蛍夜の契り・中

「驚いたよ。まさか姉様がここに来る日がくるなんて」


 千景を迎え入れた千鶴は、再び囲炉裏に火を入れた。万が一を考慮し、部屋の明かりはそれだけだ。


 柘榴も予期せぬ来客に喜んでいるのか、千景に寄り添うように頬を擦り付けている。


「ほら、こんなものしか出せないぞ」


 そう言って、湯気が立つ湯呑みを千景に差し出す。


「あら、ありがとう。——うん、すごく薄味だわ」


 囲炉裏を挟んで行儀良く座った千景は粗茶を受け取ると、洗練された所作で一口飲み、屈託のない笑顔で言った。


「悪かったな、私が淹れる茶なんかに期待する方がどうかしてる」


 対して千鶴も、あぐらをかいた状態で悪態をつきながら茶を啜る。


「なんだか幼い頃を思い出すわ。お母様たちの目を盗んでいけないことをするって、やっぱり刺激的ね」


 千景はいたずらをする子供のような笑顔で笑っている。どこまでも正反対な部分が多い姉妹だが、やはり根は通じているらしい。


「明日には巫女姫になる者の発言とは思えないな……。で、なんでわざわざこんなところまで——」


「それにしても……聞いていた以上に酷い暮らしね。こんなところで寝泊まりしていて風邪は引かないの? 掃除は——うん、ちゃんとしているようね。偉い偉い」


 千景は腰を下ろしたと思えば立ち上がって部屋の隅を指でなぞり、掃除が行き届いているか確認した。妹の置かれた生活環境を目の当たりにして愕然としているのだろうが、生まれてこのかた屋敷暮らしなため、多少の好奇心もあるのだろう。千鶴の話をまるで聞かず、部屋中を見渡してはあちらこちらと歩き回っている。


「姉様! ……そろそろ本題に」


 千鶴がわざとらしく咳払いして言うと、千景は「そう怒らないでよ、ついあなたが

心配で」と、おどけながら再び腰を下ろした。


「千鶴、こっちにおいで」


「なんだというんだ……」


 千景は千鶴に手招きして隣に来るよう促すと、持参した風呂敷に包まれた荷へ手を伸ばした。


「本当は、あなたが筆頭に就任してからすぐ渡したかったのだけれど。ここ最近、任務で忙しかったでしょう? 落ち着いたと思ったら、今度は私が儀式の準備で余裕がなくなってしまって。今夜は月が出ているから行灯も必要ないし、屋敷のみんなは明日に備えてもう寝静まっているから、今晩を逃したらもう機会はない——と思ってね」


 千景は心底嬉しそうに語りながら、風呂敷を解いていく。するとすぐに、包まれた荷の中身が見えた。


「これは……」


 千鶴は目を丸くした。風呂敷の中には、丁寧に折り畳まれた装束のようなものが入っていた。柘榴も覗き込み、興味深げに見ている。


 千鶴が手に取って広げてみると、その全貌が明らかになった。


 黒一色のそれは一見すると忍装束のように思えるが、実際は巫女が着用するような白衣に酷似している。違いといえば、白無垢ではなく漆黒の生地が用いられている点だけだ。他には緋袴を丈の短い腰巻きに改良したような衣装に、腕甲や細身の具足などといった、局所を保護するための防具まで揃っていた。全て漆黒と真紅の二色で構成されていて、色彩だけなら懐刃の隊士が身につけるものと同様だ。


 これだけの荷を非力な千景が一人で持ち運んできたというのはにわかには信じ難いが、腕甲を持ち上げた瞬間、千鶴は納得した。


「軽い……まるで重さを感じない。これはすごいな。姉様が全部仕立てたのか?」


「まさか、私一人にこんな大仕事は無理よ。鋼月に頼みこんで、協力してもらったの。まあ、装いを考案したのは私だけどね」


 そう言うと、千景は得意げに控えめな胸を張ってみせた。


「なるほど、鋼月が……。日中に顔を合わせたが、気味の悪い笑顔を浮かべていたのはそのせいか」


 おそらく、鋼月は自身が制作した装束や防具をいち早く披露したかったのだろう。さぞ職人魂が騒いだことだろうが、千景の粋なはからいを邪魔するのはさすがに気が引けたとみえる。


「そうそう、彼から言伝ことづてよ。『素材には長らく扱いきれなかった異常個体の素材を使っています。耐久性と柔軟性を飛躍的向上しつつ、軽量化に成功しました。火鼠ひねずみの皮はいかなる業火からもその身を護り、霧蜘蛛かすみぐもの糸を織り込んだ生地は闇夜に紛れながらもどれだけ激しい動作にも完璧なまでに対応し——」


「わ、わかった、もういい。あとは自分で聞いておく」


 千景の口上に圧倒されながらも、千鶴はそれをさえぎった。鋼月はこの手の話になると、途端に弁舌になる。そして、その内容を人一倍記憶力のいい千景が代弁するというのがどういうことか。いくら姉の口からといえど、延々と鋼月の言葉を語られるのは聞くに堪えない。


「明日はあなたも警護に付いてくれるのよね? その時がその衣装のお披露目かしら。きっと似合うから、楽しみだわ。ともかく、渡せてよかった。私からの筆頭就任祝いだとでも思って——」


