妖渦の狼煙・参
「……なんじゃ、お主か」
道継は慣れた気配を感じ、ゆっくりと声のした方へ振り向いた。すると、扉の前には長身の男が仁王立ちしていた。剛羅ほどではないが、
男は道元の側近の一人で、道継も顔を合わせる機会が多い、見知った男であった。男は懐刃の隊士たち同様、巫神楽が誇る屈強な戦士だ。妖魔討滅の任務にあたる懐刃とは違い、当主である道元をはじめとした神々廻一族の護衛が主な任であるため、屋敷内に留まっていることがほとんである。
「急に声をかけんでくれるか。年寄りの心臓には堪えるわい」
ひょっひょっひょと、道継は平静を装いおどけてみせる。だが男の無愛想な表情は変わらない。
「……ああ、悪かった。すぐ出ていくわい」
道継はそう言いながら、傍の山積みにされた書物の山に立てかけてあった杖を支えに、ゆっくりと立ち上がる。そしてそのまま扉の方へと歩き出し書院を出ようとするが、それを遮るように男は声をかけた。
「懐のものを出していただこう」
「……おお、さすが鋭いのう。ばれていたか。じゃがこれくらい勘弁してくれんかのう。隠居した老いぼれのささやかな娯楽まで奪わんでくれ」
どうやら勘付かれていたらしい。
道継は思わず肝を冷やしたが、相変わらず飄々とした様子で、懐から一冊の書物を取り出した。
その手にあるのは、先ほど懐に入れた絵巻ではない。直前で男の気配を感じていた道継は、絵巻と一緒に懐に忍ばせておいたのだ。
「できれば内密に頼むわい。
「……懐の絵巻を、こちらに」
男は催促するように手を出すと、一貫して抑揚のない口調で言った。どうやら道継の演技などお見通しらしい。
「絵巻とな? はて、なんのことやら。覚えがないのう」
それでも道継は飄々とした態度を崩さないが、男も断固として譲る気はないらしい。差し出した手はそのまま、沈黙を貫いている。
「……解せぬのう」
沈黙を破ったのは道継だった。訝しむようにじっと男を見据え、真っ白の顎髭を撫でる。その姿は先ほどまでの陽気な老翁ではない。しわだらけの皮膚に覆われた目の奥には、老人とは思えぬ鋭い眼光が宿っている。
「お主、堅物ではあるがここまで融通の効かん男ではなかったと思うが。なぜそこまで執着する? 今さら古書に興味が湧いたというわけでもあるまい」
道継の追求に男は特に反応を示さなかったが、睨み合いの沈黙が少しの間続くと、不意に盛大なため息を吐いた。
「面倒な老いぼれめ……黙って従ってりゃあいいものを」
そして男は、心底忌々しそうに悪態をついた。先ほどまでの無機質な声色ではなく、生々しい負の感情が宿っている。
「……おぬし、人ではないな? 何者じゃ」
道継は眼光を強め、男を睨む。
明確に妖気を感じ取ったわけではない。ただ変貌した男は、強い殺意と酷く邪悪な気配を放っていた。
道継は年老いて隠居した身といえど、かつては当主として神々廻をまとめ上げていた男だ。時を経て体は老いても、磨き上げた業と、幾度となく妖魔と戦ってきたことで培った経験と勘は衰えていなかった。
その勘が、目の前の男の皮を被ったなにかは、見知った人間ではないと告げている。
「これから死ぬ奴に教える義理はねえな。てめえは知りすぎたんだよ。大人しく茶でもすすってりゃあもう少し長生きできただろうに……年寄りの割には、大して賢くなかったなあ」
男はニタリといやらしい笑みを浮かべると、甲高く耳障りな声で高笑いした。大きく開いた口は耳元まで裂け、人のそれとは明らかに異なる鋭利な歯がずらりと並んでいる。鋭く吊り上がった目元に、血走った眼球。いやらしい笑みを浮かべた男の顔は、皮膚が握りつぶした紙のようにしわだらけになっており、もはや人の原型を留めていない。
「おぬし、妖魔か? じゃが——……いや、それよりも、その体の主はどうした」
「さあな。少なくとも、今ごろ土に還ってることだろうよ」
事態は想定よりも遥かに深刻らしい。敵の魔の手は里の外だけでなく、すでに内側まで及んでいるようだ。
同時に、いくつか疑問が浮かんだ。
目の前の男が仮に妖魔だとしたら、なぜ微塵も妖気を感じ取れないのか。
それ以前に、なぜ退魔の結界の中にいながら平然としていられるのか。
問答しようとしたが、そんな余裕はない。変貌した男は、今にも道継に襲いかかろうとしている。
「安心しな、老いぼれ。お前もすぐに後を追わせてやる!!」
言うと、男は道継に向かって右腕を振りかぶりながら、およそ人間とは思えぬ速度で突進した。
「……年寄りを舐めるでないぞ、
対して道継は冷静であった。握っていた杖を腰元に据え、まるで居合かのような構えをとり、目を閉じる。ゆったりとした所作だが洗練されており、熟練した剣士の覇気を放っている。
そして刹那の瞬間、素手で道継に飛びかかった男は短い悲鳴を上げ、空中でよろめくとそのまま書物が収納された棚に突っ込んだ。
「ひょっひょっひょ。丸腰で突っ込んでくるとは……妖よ、おぬしこそ考えが足りんようじゃのう」
「仕込み杖かよ、ちきしょう!! 味な真似しやがって……!」
倒れた棚と大量の書物を振り払いながら声を荒げた男は、忌々しそうに道継を睨みつけた。悲痛な面持ちで、二の腕から下が切断された右腕を押さえている。
