異邦の巫女・望まぬ再会

「なぜ、お前が……」


 意外な形で少女と再会した千鶴は、思わず声を漏らした。 


「あら、聞いていなかったの? 身寄りがないから、巫神楽ここで面倒を見ることになったって」


「そんなことは分かってる。わたしが言いたいのは——」


「つぐな、いつまでそうしているの! 早くこっちにいらっしゃい!」


 千鶴の返答を待たずに千景がそう呼びかけると、「は、はい! ただちに!」と、少女は緋袴の裾を持ち上げ、慌てて小走りしだした。……が、すぐに足を滑らせてしまう。情けない悲鳴を上げながら斜面を転げ落ち、起き上がったと思えば緋袴の裾を踏んづけ、顔から水面に突っ込んだ。見かけ通りというか、どうにも抜けている娘らしい。


「お、お騒がせしました……」


 やっとの思いで姉妹の前までやってきたつぐなは、相変わらず俯いてばかりで、千鶴と視線を合わそうとしない。挙動不審というよりも、想い人を前にしてどう振る舞えばいいのかわからずにいる、とでも言うべきか。


「なぜこいつがこの場所に立ち入っているんだ。それにその装束まで……まさか神々廻の巫女になったとでもいうのか」


 千鶴は髪からぽたぽたと水滴を垂らし立ち尽くすつぐなの姿をまじまじと見つめると、怪訝な表情で言い放った。


 すると、千景がつぐなに歩み寄り、彼女の肩に手を添えて言った。


「そのまさかよ。つぐなは正式に、神々廻の巫女見習いになったの。今は私が時期巫女姫ということもあって、稽古をつけているところ。これはお父様とお母様の決定よ。今後はこの子も懐刃あなたたちの護衛対象になる」


 ——聞きたくない答えだった。鋭い刃物で、心臓を抉られた気がした。


「この子はすごいわ。潜在能力は私以上かもしれない。あなたも任務で見たそうだけど、村一つ覆い尽くせるほどの結界なんて、そう易々と実現できるものじゃない。……と言っても、膨大な霊力もを意のままに操る術と精神を身につけない限りは宝の持ち腐れだけど」


「そ、そんな大層なものでは……精進します!」


 などとやり取りをする千景とつぐなの間には、確かな師弟関係が築かれていた。


 このような事例は、巫神楽の長きにわたる歴史を遡っても類を見ない。


 妖魔の被害を受けた近隣の村人との接触はあっても、その逆はあり得ない。下界への過度な関与は、掟に反するからだ。不可視の結界に覆われた巫神楽の只人が迷い込むことはなく、下界から只人を招き入れることもない。


 その只人の村娘が巫神楽の住人として、ましてや直系の女性しかなり得ない神々廻の巫女見習いとして移り住むなど、ある程度の事情を知っている千鶴からすればにわかには信じられなかった。


 だがつぐなの秘める膨大な霊力は、初代巫女姫以来の天才と称される千景と比較しても遜色がないことが判明した。


 そそて妖魔の不穏な動きが増えつつある今、里を守る結界と、始祖の霊魂を閉じ込めた封印の維持にあたる人材は多いに越したことはない。巫神楽を取り巻く異常な現状が、つぐなという異分子の存在を必要な人材であると重役たちに判断させたのだった。


 弟子の秘めた可能性を誇らしげに語る千景の言葉は、もはや聞くに耐えない雑音であった。


 水面のせせらぎも、葉擦れの音も、鳥の囀りも、滝壺に響く全ての音がやたらとけたたましく聞こえる。


 つぐなの年は、自分と同じ十四歳。同じ巫女装束を着て笑い合う二人の姿は、仲の良い姉妹のようにも見てとれる。その事実が、千鶴の心ををどうしようもなく掻き乱すのだ。



 お前が今立っているのは、本来であれば、わたしがいるはずだった場所だ。


 その人の隣にいるはずだったのは、わたしだったんだ。


 ——そのはずなのに、突然現れたお前がなぜそこにいる?


 笑い合う千景とつぐなを見る千鶴の心の奥底は、醜悪な嫉妬と激しい嫌悪感で満たされていった。無意識に握った拳には力がこもり、爪が皮膚に食い込むのを感じる。陰った瞳で二人を見ていると、不意に千景が切り出した。


「つぐなはね、ずっとあなたに伝えたかったことがあるのよ。でもこの子ったら『緊張して顔を合わせられない』の一点張りで。私もあなたが混乱すると思って、つい報告するのが遅くなってしまったわ。……さあ、つぐな」


 言うと、千景はつぐなの背中を後押しするように軽く叩いた。


「あ、あの……千鶴様!」


 つぐなは意を決したように、初めて千鶴と目を合わせた。どこか懐かしい感覚がしたが、千鶴の胸中は穏やかではない。目の敵とでも言いたげな鋭い視線を送り、その先に続く言葉を待つが、つぐなは物怖じしない様子だ。


