追憶 〜道は違えど・上〜 

 肩に刻まれた傷痕に触れるたび、私は思い出す。


『——嫌……!! 姉様……姉様!!』


 涙を流し、苦痛に顔を歪ませた妹の姿は、強烈にまぶたの裏に焼きついていて、その光景は今でも鮮明に蘇る。

 

 認識が甘かった。見識が浅かった。自覚が足りなかった。術も、精神も、なにもかもが未熟だった。守ると決めたものを守れず、幼い妹にはあまりに酷な選択を強いてしまった。


 どれだけ嘆いても、悔いても、一度違たがえた道が元に戻ることはない。そうと分かっていても、過去の愚鈍ぐどんな自分を呪わずにはいられない。




 ——もう、六年も前になる。


 事の発端は、妹の些細な一言だった。


『里の外に行ってみたい』


 ある日のことだ。早朝の修練を終え、禊の滝で身を清めていた時、千鶴はそう言ってきた。


 私の知らないうちに、里の外に抜け出す道を見つけていたらしい。誇らしげに、静かな水音を奏でる滝を指差した。


 どうやら、水流の幕をくぐった裏には外界まで通じているであろう洞窟があるらしく、妹は目を輝かせて『侍女が迎えに来る前に、こっそり抜け出そう』とそそのかしてきた。大目玉を食うことくらい、少し考えれば分かるだろうに。


 正直、無理もないと思った。好奇心旺盛で活発な妹には、屋敷にこもりきりでひたすら修練に励むだけの生活は耐え難かったのだろう。


 神々廻の巫女は心身ともに高潔を保つため、生まれてから死ぬまでの生涯を巫神楽から出ることなく過ごすと決まっている。


 俗世には人の様々な感情が溢れていて、陰の気に晒される危険があるからだ。巫女の魂が汚れ、霊力が陰に傾けば始祖の封印はおろか、里を覆う結界すら維持できなくなる。

 

 文字通り、生涯をかけて自らの命と時間を里のため、かつて大罪を犯した始祖の霊魂の封印を維持するためだけに捧げるのだ。まるで、籠の中の鳥。


 とはいえ、予め定められた生き方を窮屈に感じることはなかった。その生き方と務めに誇りを感じていたし、なにより共に里の、人の世の未来を守ろうと誓った妹がいる。それだけで、私はなんでも出来る気がした。


 ただ、そんなしきたりがあるとはいえ、妹の『外の世界を一目見たい』という気持ちを理解できないわけではなかった。


 ——当然、私は反対した。


 未来の巫女姫が二人も同時に里から消えたとなれば、大混乱になる。すぐに懐刃の精鋭から捜索隊が編成され、歩みの遅い自分たちなどすぐに見つかってしまうに違いない。


 そして連れ戻された後には、当代巫女姫である神々廻祈沙羅ししばきさら、つまり母様からの叱責が待っているし、どんな罰を課せられるかわかったものじゃない。それ以前に、しきたりを破るなど、私には考えられなかった。


 そうは思いつつも、結局私は甘かった。


 いくら活発な妹といえど、単身で里を抜け出すなどという無謀な行動に出るとは思いもしなかった。


 私はそんな自身の甘さを、すぐに思い知らされることになった。



“千鶴が消えた”——。


 屋敷の人間がそう騒ぎ始めたのは、陽が落ちて、巫神楽が夕焼けの空で茜色に染められた頃だった。


 夕餉ゆうげの支度をする母を手伝いにいこうと自室で準備をしていると、血相を変えた侍女が駆け込んでくるなり、屋敷へ戻っていたはずの妹の姿がどこにもないと報告してきた。


 私は、報告を聞き終える前に着の身着のまま、部屋を飛び出した。


 確信があった。千鶴は、滝壺の抜け道を辿って里を抜け出したのだと。


 長い外廊下で慌てふためく者達の間を掻い潜り屋敷を出て、山腹の集落に繋がる石段を駈け降りた。石畳の整った小道から逸れ、竹林の中を無心で走り、禊の滝へ。静かに流れ落ち続ける滝をくぐると、たしかに人一人が通り抜けられるほどの洞窟があった。中は薄暗く、進むほど外の光は届かなくなっていった。行灯あんどんを持ってくるのだったと後悔したけど、はやる気持ちが足を前へ前へと進め続けた。