男が言った通り、道継の杖には刃が仕込まれていた。握りの部分がそのまま柄となり、その先には
年老いたとはいえ、神々廻の血を継いでいることに変わりはない。血流を操り活性化された肉体と反射を以って迫りくる男の片腕を切り落とすことなど、造作もないことであった。
「さて、そろそろ話してもらおうかのう。……妖よ、おぬし何者じゃ? いつからその男になりすましていた」
道継は鈍色の切先を男の首元に突きつけると、問答する。だが男は変貌した顔で薄ら笑いを浮かべるのみ。
「なにがおかしい。もう片方の腕も斬り落として——」
道継の言葉は、そこで途絶えた。
——道継は見落としていたのだ。
男が押さえている右腕、道継によって切断された切り口からは、一滴たりとも血が流れていない。切り落とされたというより、袖ごと右腕が分離したかのような不自然な切り口だ。
道継が手応えのなさに違和感を感じたころには、すでに遅かった。
「————ごふっ……!」
突如、腹部を襲った激痛。道継が悶えながら視線を下げると、自身の腹から鮮血に染まった、人間のものであろうか細い腕が突き出ていた。
「詰めが甘かったのう、神々廻道継よ」
不意に、耳元でしわがれた老婆のような声が囁いた。
「な、何奴……一体いつからそこに……!」
振り向いた道継は、吐血しながら目を見開いた。
見ると、そこには痩せ細った
嫗の片腕は、道継の背中から腹を貫いていた。道継は
道継は再び吐血し、その場に両膝をつく。それとは入れ替わりに男がゆっくりと立ち上がり、相変わらずいやらしい笑みを浮かべながら道継を見下ろした。先ほどまでの立場は逆転してしまった。
「ヒャハハハ!! ざまあねえな、老いぼれ!」
相変わらずいやらしい笑みを浮かべた男は、道継を見下ろし、愉悦に満ちた表情で高笑いした。失ったはずの右腕もいつの間にか戻っている。だがそれは人のものではなく、赤褐色の体毛にびっしりと覆われた、野太い獣のそれであった。枝のように
「まわりくどい真似をしおって……はじめから儂一人に任せておけば、すでに事は済んでいたであろうに」
「まあいいじゃねえか。せっかくの余興だ、もっと楽しもうぜ。あんたも、これで恨みを晴らせたってもんだろう?」
「ぬかすな。これしきでは足りぬ。
「なら、また同じ手で他の奴らも殺っちまうか?」
「
人ならざる者たちの会話を聞きながら、道継は全てを悟った。
なるほど、どういうからくりか、嫗は男の腕となって一体化していたらしい。
刹那の瞬間、道継の一太刀を浴びる前に自ら腕を切り離し、あたかも切り落とされたかのように見せかけた。そして追い詰められた芝居をしているうちに、分離された腕は嫗の姿へと戻り、無防備な道継の背中を貫いたのだ。
道継の体は熱を失い、次第に意識も遠のく。
薄れゆく意識の中で、ここで起きたことを自らの言葉で誰かに伝える事は叶わないと悟った。この後に及んでも、男からも嫗からも、妖気の類は感じない。里の人間が気配に気付き駆けつけてくることもないだろう。遠見の能力を持つ無為の監視の目も、普段人の寄り付かない書院までは向けられまい。
深い絶望と無力感に襲われながらも、虫の息となった道継は最後まで飄々とした様子で、言葉を絞り出す。
「やはりお主らの狙いは、始祖・道真の復活か……!
道継が言い終える前に、男は獣の右腕を彼の頭部めがけて振り払う。
「うるせえよ。さっさとくたばれ、死に損ないが」
余裕の笑みを浮かべていた道継の頭部は、口上を終えることなく無惨な肉片となり、鮮血を撒き散らしながら飛散した。
「なんと不敬な。御方の名を口にするなど思い上がりも甚だしいわ。……にしても、なんという人の脆さよ。やはり滅ぶが
首から大量に血を流し床に転がった道継の亡骸を見て、嫗はそう呟いた。
「あ〜……面倒だ。また適当な皮を調達しねえといけねえなあ」
「それはいいが目立ちすぎるな。落日の時までまだ猶予がある。抜かりないよう動け」
「ちっ、口うるせえ
「たわけ、自覚がないから
二人——否、二匹の人ならざる者たちは、凄惨な場に似つかわしくない痴話喧嘩をしばらくの間繰り広げ、やがて闇に消えた。
「——……親父殿、ここにいるのか? 入るぞ」
どれくらい時が経っただろうか、自室にいるはずも姿が見えない父を探して、道元は書院を訪れていた。
扉の向こうから返答はない。
おおかた、浮世本を読み漁りながら眠りこけているのだろうと、壁にもたれてうたた寝する父の姿を想像しながら扉を開けた。
「……ここでもないか。まったくどこを彷徨いているのか……早急に話したいことがあるというのに」
室内に一歩踏み出すと、慣れた埃の乾いた臭いが漂っている。ぼんやりと照らされた室内、所狭しと立ち並んだ書棚や
さては集落に赴き甘味でも貪っているのではと疑い、道元は踵を返し書院から出て行った。
だが、数歩進み、立ち止まる。
「……錯覚か」
誰に向かってでもなくそう呟くと、再び歩き出した。
書院に漂う埃の乾いた臭いに紛れて、僅かだが血液のような鉄錆の臭いを感じた気がした。
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