蛍夜の契り・上

 同月、巫神楽。


 霊山一帯は、一年を通して満開の緋桜と燃えるように朱く染まった紅葉で彩られる。そのような景観に目が慣れてしまうとまるで時が停滞しているかのように思えるが、所詮この世の全ては諸行無常。俗世と同様、廻り廻って月日は流れている。



 あと数日が経過し月を跨げば、新たな巫女姫の誕生を祝うめでたい月を迎える。だというのに、巫神楽を包む雰囲気はそれとは真逆の陰鬱としたものであった。


 主な理由としては、先代当主・神々廻道継の失踪である。行き先を示す書き置きもなければ、行方を辿る手がかりすらない。文字通り、神隠しにでもあったかのように忽然と姿を消したのだ。


 加えて、当代当主・神々廻道元の豹変。かつての厳粛で堂々した立ち振る舞いは見る影もなく、今や悪夢にうなされているようなうわ言を延々と呟くのみとなった。ここ数ヶ月の間、唐突な頭痛に頭を抱えたり、幻聴でも聞こえているのかと思わせるような兆候はあったが、ついに床に伏してしまった。鍛え上げられた肉体は痩せ細り、表情には生気がなく、天井を見つめる目は虚ろであった。


 頼りになるはずの若き重役である寂瑜も姿をくらまし、巫神楽の治世はほぼ崩壊したも同然である。


 懐刃に至っては、突貫隊【轟】が事実上壊滅。先だっての任務で正体不明の妖魔に遭遇したことにより、筆頭である剛羅は意識不明の重傷、彼が率いていた隊士は一人残らず命を落とすという大惨事に見舞われた。


 そうなっては、当然人員不足に陥る。戦闘を得手とする部隊は胡鞠と、新たに筆頭となった千鶴が率いる二部隊のみ。限られた戦力で妖魔の対処と付近の警戒にあたることを余儀なくされた懐刃だったが、そんな日々は早々に幕を閉じた。


 剛羅が瀕死の状態で里に運び込まれて数日経った頃から、妖魔による被害報告がぴたりと途絶えたのだ。異常個体が目撃されることもなくなり、妖魔の集団化もな見られなくなった。千里隊の監視の目に映るのは無害に等しい妖ばかりで、これまでが嘘のようであった。


 だが、見方を変えればそれは凶兆とも捉えられる。まるで嵐の前の静けさのようで、懐刃の面々は巫神楽周辺の哨戒と探査を続けながらも、心の休まらない日々を過ごしていた。





 ——巫女姫継承の儀が翌日に迫った、曇天の朝。


 妖魔の報告が激減したことにより、久方ぶりに里で夜を明かした千鶴は、朝餉を取ろうと食事処の暖簾をくぐった。すると、隅の席に一人で座る見慣れた人物の背中が目に入る。


 遊撃隊【颯】筆頭、胡鞠だ。


 心なしか、肩を落とし消沈しているように見える。


 彼女の正面に腰を下ろした千鶴は、注文を取りにきた給仕の者に「普段通りのものを」とだけ返すと、胡鞠の様子に目を向けた。


 彼女の目の前には、好物である焼き魚を中心に揃えられた、胡鞠専用の献立が並んでいる。しかし、普段なら目を輝かせながらかぶりつくであろう焼き魚には、ほとんど手がつけられていない。当の本人は、これでもかと山のように茶碗に盛られた白米を気を紛らわせるかのように一粒ずつ、箸で口に運んでいる。


 その目は虚ろで、表情も暗い。普段見せている快活な姿はなく、まさに心ここにあらずといった様子だ。


「……珍しく箸が進んでいないな」


「ん? ああ、おはよう、千鶴様。……うん、まだ三食目」


「三食目……そ、そうか。お前にしては少食だな」


 千鶴が声をかけたことで、やっと胡鞠は気付いたらしい。


 力なく咀嚼を続けながら、無気力に答えた。


 どうやら、今手をつけている分は三食目らしい。食べ終わった皿は早々に片付けられていたため、千鶴は勘違いしたようだ。


 胡鞠は大飯食らいで有名だ。その食事量は何倍も体格が違う剛羅よりも多いため、三食目が少食というのは突っ込みどころ満載だが、彼女の基準に置き換えれば正しいといえる。


 この場に剛羅がいれば「なんだ、胸に栄養が偏るのを気にしてんのか? たしかに、そんなでけえもんぶら下がってたら戦闘の邪魔だもんなあ!」などと豪快に笑い飛ばし、それに胡鞠が腹を立てていつもの痴話喧嘩が始まるのだが、あいにく千鶴はそのような冗談を言える性格ではない。


 二人の間に、一時の沈黙が流れた。


「……その様子だと、まだ回復していないようだな」


 先に千鶴が沈黙を破ると、胡鞠は箸を休め、ようやく食事を中断した。千鶴の予想通りのようだ。胡鞠は早朝から剛羅の見舞いに行っていたのだろう。容体がどうであるかは、胡鞠の表情を見れば明らかだ。


「うん……祈沙羅様と千景様が二人がかりで治療にあたってるんだけど……。傷口を蝕む陰の気が強すぎるからか、今のところ回復の兆しは見えないって」


「そうか……」


「そもそも北の山地は複雑な地形で、突貫隊には不向きだった。任務を命じられたのがあいつじゃなくてあたしだったら……こんなことには……!」


 語るにつれ、胡鞠の声は震えていった。普段から痴話喧嘩の絶えない二人だが、心根では互いを認め、信頼以上の感情を抱いているような節もあった。胡鞠は心底悔しそうに顔を歪め、卓上で握りしめた拳は震えている。