 進む途中、おぼつかない足取りのせいか、足を滑らせた。傾斜のついた岩肌を転げ落ちながらも洞窟を抜けると、沈んだ陽の位置からして里の反対側に出たようだった。


 足を襲った鈍い痛みに悶えていると、傍らに転がる、泥に塗れた丈長たけながが目に入った。妹が髪留めに使っていたものだ。嫌な予感がしたけど、偶然落としただけだと思い込んだ。


 飛び出た先が里を覆う結界の外であることは、感覚で理解できた。


 夜の闇がかくりの森を覆ってしまえば、そこはあやかしうごめく死と隣り合わせの世界だ。そうなる前になんとしても妹を連れ帰らねばと、くじいた足を引きずって森の中を進んだ。



 ——千鶴。千鶴。


 森に巣食う妖たちに気付かれないように、声を潜めて妹の名を呼び続けた。


 しばらくそうして森を彷徨っていると、不意に『姉様……?』と掠れた声が聞こえた。


 声を辿り、大木に空いた樹洞の中を覗き込むと、そこで縮こまって震えている妹を見つけた。


『もう大丈夫』


 そう言って手を差し伸べると驚いて体を震わせたが、私を見ると捨てられた子猫のような顔をしていた妹の表情に安堵が見えた。でも、それはすぐに恐怖へと変わった。その視線は、私の背後に向けられていた。


 釣られて振り向くと、そこには二足歩行の狼の姿をした異形が、頬まで裂けた大口から唾液を垂らし、血走った目で私たちを見下ろしていた。それが、初めて妖魔を目にした瞬間だった。


 なぜ妖魔だと分かったのか? 


 そんなもの、決まっている。


 相対するだけで感じる、酷く邪悪で暗い陰の気。向けられた明確な殺意。妹を見つけて気が緩んだのか、接近に気付けなかった。非現実的な光景に硬直してしまった私を、妖魔は荒い体毛に覆われた腕を伸ばし、私を掴んだ。


 ——ああ、食われる。


 迫る妖魔の大口を前に、私は他人事かのように冷静だった。絶望的な恐怖の前では、涙や悲鳴すら出なかった。大切な人の顔を思い浮かべる余裕すらない。そこには、ただ“死”のみがあった。


 不意に、背後で『姉様、姉様』と泣き叫んでいた妹の声が突然止んだ。同時に、私の体は地面に衝突した。


 なにが起きたのか理解できなかった。理解はできなかったが、肘から先がなくなった腕から血飛沫を上げて呻く妖魔の悲鳴が、一瞬のうちになにが起きたかを物語っていた。


 ——目を疑った。


 激痛に悶える妖魔を前に、ぼうっと幽鬼のようにたたずんでいるのは、本当に私の妹なのかと。


 背格好は変わっていない。ただ、私と同じ黒髪はほのかに赤みを帯びて、意思を持ったかのようにゆらゆらと揺らめいている。そして、右手には鮮血を凝固させて作られたかのような、一振りの刃が握られていた。


 あれが妖魔の腕を切断したのだと、瞬時に悟った。


 巫女装束に身を包み、手元には身の丈に合わない長さを誇る鮮血の刃。その出で立ちはなんとも形容し難い不気味さを放っていた。


 おもむろに、うつむいていた妹が顔を上げた。


 ——ぞくり。


 目が合ったかに思えた瞬間、言い表しようのない悪寒に襲われ、全身の毛が逆立つのを感じた。千鶴の瞳は、鮮血のような真紅に染まっていた。すっかり陽が落ちて闇に包まれた森の中で、真紅の双眸は妖しく際立っていた。


 そして、瞬きをした一瞬の間だった。


 妖魔は自身の死を悟ることもなく、細切れの肉片へと姿を変えていた。


 私が言葉を失っていると、千鶴は血払いとばかりに刃でぶん、と虚空を斬った。


 明らかに、手慣れている。結界や治癒術など、巫女姫に必要な霊力を操る稽古しかしか経験のない妹が、なぜ剣術の心得があるかのような所作ができるのか。それ以前に、なぜ身の丈ほどの刃を軽々と振えるのか。


