妖渦の狼煙・壱
「寂瑜め……薄々感じてはいたが、まさかこれほどの野望を秘めていたとは……」
道元は寂瑜との会合でのやり取りを思い返し、ぼそりと呟いた。その声色からは寂瑜の本性に気づけなかった自責と後悔の念が感じ取れる。
「じゃからあれだけ言うたろうに。わしの反対を聞かず、
そう言うと、道継は呑気に茶をすすりながら続ける。
「此度の提案とて、腹の内ではなにを企んでおることやら。千鶴を筆頭に据えると言うのは妙案ではあるが、僅かでも覚醒の可能性がある以上は賭けに近い。堅実で用意周到な彼奴にしては、いささか大胆すぎる判断と言えよう。……妖魔殲滅意外にも、なにか意図があるようにしか思えんがのう」
飄々としていた道継の声色が変わった。しわだらけの眉間にさらにしわを寄せ、訝しんでいる。その眼光は道元以上に鋭く、かつての威厳溢れる当主の風格が蘇っていた。
「では聞くが、親父殿にはなにか考えがあるのか」
道元の問いに対し、道継は再び茶をすすった。そして少しの間を置き「いいや、ない」と一言だけ言い切った。声色は元の飄々としたものに戻っている。
「まあまあ、取り決められたことを悔やんだところで後の祭りじゃ。彼奴を重役の立場に置くなら、せいぜい目を光らせておくんじゃな。……にしても、お前もやはり子の親というわけか。少し安心したわい」
「どういう意味だ?」
「千鶴のことじゃよ。真鶸に任せておけば、あの子を悪いようにはせんと信じておるのじゃろう? 処刑を取り決めた時だってそうじゃ。愛娘たちの涙には、お前とて耐えられなかったようだのう」
「……ふん、馬鹿馬鹿しい。今更そのような情などあるものか。隊士たちの能力を熟知している真鶸に任せるのが最良だと判断しただけだ。それに……
そう言うと、道元は目の前に置かれた湯呑みを乱暴に掴むと、すっかり冷めきった茶を一気に飲み干した。
「相も変わらず強情な奴じゃ。嘆かわしいのう……」
その様子を見た道継はやれやれと首を振りながら、ゆっくりと立ち上がった。これ以上話をするつもりはないらしい。
「む、どこへ行く」
道元は自室へと繋がる方角とは反対に歩き出した道継を見て、思わず尋ねた。
「ちょいと、ここ数月の人里襲撃の件で気になることがあってのう。書院を借りるぞ」
「待て。もう親父殿には権限がないだろう——ぐ……!」
「……? なんじゃ、どうした。まさか、茶で酔ったのか?」
屋敷内にある書院には神々廻一族が長きに渡り歩んできた歴史を記した書物が多数保管されており、巫女姫が操る秘術や龍脈に関する記述もある。その歴史的価値は極めて高いため、神々廻家直系かつ地位のある者しか入室を許されていない。
当主の座から退き隠居の身である道継にはその権限がないため、道元はそれを咎めようとしたのだが、急に頭を押さえ苦しそうにうずくまった。
「……いや、なんでもない。少し頭痛がしただけだ」
顔を上げた道元の表情はどこか青ざめていた。先ほどまでの威厳は薄れ、どこか憔悴しているようにも見える。
「ふむ……あまり気張るな、息子よ」
道元は荒い呼吸を繰り返すだけで、返答はない。道継はその様子を訝しみながらも、外廊下を回り自室の方角へと歩いていった。
——道元を除き全員が退室した吹き抜けの大広間には、頭を抱えうずくまる神々廻家当主の姿があった。
「う……ぐ……! もうやめてくれ……! これ以上……私に語りかけるな……!!」
道元はうずくまったまま、情けなく呻いた。だが、周囲には誰もいない。第三者が見れば、気でも触れたのかと思うような光景だ。
先ほどまで室内を照らしていた陽は陰っている。凶兆であるかのように、苦しむ道元を中心とした室内だけが暗く覆われていた。付近を通る者は誰一人としていない。
しばらくの間、大広間からは人が変わったように弱々しく呻く道元の声が漏れていた。
♦︎
巫神楽のすぐそばには、隣接して聳え立つ霊山がある。
その山中に建てられた
滝壺で禊を終えた千景は、その社の中へと足を運んでいた。
目の前では当代巫女姫である母・神々廻祈沙羅が正座したまま、無心で言霊を唱えている。
さらにその先にあるのは人一人分ほどの大きさの、巨大な結晶体。血のように澄んだ真紅の結晶が、稲妻状に折られた
そしてこの真紅の結晶体こそが、初代巫女姫が自身の命と血肉を引き換えに築いた封印の礎であった。
祈沙羅は言霊に自らの霊力をのせて、結晶体へと送っているのだ。巫女姫の血を色濃く受け継いだ千景にはその流れが鮮明に見えていた。
母の霊力が、荒ぶる炎のように結晶体を覆う禍々しい邪気を抑え込み、鎮めていく。
これこそが神々廻の巫女姫に課せられた務めであり、責務であった。一月に一度、龍脈を気が廻る周期に合わせ結晶体に自らの霊力を送り込み、封印を維持する。初代巫女姫以降、祈沙羅を含めた後継者である巫女たちが絶やすことなく引き継いできた務めだ。この封印は里を覆う結界の要ともなっており、封印の維持は結界の維持、すわち里の防衛の維持でもある。
月に一度の頻度といっても、この務めは過酷の一言に尽きる。
巫女姫が内包する陽の気とは対極である陰の気を放ち続ける結晶体の前に座り込み、数刻間という長い時間をかけて霊力を送り込み続け、口では言霊を唱え続けるのだ。
人の世で例えるなら、修行僧が轟々と燃え盛る炎の前で一切水を飲むことすら許されず、経を唱え続けるようなものである。
それほどに、巫女にとって陰の気は心身を侵す毒のようなものであった。
祈沙羅が千景を連れて社に入ってから数刻、屋敷では一波乱あった会合が幕を閉じた頃、不意に祈沙羅の言霊が止んだ。同時に、務めの最中は微動だにしなかった祈沙羅の姿勢が崩れ、両手をつく。
「御母様!!」
「祈沙羅様!!