 嬉しそうに語っていた千景だったが、そこまで言いかけて、口を閉ざした。


「……ねえ千鶴。その……少し、外を歩かない?」


 千景は一瞬俯くような素振りを見せたが、普段と変わらぬ穏やかな笑顔で、そう言った。


「外を? ああ、別に構わないが……柘榴、留守を頼む」


 言うと、柘榴は短く吠え、了承の意を伝えた。


 この時間帯なら誰もが寝静まっていることだろうし、やぐらの見張りだけやり過ごせば問題ないだろう。


 少し戸惑ったが、そう判断し、千景の提案を受け入れた。


 普段なら柘榴も連れ歩くが、なぜかこの時ばかりはその気にならなかった。


 なにより、こういった時に見せる姉の笑顔には、見覚えがあった。


 禊の滝で顔を合わせる度、私の体に刻まれた癒えきらない生傷を見た後、何事もなかったかのように話し始める時に見せる笑顔。感情を押し殺し、それを悟られまいと気丈に振る舞う時と同じものだった。





 月光のみが照らす夜更けの集落を、姉妹は隣あって歩く。


 その足取りは、言葉を交わさずとも、自然と禊の滝へと向かっていた。


 こうして肩を並べて歩くのは、何年ぶりだろうか。少なくとも巫女夜叉と呼ばれる前、屋敷で共に暮らしていた頃が最後だ。


 千鶴はそんなことをぼんやり考えながら、姉の端正な横顔に目だけ向けて歩いた。


 

 そうしているうち、集落へと辿り着く。


 集落を囲むように設置された櫓には、複数の松明の灯りが見える。継承の儀前夜だからか、監視の目は厳しい。


「——やはり門は閉じられているか……。姉様、迂回しよう。足場は悪くなるが、監視の目は掻い潜れる」


 千鶴が斜面に隠れたまま頭を覗かせ様子を伺うと、たしかに閉門していた。滝壺に行くには集落を横切り、山道脇の竹藪を通るのが近道なのだが、これではそうもいかない。


「静かに、誰か来るわ」


 千景はそう言うと、千鶴の背を引っ張った。


 二人が息を潜めていると、姉妹が来た方向とは逆の通路から、複数の男の声が聞こえてきた。どうやら、里周辺の警戒にあたっていた隊士たちが帰還したようだ。それに伴い、木造の門が低い音を立て、徐々に開かれていく。


「そうだ、いい手があるわ」


 千景はそう言うと、千鶴を抱き寄せ、自身が身につけている羽織を被せた。それなりに大きな造りらしく、姉妹二人の体をすっぽりと覆った。


「このまま正面から入りましょう。あの人たちの後ろに付いていれば大丈夫なはず。だから、ね?」


「正気か!? こんな薄布でそんなことができるわけ——」


 千鶴が声を押し殺したまま言うと、千景はその口元に指を押し当て、黙らせた。


 ああ、まただ。してやったりとでも言いたげなこの表情、おそらく何を言っても聞かないのだろう。


 思惑はすぐに理解できた。流されるまま、姉の華奢な体を背に抱え、自身の目元以外を羽織で覆う。わざわざ姉を抱き抱えたのは、足音を殺すためだ。歩法など知るはずもない姉がすぐ後ろを歩けば、隊士たちは異変に気付く。先ほどの表情は、「だから私をおぶってね」という暗示だ。


 そのまま頃合いを見てぴったりと隊士たちの後に続くと、誰にも悟られることなく通過できた。前を歩く隊士たちは「腹が減ったな」などと言い合い、そのまま食事処へと向かった。


「……どういうからくりだ?」


 山道に入るまで油断はできない。千鶴がささやくように問うと、千景は得意げに語る。


「この羽織も、鋼月が仕立ててくれたの。あなたに渡した装束と同じ霞蜘蛛の糸を織り込んだ手法でね。私が見つからずに屋敷を抜け出せたのも、これのおかげ」


 霞蜘蛛というのは、隠の森に出没する妖の一種だ。体長は人の頭部ほどで、作り出す糸は非常に強靭かつ弾力性に富む。また、周囲の風景に溶け込むように変色する性質があり、特に夜の森では視認すら困難な巣で待ち構え、獲物を狩るのだ。


 鋼月が仕立てた羽織はその性質をそのまま反映させていた。それに覆われた姉妹は、まさしく霞蜘蛛が張った巣のように、誰の目にも映らなかったというわけだ。





 そのまま何事もなく集落を横切り、山道に入った。


「——姉様、そろそろいいだろう」


「別に私はこのままでもいいのだけれど」


 立ち止まり、姉に背から降りるよう促すが、そんなことを言って動かない。


「わかったよ……」


 竹藪を抜ければ滝壺はすぐそこだが、道中はお世辞にも足場が良いとは言い難い。姉一人抱えて歩き続けたところで全く苦ではないし、温もりを感じれて嬉しい自分がいる。なにより姉にそのような獣道を歩かせるのも気が引けて、ため息を吐きながらも、再び歩き出した。


 

 今宵は月がよく見える。


 月光に照らされながら、姉妹は山道を逸れ、すぐ脇の竹藪へと消えていく。


 竹藪からは二人を歓迎するかのように、鈴虫たちが奏でる音色が響いていた。


 




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