迷い鴉

 特定の場所に鳥居を建てることには、いくつか意味がある。


 まずは、神聖な場所と俗世を隔てる境界の証として。または神の存在を示す目印として。そして大半のものが朱く彩られ、邪気を払うとされている。


 俗世においては、神社や寺院、社の境内と外を隔てるように入り口に建てられていることがほとんどであり、鳥居をくぐった先には神聖な世界が広がっているとされている、というのが通説だ。

 

 巫神楽の周囲にも五つの鳥居が霊山一帯を取り囲むように設置されており、それらは俗世のものとは大きく異なる役割をもつ。


 それは、巫神楽を覆う不可視の結界の起点となっているということだ。


 北、西、南西、南東、東。計五箇所の鳥居を起点として、それらを五芒星状に結びつけるように龍脈に沿って描いた陣によって成り立っている。


 また、鳥居は巫神楽と外界を行き来する五本の通路の出口にもなっており、そこが外界との境界線でもあった。


 外からやってきた只人ただびとが見れば、そこには周囲となんら変わらない、一面草木に埋め尽くされた風景が映る。仮に鳥居をくぐったとしても、結界に施された“惑わしの術式”によってしばらくの間山中を彷徨った挙句、元の位置まで戻る羽目になる。


 だが、巫神楽に住む者ならば、鳥居の先に続く山道をその目に映すことができる。つまり、只人ではどう足掻いても巫神楽には辿りつけない仕組みになっているのだ。


 加えて強力な退魔の霊力が絶えず流れているため、妖魔などの悪しき心を持つ者が近づくこともない。一歩でも踏み込めば、一瞬で浄化され塵となってしまうだろう。


 このような只人を惑わし魔を滅する不可視の結界の存在こそが、数百年という長きにわたり、巫神楽の平穏を保ってきた最大の要因であった。





 寂瑜が山道を下り南東の鳥居の到着する頃には、薄茜色の空はすっかり血のような夕焼けに染まっていた。


 あと一歩踏み出せばそこは巫神楽の外、結界の加護も及ばない、魔が跋扈する世界だ。だが、丸腰の寂瑜から恐れなどといった類の感情は微塵も感じられない。


 ふと、上空に目を向ける。


 すると、茜雲に覆われた空を数匹の鴉が飛んでいるのが見えた。


 おそらく寝ぐらに向かう途中なのだろう、漆黒の翼を羽ばたかせ、かくりの森へと進んでいる。だがそのうちの一羽が群れから離れ、寂瑜の方へと滑空し始めた。


 寂瑜が待っていたかのように片腕を差し出すと、降りてきた鴉はそこに止まった。くちばしの先端に、鈍く輝くなにかを咥えている。鴉はそれを寂瑜の手のひらに差し出すと、今度は鳥居の上へと飛び移った。


 それは酷く濁っている、歪な形をした真紅の結晶だった。寂瑜はその結晶を鑑賞するかのように手の上で転がすと、鳥居の支柱にかざす。すると、結晶はみるみるうちに泥に沈み込むかのように、支柱の中へと消えていった。結晶が全て飲み込まれた後には、なんの痕跡もない。ただ、ところどころ苔が生えているだけだ。


「ひひひ……それで最後か」


 突然、いやらしい薄ら笑いを帯びた耳障りな声がした。無論、寂瑜のものではない。


「ええ。これまで計画通り……素晴らしい働きでしたよ」


 当然のように、寂瑜は鳥居の上に止まっている鴉に向け語りかける。どういうわけか、耳障りな声の主は鴉であった。


「だがよぉ、本当に大丈夫なのか? そいつは人百人分の怨恨と生き血を凝縮した陰の結晶だ。そんなもんを結界に仕込んだら、神々廻の連中に勘付かれそうなもんだが」


「心配無用です。なんのためにあなた方の協力を経て、一族の者を数人始末したと? 彼らの血が混じっていれば、結界も反応はしない。放っておけば龍脈の流れに従い、全ての起点がけがれていくことでしょう」


「ひゃはは! なるほどな、あのじじいを殺ったのは口封じと仕掛けのためってことか。相変わらず抜かりねえ野郎だ」


「私の策には一つ一つ意味がある。最少の手数で最高の成果を出す……はかりごとの鉄則です。あなた方は、ただそれに従っていればいい」


「ああ、別に疑ってるわけじゃねえさ。お前の計略は認めている。ただなぁ、一つどうしても分からねえことがある。……お前、結局どちらの側だ? 神々廻の当主といい、巫女姫の娘といい、随分と入れ込んでたようだが。そう簡単に捨て切れるとは思わねえなぁ」


 表情などあるはずのない鴉が、ニタリと笑った気がした。


 試しているかのような鴉の口ぶりに対し、寂瑜は「黙れ」と一言。途端に、周囲の温度が下がったような錯覚が鴉を襲う。


「妖魔如きが、人の心を語るな。何度言えば分かる、私は妖魔おまえたちの側でも、当代神々廻家の側でもない。……道元は腑抜けで腰抜けだ。只人の言いなりのまま、一族を衰退させる毒だ。恩はあれど、こうなっては見限る他ない」


 寂瑜は長年溜め込んだ怒りを吐き出すように、主を罵倒する。知性漂う口調は荒々しく粗暴になり、忠臣を偽った仮面は完全に剥がれていた。


「私は私の信念に従い行動するのみ。今は利害が一致している、ただそれだけのこと。それに——」


 最後まで言わず、寂瑜は鴉を睨んだ。普段の温厚だが掴みどころのない男の表情でない。腹の底に煮えたぎるような怒りを孕んだ修羅の顔つきであった。


「そうかっかするなって。忘れちゃいねえよ、お前の大切な娘に手出しはしねえ。あの御方も、そんなことは望んじゃいねえからな。まあ、せいぜい成功を祈ってな」


「祈る? なにをたわけたことを。里の防備体制はほぼ私が考案したものだ。その私が練った計画に、万に一つ失敗はありえない。……ただ、一つ忠告しておこう」


「なんだ?」と首をかしげる鴉に、寂瑜は背を向け続ける。


「巫女夜叉もそうだが……真鶸まひわという男を甘くみるな。あの男も防備の構築に一枚噛んでいる。私より頭が切れるということはないが、なにより腕が立つ。計画の障害になる要因があるとすれば、おそらく彼だろう」


「真鶸だぁ? あぁ、刑奉の小僧のことか。奴は所詮流れ者だ、邪魔になるとは思えねえ——」


 鴉の言葉を最後まで待たず、寂瑜は背を向けたまま、鳥居の外へと一歩踏み出した。


「もう行くのか」


 その背に向け、鴉は問う。どこか含みのある言い方だった。


「——ええ、とうに心は決めた。……落日の日まで一月あまりです。それまで、抜かりなきよう」


 振り返らぬまま言うと、寂瑜は歩き出す。


 その先には沈む夕日に照らされた隠の森。まるで炎に包まれているように、全てが朱く染められている。そして森を抜けた遥か先には、俗世の統治者、浅川の居城がある。


「全てはこの世をあるべき姿へと還すため、千景様あのおかたをしがらみから解き放つため————」


 その言葉は誰へ向けてのものか。自身への誓いか、古巣との決別の証としてか。


 背後で鴉が鳴き、羽ばたく音が聞こえた。


 そうして、男は紅蓮に染まった森の中へと消えていく。



 鴉でさえ、帰るべき寝ぐらがあるのだ。


 ならば、自ら故郷を捨てた男はどこへ帰るというのか。



 一人の迷い鴉が歩む道は、いずれにしろ修羅道に違いない。

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