑ってみせた。
「その言い方は、少しずるいな……」
対して、千鶴も苦笑した。
滝壺には、再び穏やかな時間が流れる。
「ありがとう、姉様。ならば私も、これまで以上に全身全霊をかけて、姉様のために戦う」
「ふふ、頼もしいわね。でも、なによりあなたには生きていてほしい。……目的を達したら、また夜に二人でここに来て、蛍を見ましょう」
そう言うと、千景は小指を差し出した。
「今更そんな子供みたいなことを……」
千鶴はそう言い拒絶するが、「いいから」と食い下がる千景に折れ、同じく小指を交わし合わせる。
「約束よ」
「……ああ。きっと」
心根を曝け出し、お互いがお互いの生き方を尊いと信じればこそ、その絆は固く深いものとなる。
——不意に、一つぶの蛍が交わし合った指に止まった。
「……綺麗だな」
千鶴がそう言葉を漏らすと、千景はそれがおかしかったのか吹き出した。
「なにがおかしい」
「だって、急に真顔で言うんですもの。……やっぱり、あなたは変わらないわね。大丈夫、あなたは心を呑まれたりしない」
千鶴がむくれて言うと、千景は笑いながらそう返す。
「蛍の光を綺麗だと感じれる。誰かのために死力を尽くして戦える。そんな純粋で優しいあなたが、ただの血と殺戮に飢えた夜叉であるはずがないわ」
「……よくそんなことを堂々と言えるな」
赤面する千鶴を見て、またも千景は笑った。
なんの変哲もない、取るに足らないやり取り。
立場や生き方を違えた今となっては、それが一番の幸福なのかもしれない。
千鶴と千景、二人の姉妹は、蛍夜の契りを深く胸に刻み込み、最後の夜を過ごした。
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