追憶 〜何者かであれ〜
会合が開かれた大広間を後にした寂瑜は、そのまま自室へは戻らず、南東の山道を下っていた。
まもなく日暮れだ。木々の間から覗く空は、うっすらと茜色を帯びている。完全に日が沈めば、外界は妖魔が跋扈する魔境へと変貌する。このような
表情はどこか虚ろげだ。歩を進める足取りも、どこか重く感じる。
寂瑜は一段、一段と石段を降りながら、巫神楽で過ごしたこれまでの半生に想いを馳せていた。
寂瑜は、山腹の集落の生まれであった。
当然、神々廻の血を引いているわけでもなく、重役に就く人間の血筋というわけでもない。
両親も、至って平凡な民であった。母は農作物を作り、父は狩りへと出かける毎日。両親が調達した食材や素材は、自分達の腹を満たし、里を守る者達の装備や兵糧となる。それが、与えられた役割だ。それを生業とし、日々を生きる。
そこに生まれた、何者でもない自分。俗世と隔絶された霊山に築かれた集落で暮らすという時点で普通ではないのだが、それは只人の視点での話だ。
とにかく、このまま成長して、男である自分は父のように狩りを覚え、一人の人間というよりは、集落を形作る一部になるのだろうと思っていた。
だが、常に自問自答していた。
自分が生まれた意味とは?
ここでは誰もが生まれついた瞬間から決まっている生き方に従い、歳を重ね、やがて死ぬ。
一体、そこになんの価値があるというのか。
そんなことを考え毎日を過ごしながら、寂瑜は青年へと成長した。
そしてある日、父が死んだ。いつものように狩りに出かけた際、不幸にも遭遇した妖魔の犠牲となった。
父のことは、特別嫌いであったわけではない。ただ、つまらない男だ、とは思っていた。おそらく自分は薄情なのだろう。多少の喪失感はあったが、それ以上に大した感慨は湧かなかった。悲しみにくれる母の姿を見ると、同情するどころかそのか弱い姿に苛立ちさえ覚えた。
そして、怒りと疑念を抱くようになった。
肉親を失っても大して動揺しない自身の人間性に対してではなく、里の防備体制とそれを管理管轄する者達にだ。
集落の男たちが狩りをする範囲は決まっており、それは報告された妖魔の目撃、または行動範囲に基づく。
事前に精査されていれば、父が狩りを行った場所はすでに安全ではないと断定できていたはずだった。
明らかな怠慢、なんという体たらく。
いくらでもやりようはあったろうに、寂瑜には里を治める者達が酷く無能に思えた。
当時、懐刃という組織は今ほど統制されていなかった。すでに部隊はいくつかあったが、ただ適当に人数を振り分けただけで、明確な役割はなかった。
統率者であった前任の頭領の男も、聡明な人物ではなかったように思える。
組織の構造、人員の采配、個々の警戒意識、根本から改革しなければ神々廻と巫神楽に未来はない。若輩卒ながらに、強く感じたことだ。
そしてその意識は、すぐに体を突き動かした。
衝動的に隊士達が集まる食事処に行き、食事中の男達に対して彼らが犯した失態を責め立てるように罵倒し、改革の必要性を必死に説いた。
当然、隊士たちが見ず知らずの若者の言うことをまともに聞き入れるはずもない。それどころか、いきなり狼藉を働いた若者を許すまいと建物裏に連れて行き、袋叩きにしたのだ。
そして、思い知ることになる。この世は所詮弱肉強食。生まれついた身分がものをいい、才ある芽は摘まれる
父のことも同様だ。ただ狩る側が、狩られる側になっただけのこと。偶然相手が妖魔だったというだけのことだ。
少し考えれば分かろうものだが、感情を抑えることはできなかった。
男たちに殴打され続け、意識が遠のいた。このまま野良犬のように死ぬのかとぼんやり考えていると、不意に淑やかだが凛とした声が響いた。
『——貴方たち、なにをしているのですか』
瞼が大きく腫れ上がったせいでろくに開かない目を向けると、そこには齢十前後であろう少女が、刺すような視線を男たちに向け立っていた。童女の背中に隠れて、さらに幼い妹らしき童女も恐る恐る様子を伺っている。
『……そのような横暴が里と民を守るべき者の振る舞いですか? 恥を知りなさい!』
少女が淑やかな外見には到底似つかわしくない迫力で一喝すると、男たちは『ち、千景様! なぜこのようなところへ……も、申し訳ございません!』と頭を下げながら、怯えた犬のように去っていった。
『大丈夫ですか? ……ごめんなさい。辛い思いをさせてしまって』
この時はなぜ少女が謝るのか、わけがわからず困惑した。だが“千景”という名には聞き覚えがあった。たしか、山頂付近に建てられた屋敷で暮らす神々廻家の長女、やがて巫女姫の座を継ぐ少女だ。集落で暮らす民にとっては、決して目通りの叶わぬ雲上人である。
