落日の足音

 ——龍暦二百二十四年、逆撫月さかなでつき



 次期巫女姫・神々廻千景が正式に巫女姫の座を継承するまで、残り数週間と迫っていた頃のこと。


 巫神楽から遠く離れた北の山岳地帯を、ある一団が行軍していた。


「——用心しろよ、お前ら! そこら中に妖気が渦巻いてやがる……こいつはただ事じゃねえぞ!」


 降りしきる豪雨と耳を貫くような雷鳴が轟く中、突貫隊【轟】筆頭・剛羅はそれに負けじと野太い声を張り上げ、後ろに続く十数名の隊士達を鼓舞した。


「筆頭、もう引き返しましょうや! これ以上はとてもじゃねえが進めねえよ!」


「馬鹿野郎! なんのためにわざわざこんな僻地まで来たと思ってんだ! 手ぶらで帰ってみろ、それこそ突貫隊の名折れだろうが!」


 次席にあたる男が撤退を促したが、剛羅は任務続行を主張する。


(……とはいえ、そろそろ潮時か——)


 だが、剛羅の表情は険しい。口ではそう言ったものの、撤退するべきか否か、異様な事態を前に、彼は決めかねていた。


 ただでさえ足場が悪い上に、この悪天候だ。いかに屈強な肉体を誇る突貫隊の隊士達といえど、思うように足は進まず、焦燥ばかりが募っていった。

 


 事の発端は、神々廻家の耳に入ったある報告だった。


 巫神楽から遥か北東、五龍血・刑奉ぎょうぶ家の隠れ里があるとされている渓谷付近の山岳地帯で、連日妖しげな黒雲が空を覆い、雷鳴が絶えず鳴り響いているというのだ。


 本来、北の渓谷は枯れ木と岩石があるばかりで草木の生えない土地であり、雨など滅多に降らない。それが雷雨ともなれば、明らかに異常気象であった。


 遠見の異能を有し、索敵及び監視役を担う千里隊【朧】筆頭・虚空羅無為こくらむいの報告によれば、その黒雲はまるで生物のように蠢き、遠く離れていても感じ取れるほどの邪気を放っているとのことだった。


 妖魔が絡んでいるのは疑いようがなく、重要な巫女姫継承の儀を控えた神々廻にとっては、いかなる懸念も排除しておきたかった。放っておけば里を襲う脅威になり得る以上、早急に手を打つ必要があったのだ。


 そして当主・道元より調査の命を受けた懐刃頭領・真鶸は、直ちに部隊を派遣した。


 報告にあった山岳地帯までかなりの距離があるため、複雑な地形でも迅速に移動可能かつ、万が一変異個体の妖魔討滅に遭遇しても対処できる部隊が適任であった。だが、胡鞠も千鶴もあいにく出払っていたため、たまたま里に残っていた剛羅率いる突貫隊【轟】が任務にあたることになった。


 彼らとて、経験豊富で戦闘にも長けた部隊だ。だがあくまで得手とするのは未開の地への先駆けとなったり、姿形や能力など情報の少ない妖魔討伐の際、先陣として切り込むことだ。条件がそれだけならばむしろ適任だったのだが、見通しの悪い天候に加え複雑で足場のおぼつかない地形は、機動力に欠ける彼らにとって致命的な要因となってしまっていた。



「——ったく、とんだ役回りだぜ」


 剛羅はずぶ濡れになって乱れた総髪を乱暴にかき上げ、悪態をついた。


 頭上では依然として雷鳴が轟き、時折まばゆい閃光が視界を覆う。歩みを進めるに連れ、その熾烈さは増していった。


 不意に、一際大きな雷鳴が轟く。一行がたまらず耳を塞ぐと、続いて聞こえてきたのは地の底から脳裏に直接響いてくるかのような、なんともおぞましい獣声だった。


「なんだってんだ、このとんでもねえ妖気は……! ——お前ら!! ここは退くぞ!」


 対して、剛羅が瞬時に選択したのは退却の一手。


 深追いは得策ではない——百戦錬磨である彼の直感が、それが最善だと告げていた。


 剛羅は、真鶸が頭領に就任する以前から懐刃に在籍している最古参である。豪胆かつ豪快な振る舞いとやや粗暴な言動とは裏腹に、人一倍冷静で思慮深い。そして瞬時に的確な判断を下すことができ、引き際を見誤らない男であった。


 そもそも此度こたびの任務はあくまで怪奇現象の調査であり、その原因と正体が分かればそれでいい。姿こそ見えないが、妖しげな黒雲の正体がほぼ妖魔であると断定できた以上、犠牲を払ってまで討伐する必要はない。


 無論、それが叶うなら理想ではあったが、感じ取った凄まじい妖気から察するに、おそらく太刀打ちできるのは筆頭である自分だけだろう。隊士を庇いながらの戦闘は不可能、それほど生ぬるい相手ではない。


 よって最善策は退却あるのみ、里に戻り報告を終えた後、戦力を整えて出直せばいい。


 刹那の間にそう結論付けたが、すでに手遅れであった。


 突貫隊筆頭たる者、常に同胞の先駆けとならねばという矜持が、判断を鈍らせ、引き際を見誤らせたのだ。


「——ぐ……あぁぁぁ……!」


 隊士達に退路を開くべく、背に携えた愛用の大槌を構え立ちはだかるも、隊士達は錯乱したかのように頭を抱えながらのたうちまわり、続々と断末魔を上げ倒れていく。


「おい、どうした! ……くそが! 一体どうなってやがる!!」


 黒雲が放ったおぞましい雄叫びによる影響か、なにか得体の知れぬ妖術か。まるで見当がつかず上空に広がる黒雲を睨むと、一際激しい雷鳴と共に、目も眩むような閃光を放ち始めた。


 そして、生物の鼓動のようにどくん、どくんと脈打ったかと思うと、上空一帯を覆っていた黒雲はばちばちと紫電を帯びながら、一つに収束していく。


「こいつは……まさか——」


 眩い閃光の中、見開かれた剛羅の目が驚愕に染まった。


 焼きつく視界と遠のく意識の中、彼の目が最後に捉えたのは、黒雲が四足獣のような輪郭をかたどった瞬間であった。


 



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