「村での一件、おぼろげながらも覚えています。命を救っていただき、ありがとうございました。母の魂も、これで浮かばれます」


 つぐなはそう言うと、深々と頭を下げ、ゆっくりと上げた。


 先ほどまでたじろいでいた少女のものとは思えない、凛とした声色と表情だった。


 思わず、面食らってしまう。


 そうか、この少女は母親を失っている。母親どころか、慣れ親しんだ村ごと奪われてしまった。にも関わらず、その事実を受け入れ、前を向いている。それが分かると、自分が酷く矮小に感じられた。


「……わたしは命じられた任務を全うしただけだ」


 様々な感情が渦を巻いて心の奥底を掻き乱した結果、絞り出せた言葉は感情を持たない人形のようなものだった。


 目線は地に伏せたまま、つぐなはおろか姉の顔も見れない。


 千鶴は踵を返し二人に背を向けると、その場から逃げ出すように駆け出した。


「待って、千鶴! まだ話が——」


 千景は引き止めようと声をかけるが、酷く寂しげに見えた妹の背中はすぐに茂みの向こうへと消えていった。



 千鶴が去った後の滝壺に、ひと時の静寂が訪れる。


 ささやかな水音だけが無機質に鳴り続ける空間に耐えきれず、つぐなは恐る恐る口を開いた。


「あの……わたくし、なにかお気に障るようなことを言ってしまったのでしょうか……」


 そう言うつぐなの表情は暗い。


 千鶴に救われてからというもの、つぐなは彼女に対して憧憬ともいうべき感情を抱いていた。


 母親を殺され、恐ろしさから震えて隠れることしかできなかった自分に対し、千鶴は躊躇なく立ち向かい、一刀のもとに斬り伏せた。朧げな意識の中で垣間見た千鶴の横顔は、それまでの人生で出会った誰よりも凛々しく、美しいものであった。


 孤高にして、毅然きぜん。年も背丈もそれほど変わらないにも関わらず、自分と対極であるかのような存在の千鶴に憧れ、自らの言葉で直接、命を救われた礼を伝えたいと想いを募らせてきたのだ。


 それが目も合わされずに『わたしにとってお前は取るに足らない存在だ』とでも意味するような物言いをされたのだから、消沈するのも無理はない。


「……ごめんなさい、あなたは悪くないわ。千鶴のためになると思って引き合わせたけど、やっぱりそう簡単にはいかないものね。でもあなたが巫女見習いになった以上はいつか顔を合わせる日がきていただろうから、ちょうどよかったかもしれない」


 千景は妹が去ったあとも視線を逸らさず、独り言のように言っている。つぐなには、その背中がどうしようもなく小さく、どこか震えているようにも見えた。


 つぐなが巫女としての素質を見出され、神々廻家を含む一族の上流層の者たちが住む屋敷で暮らし始めてから二ヶ月が経過していた。辺境の村とはまるで異なる土地柄と日常に加え、神々廻家独自の習慣に最初は戸惑っていたが、千景や侍女たちの世話もあり多少は慣れてきていた。


 となれば、緊張や不慣れ、遠慮といったものを理由にしまっておいた感情を吐き出したくなってくる。


 強烈な憧憬を抱く恩人が、どのような人物なのか知りたいと切望するのも当然だった。


 だが周囲の人間に千鶴のことを尋ねても、誰もが言葉を濁した。千鶴の名を口にした途端に青ざめて口を閉ざしたり、それは禁句だとばかりに血相を変えて怒りを露わにする者さえいた。まるで腫れ物扱いだ。


 神々廻の姓を冠しているにも関わらず、屋敷から離れた古屋で生活し、妖魔との戦いに明け暮れる。千鶴の存在は客観的に見ても、一族の中においては明らかに異質だった。もはや英雄視しているともいえる千鶴が、神々廻の人間たちの間では元々存在すらしていなかったかのような扱いを受けているのはどうしても釈然としなかった。


 肝心の千景に尋ねても「その時がきたら話す」と繰り返すばかり。千鶴に対しての一連の反応は事情を全く知らないつぐなでも、複雑な過去があるのだろうと容易に想像できるものだった。


 そして、つぐなは今がなのではと、「……千鶴様のことですが」と今一度、千景に問う。


「なぜ……お屋敷の方々は千鶴様を虐げるのですか? それに、千鶴様と過ごしている千景様は……どこかご無理をされているというか、気丈に振る舞われている気が——」


「そんなことない!! あなたに私たちのなにがわかるの!?」


 言葉を遮るように振り返った千景の声色は、つぐながそれまで感じたことのない圧を含んでいた。普段の淑やかな笑顔と凛とした振る舞いは崩れかけ、端正な顔立ちは悲痛に歪んでいる。


「も、申し訳ありません!! 出過ぎたことを……」


 つぐなは沸き起こった罪悪感からか千景の潤んだ瞳を直視できず、慌てて頭を下げる。


「……いいえ、ごめんなさい。こんな軟弱な精神じゃあなたの師匠失格ね」


 次いで聞こえてきたのは、穏やかだが自嘲じみた声だった。


 ゆっくりと頭を上げ千景を見ると、彼女は酷く弱って見えた。


「——千鶴が変わってしまったのは私のせい。私が……妹を守るべき姉である私が、あの子の歩む道を歪めてしまったの」


 そして千景はぽつり、ぽつりと、昔日の日々を思い返すような遠い目で語り出した。

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