『貴方様のような里を憂い、想う方がいること、誇りに思います。それは隊士達が奮う刃や神々廻の秘術などより、遥かに尊いものだから』
言葉が出なかった。
なぜ龍神の御使と崇められてきた神々廻家の巫女姫となる少女が、ぼろ雑巾のように地面に横たわる自分などに目を合わせ、ひざまづいているのか。
彼らこそ、生まれついての身分や才覚で全てを判断する集団ではないのか。
凝り固まった先入観は、少女の無垢な言葉によって打ち砕かれた。
目の前の少女の心は、淀んでなどいなかった。幼いながらに立場を自覚し、崇高な理念のもと行動し、生きている。先ほどの謝罪からは、そのような少女が秘めた覚悟や志が感じ取れた。里と民を守る巫女姫となるべく、“神々廻千景”として、確固たる意志を持っている。
そして、心を奪われた。一回り年が離れているだろうが、ずっと大人びて見えた。少女の雪のように白く煌めく肌、絹のように柔らかく艶やかな黒髪。なにより一片の陰りも迷いもない凛とした瞳は、心の奥底まで鮮明に焼きついた。伽話に登場する天女が降り立ったのかと錯覚するほどに、少女は淑やかで、それでいて凛としていて、美しかった。
だが同時に、触れると崩れてしまいそうな儚さを感じた。自然と、彼女を守りたいと思った。
その瞬間、私の心は救われたのだ。
その後まもなくして、彼女の進言により神々廻家当主と面会することになった。彼女の父親である、神々廻道元である。彼女が食事処での一件を報告したことで道元も興味を抱き、そのような異例の事態となった。
大広間の中心に腰を下ろし、厳格な風格に溢れる道元に気圧され、ろくに口も聞けなかった。だがよくよく話を聞いてみると、彼も自分が食事処で隊士達に向け言い放った内容と同様のことを考えていたらしい。
懐刃の隊士達は屈強な肉体と強靭な精神を合わせ持つが、知略に長ける者が少ない。重役達も己の私欲と保身に奔るばかりで、古い考えを捨てようとしない。
それでは変化がない。当然、里に忍び寄る脅威に対抗することもできない。この頃にはすでに異常個体の報告が何件かあり、妖魔による被害も少なくなかった。
彼から向けられた言葉は、おそらく生涯記憶から消えることはないだろう。
『——寂瑜といったな。古きを捨てるには、新しい風が吹かねばならぬ。今この時こそ、お前の優れた知略が必要だ。神々廻と巫神楽の安寧のため、なによりお前がお前らしくあるため、力を貸せ。何者でもなかった男が、真価を発揮する時だ』
感無量とはまさにこの時のような感情を指すのだろう。生まれついた身分に捉われず、才覚ある者ならばその真価を見出す。そのような柔軟さを兼ね備えた男に仕えたいと、心底思った。
そこから、目まぐるしく事は運んでいった。
道元は反対する重役達を抑え、何者でもない青年が練った策に耳を傾けた。
大勢の隊士達が有する能力を基準に五の部隊に分け、それぞれの部隊に明確な役割を与えた。
先遣、隠密、調査、補給、伝達。各部隊が独立しながらもそれぞれ特化した能力を遺憾なく発揮できる仕組みと環境を実現したことにより、巫神楽を取り巻く環境は激変した。
妖魔の発見・討伐はそれまでとは比にならないほど迅速に行われ、装備は充実、情報共有にも余念がなかった。事実、懐刃の組織改革以降は妖魔による被害も減少し、集落の民が命を落とすこともほぼなくなった。
その後、数人派遣された五龍血の末裔、里外から才覚を見出された人材など、特に優秀な者達を各部隊の筆頭、懐刃を統括する頭領に据えたことで、巫神楽の守りは盤石なものとなった。
一連の活躍を評価し、道元は何者でもなかった青年を巫神楽を治める重役の一人へと押し上げた。先代当主をはじめ、他の重役達からの反対派凄まじかったが、成し得た功績の前には小鳥の
そうして、何者でもなかった青年は、巫神楽を治める最年少の重役、寂瑜となった。
懐刃の隊士のように武芸に優れているわけでもなく、血流を操る秘術が使えるわけでもない。
ただ、優れた知略と巧みな口上を
何者でもなかった、平凡で無価値な人生を送り死ぬはずだった自分に慈愛の手を差し伸べた少女。
才覚を見出し、存分に力を発揮できる立場を確立させた我が主。
非凡たるな、何者かであれ。
私が“私”へと再生した恩に報いるため、私は重役の証たる羽織に袖を通したのだ。
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