荒い呼吸で背を上下させる姿に、控えていた二人の侍女と千景が一斉に駆け寄った。
千景は慌てて母の顔を覗き込む。目は虚で、顔色は悪い。長時間霊力を放出していたせいで、かなり消耗しているようだ。
「後は私が。貴女達は屋敷に戻って、休養の準備を」
千景がすぐさま指示を出すと、侍女たちは「ですが……」と顔を見合わせ主を置いていくことに躊躇したが、再度千景が「いいから」と促すと、渋々屋敷へと戻っていった。
「……ふふ。やはり、私ではもう役不足のようですね」
祈沙羅は娘の振る舞いを頼もしく感じたのか、汗を浮かべたまま力無く笑った。
この母親なら千景の美貌も納得できるといっていいほど、祈沙羅は端正な顔立ちをしていた。今は疲弊していて血色悪いが、本来は雪のようにきめ細かで白い肌なのだろう。切れ長で美しい目元は千景と千鶴、姉妹どちらの面影が見てとれる。母娘揃って巫女装束姿のため、一目で親子だと分かる。ただし、巫女姫である祈沙羅の装束はいくつか控えめな装飾が施されていた。
「ですが、貴女が後継ならば安心というもの。頼みましたよ、千景。残りの歳月も決して気を緩めぬよう」
「……私はまだ、御母様が思うほどの力量では……」
千景は母の背中に手を添えながら、つい弱々しく呟いた。
翌月になれば、千景は霊力が最も盛んな全盛期を過ぎた母の後を継ぎ、正式に巫女姫となる。そのため、祈沙羅は巫女姫の務めがいかに重大で過酷であるかを身を以って体感させるため、こうして千景に同伴を命じていたのだ。
千景からしてみれば、気丈に振る舞ってはいるものの、やはり重責であることに変わりはない。果たして自分に母と同様に、それ以上に務めを全うできるのかと自信が持てずにいた。
巫女姫として同じ生涯を歩む母娘は、身を寄せ合うようにして社から去り、山道を下る。
無限に続くかに思えるほどに幾重にも連なった赤鳥居の通路を抜け、巫神楽と霊山を繋ぐ吊り橋を進む。
吊り橋を渡りきると、それまで黙っていた祈沙羅が口を開いた。
「もう結構です。手を煩わせましたね」
祈沙羅はそう言うと、片腕と背に添えられていた娘の手を優しくほどいた。そして屋敷への道を一歩進み、千景へと振り返った。
「千景。貴女はとうに私など超えています。初代様以来の天才との名声もけっして大袈裟ではないほどに。案ずることはありません。貴女には巫女姫としての器も、資格もあるのだから」
「……はい、御母様」
身に余る賞賛。当の本人は事実を述べているだけなのだろうが、師でもある母からそこまで断言されては、下手に濁すわけにもいかなかった。
「私は少し休みます。務めを終えた後は霊力の消耗が著しいのです、有事に備え早く回復しなければなりません。貴女も慣れない経験で疲れたでしょう、よく休んでおくように」
祈沙羅はそう続けると、ゆったりとした足取りで屋敷の方へと歩いていった。
修練を監督する際の祈沙羅は、厳格な父・道元と同様に手厳しく表情を一切緩めない。そんな母には到底結びつかない振る舞いに千景は困惑したが、たしかに疲れたのか体が重い。今日はもう休もうと母の後を追うが、何かに呼び止められたような気がして、思わず振り向いた。
吊り橋越しに見る霊山は、日中に社へ入った時よりずっと妖しく見える。
完全な日没はまだだというのに、霊山の上空だけ暗雲に覆われたように薄暗い。
そしてその薄暗さを照らすように、淡く発光する球体が霊山の周りを浮遊している。先代巫女姫たちの霊魂だ。神々廻の巫女姫はその命尽きたあとも霊魂となり、始祖の封印に務める定めにある。
いずれは母も自分も、先代たちと同様の末路を辿ることになるのかと思うと、急に妹の顔が思い浮かんだ。夜叉も巫女姫も、最期に待ち受ける結末はさして変わらないのかもしれない。そこに自我はなく、魂は捉われたまま。
(……いけない、なにを馬鹿なことを——)
こんなのはらしくないと、ぶるぶると頭を振ってよぎった邪念を払う。
再び霊山に目を向けると、迫る夕陽を浴びて空は血のように染まっている。
吊り橋に吹きつける風音が封印された始祖の怨嗟の叫びに聞こえた気がして、千景は身震いすると足早に屋敷へと戻った。
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