 その道に関する見識がない私の目から見ても、洗練され、熟練された動作のように見えた。


 現状に何一つとして理解できることはなかったが、真紅の双眸は次の標的に私を選んだようだった。


 ざっ、ざっ、ざっと、千鶴は操り人形のように肩を左右に揺らしながら座り込んだ私の方へと近づいてくる。


 同時に、私を無感情に見つめる虚な瞳を見て、理解した。


 そこに、妹の意思はない。が、今にも私の命を刈り取らんとしていた。


 必死に、妹の名を呼んだ。正気に戻れと、何度も叫んだ。


 命が惜しいとか、そんなことは考えなかった。ただ、妹が妹でなくなるのが堪らなく怖かった。


 けれど、千鶴は止まらない。無情にも、鮮血の刃は私めがけて振り上げられた。


 生存本能とでもいうのか、私は無理やり体を起こして避けようとした。意識に対して身体は機敏だったけど、当然、間に合わない。必死に逃げようと背を向けた瞬間に激痛が襲い、悲鳴を上げた。


 斬られた痛みだけではなかった。まるで魂ごと引きちぎられたような、体の核に傷がついたような、そんな経験したことのない痛みだった。


 けれど、致命傷は避けられたらしい。倒れ込み、痛む箇所を抑えると、どうやら左肩から背中にかけて斬りつけられたようだった。どくどくと溢れる血が、白衣に滲むのがわかった。


『——……様』


 消えてしまいそうなほどか細かったが、聞き慣れた声がした。


 ゆっくりと振り返ると。すぐそばまで近づいていた千鶴が刃を振り上げた手を震わせて、血の涙を流していた。瞳の色は変わっていなくても、そこには微かな光が宿っていた。苦しそうに、頭を抱えていた。混濁した意識の中で、なにかがせめぎ合っているかのようで。


 ——千鶴。


 思わず名を呼び、手を伸ばす。


『……姉……様……! ……嫌だ……どうして……こんな……!!』


 千鶴は傷口を抑える私を見て、自身が犯したであろう行いを否定するかのように首を振った。喜怒哀楽が豊かな妹が見せた表情の中でも、この時ほど悲痛に歪んだものは見たことがなかった。


『……姉……様……逃げ……て……——』


 そう言葉を絞り出すと、紅く燃えていた瞳は元の色に戻った。握っていた鮮血の刃が霧散したかと思えば、糸が切れたように膝から崩れ落ち、仰向けに倒れた。


 薄月夜が森の闇を微かに照らす中、鈴虫が鳴く音と、ばくん、ばくんと鳴り続ける心臓の鼓動がいやに大きく聞こえたのを覚えている。


 目の前で起きたことが、現実のそれとはすぐに信じられなかった。しばらく呆然とした後、我に返った私は千鶴の安否を確かめた。


 ……眠っていた。


 遊び疲れて眠った時と同じ穏やかな表情で、静かな寝息を立てながら。久しく見た、愛おしい妹の寝顔。その頬には、うっすらと涙が伝った痕が残っていた。


 その日起きた悲劇を受け入れ理解するには、まだ私は幼すぎた。今でも、悪い夢であってほしいと時々思うことがある。


 ただ、一つだけ確信したことがあった。


 ——もう二度と、これまでのような日常は戻ってこないのだと。




 それから程なくして、懐刃の精鋭で結成された即席の捜索隊が到着した。そこには変化した柘榴の姿もあった。風に運ばれた私たちの匂いを嗅ぎつけ、捜索隊を導いてくれたようだった。思えば、柘榴が千鶴のそばから離れなくなったのもこの頃からだ。


 駆けつけた隊士たちは絶句していた。肩から血を流す私、気を失った千鶴、辺りに散らばった妖魔の肉片。彼らは事の重大さを瞬時に理解したのか、私たちを保護し、嵐のような速さで里へと引き返した。


 里へ戻った私を母が出迎え、叱責よりも先に肩の傷を治療してくれた。その時の母の顔色は夜でもはっきり分かるほどに青ざめていた。


 その後は休む暇もなく、父や母、上役たちから長い聴取を受け、夜更けになってようやく解放された。


 千鶴は厳重な監視下のもと拘束されているらしかった。妹の安否が気がかりだった私は、せめて顔を合わせるだけでもと懇願したが、その望みが叶うことはなかった。



 巫神楽に代々伝わる夜叉の存在と、それに関する予言を母の口から初めて聞かされたのは、その翌日のことだ。


 





 

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