「お前が自分を責める必要はない。相手の素性が不明な以上、誰が赴いても結果は分からなかったんだ。……奴の体力を信じよう。どうせそのうち酒をせびりにやって来るさ。打たれ強さは奴の専売特許だからな」


 千鶴はどう声をかけていいか分からず、ただ事実を述べた。不器用ながらに励ましの言葉を口にすることができるようになったのも、懐刃の同胞と過ごした時間のおかげだ。剛羅の回復を願う気持ちは、千鶴も同様だった。


「……それもそうだね。ありがとう、千鶴様。——にしても、久しぶりに会った気がするよ」


 千鶴の言葉を意外そうに聞いた胡鞠の表情に、多少明るさが戻った。そして、思い出したように言う。


「そうだな、最近まで私もお前も駆り出されてばかりだったからな」


 事実、千鶴と胡鞠が顔を合わせたのは久方ぶりであった。それがなんだかおかしくて、二人は静かに笑い合った。


「ふふ、千鶴様もすっかり筆頭の一人だもんね。もう慣れた?」


「まあ、なんとかな。隊の者達もよくやってくれている」


 そうなれば、自然と会話も弾む。二人はしばらくの間、他愛のないやり取りを楽しんだ。


 

「——そういえば千鶴様、こんなところにいていいの?」


 不意に、胡鞠が切り出した。


「なにがだ」


「いや、なにがって……明日でしょ、千景様」


「ああ、いいんだ。儀式の準備で私の相手をする暇などないだろうし、また真鶸あいつにどやされても面倒だからな」


「……無理しちゃって」


「うるさい。——私はもう行く。鋼月に研磨を頼んでおいたのを忘れていた」


 そう言って、千鶴は席を立った。


 千景が明日に控えた継承の儀を終え、正式に巫女姫となれば今のように人目を忍んで会うことも難しくなる。そうなる前にと胡鞠なりの気遣いだったのだろうが、儀式に臨む姉の心を乱すような真似をする気にはなれず、千鶴はそのまま鋼月が待つ鍛冶場へと向かうのだった。





 その晩、研磨を終えた愛刀・絶華を受け取った千鶴は日課の鍛錬を終え、床に着こうとしていた。


 集落から遠ざけられるようにしてひっそりと存在するあばら屋は、夜になれば鈴虫が奏でる音色に包まれる、なんとも風流な場所になる。はたから見れば劣悪な生活環境だが、一人の方が気楽だし、柘榴もいる。住めば都とはまさにこのことで、今となってはすっかり落ち着いてしまった。


 早朝の別れ際、胡鞠が「今晩はうちに泊まりなよ」などと言ってきたが、当然断った。うなされているところを見られるのは無用な心配をかけてしまうようで、気が引けたからだ。


 柘榴と共に夕餉を済ませた後、囲炉裏いろりの火を消し、肌着のみとなる。床にむしろを敷いただけの粗末な寝床に寝転び、薄手の麻布団を被りながら「おいで」と柘榴を呼んだ。


 普段ならすぐさま懐に潜り込んできてそのまま夜を明かすのだが、今晩は様子が違った。千鶴には目もくれず、戸口の方をじっと見たまま動かない。


「どうした? 柘榴」


 不思議に思いそう声をかけると、柘榴は急に尻尾をぶんぶん振りながら、嬉しそうに小さく吠えた。


 同時に、鈴虫の音に混じって、微かだが人の足音がした。だが、警戒はしない。もし賊が気配を殺し侵入を試みているのだとしたら、柘榴は全身の体毛を逆立て低い唸り声を発しているだろう。


 そしてそのまま足音に耳を澄ませていると。


「——千鶴? まだ起きているかしら」

 

 突然、戸を叩く音が静寂を破った。その後に続いたのは、聞き慣れていても、今は遠い存在となった声。千鶴の心臓が激しく鼓動を打ち始めた。


(この声は……いや、まさか——)


 千鶴は慌てて立ち上がり、戸口に駆け寄った。震える手で戸に触れ、ゆっくりと引く。

 

 すると、雲が晴れた空から差す月光に照らされ、千景が立っていた。


 普段の巫女装束姿ではなく、白無垢の寝衣に薄手の羽織物。結わずにおろしたつややかな黒髪は風に吹かれてなびき、巫女装束姿とはまた違った美しさを漂わせている。床に着いている時間帯だから当然といえば当然なのだが、その見慣れない姿を前に千鶴は一瞬呆けてしまった。


「姉様!? なぜこんなところまで……屋敷の者に勘付かれたら厄介なことに——」


 が、すぐに意識を引き戻される。千景が訪問して来るようなことはこれまで一度もなかったし、なによりそのような行動は禁じられている。事が露見した場合、咎められるのは千景の方だ。嬉しさよりも戸惑いがまさってしまっていた。


「し、静かに!」


 千景は声をひそめながら、慌てて千鶴の口を手で覆う。


「急にごめんなさい、どうしても渡したいものがあったから、抜け出してきたの」


 どうやら自分の行動の良し悪しは自覚しているようだ。彼女の声は心なしか切迫している。そして背には、ぱんぱんに膨れ上がった風呂敷で包まれた荷を担いでいた。

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