姫と夜叉と・弍
陽が昇りきった穏やかな昼下がり、滝壺に響いていた姉妹のじゃれ合う声は止み、和やかな時間が流れていた。
姉妹は水辺の岩場に並んで腰を下ろし、いつものように談笑している。この時間帯になると高所とはいえ、巫神楽の気温もいくらか上昇する。二人とも裾を捲り上げ、足先を滝壺の冷水に浸すことで心地よい清涼感を堪能している。
巫女装束に着替えた千景はさらに大人びて見えるが、妹に向ける表情は十六歳という年相応のものであった。
「——そういえば、胡鞠に頼まれた野暮用ってなんだったの?」
膝に乗せた柘榴の頭を撫でながら、千景は思い出したように言う。柘榴は姉妹が揃って暮らしていた頃から、常に二人の傍にいた。その様子は姉妹の成長を見守る親であるかのようで、千景にとっても大切な家族の一員であった。
千鶴と同様、千景と過ごすひと時に喜びを感じているのか、彼女の手にすり寄り心地よさそうにしている。
「いや、特に重要なことでもないさ。またどこかの馬鹿どもが食事も取らずに作業に没頭しているから、弁当を届けてくれと言われて」
「鋼月と無為ね。ふふ、みんな相変わらずみたいね」
ため息混じりに言った千鶴だが、その表情はどこか嬉しそうだ。その横顔を見て、千景は思わず微笑む。一度は完全に心を閉ざした妹にできた自分以外の人間との絆は、姉である千景にとって些細な喜びであった。
「まったくだ。あいつら、休むことを知らないんだ」
「それは……あなたが言えることではないでしょう?」
悪戯じみた笑顔を向けるが、千景の瞳の奥は
きっと、装束の下には同様の傷痕がいくつもあるのだろう。
夜叉の血質により異常な自己治癒力を誇っているとはいえ、深手を負えば完治まで数日かかる。それに、痛みがないわけではない。恐怖を感じないわけでもない。異能を秘めているとはいえ、年端のいかない一人の少女であることに変わりはない。
「私のことはいいだろう! むしろそれは姉様のほうだ! もうじき巫女姫になるとはいえ、気負いすぎだ。無駄に責任感が強いと損ばかりだな」
「あら、そうかしら。責任感で言うなら、あなたも相当な堅物だと思うけど? 任務では率先して先陣を切る上に誰よりも活躍してるって、胡鞠から聞いたわよ。無茶するのは相変わらずなようだけど」
「あいつ、余計なことを……!」
そうぼやいた妹の反応を見て、つい吹き出してしまう。
「なにがおかしいんだ!」と顔を真っ赤にして息巻くその姿は、過酷な任務にあたる日々に身をおいているとは到底思えない。生傷が絶えないことなど、おそらく気にしていないのだろう。
「ふふ、別になにも」
だからこそ、余計に辛い。
だけど、
どうせなら、憎悪に満ちた言葉で
なぜ私だけがこんな目に遭うのかと。
なぜ私だけがこのような道を歩まねばならないのかと。
でもきっと、この先口が裂けてもそのような台詞は吐かないだろう。
なぜなら、それが生きる道と定めてしまったから。自分が担うべき役割だと自覚し、自負しているから。
そうと分かっていても、妹の肌に刻まれた戦いの跡を見るたび、抉られた心は悲鳴を上げ、罪悪感が募るばかりだ。
そして、その全ては受け入れなければならないものだ。葛藤も、嫌悪も、後悔も、全て。
愛する妹の運命を修羅道へと捻じ曲げてしまったのは、他の誰でもない、愚かな
「……最近はよく会いに来てくれているけど、忙しくないの? まさか任務を放って来てるんじゃ——」
「そんなんじゃない! 最近は、妖魔の被害報告自体が少ないんだ。だけど、異常な行動を取ったり、強大な妖力を持つ個体が増えてきている。上役達から何も聞いていないのか?」
「さぁ、分からないわ。私はあまり
「妙だな。何か雲行きが怪しいのは間違いない。近頃は頭領も頻繁に僻地に赴いているし、何かあるな」
「
「……? まずい——」
話題が里を取り巻く周辺状況へと変わった頃、微かにパキッと何者かが落ちた枝を踏むような音を聞き取った千鶴は咄嗟に立ち上がり、その場を去ろうとする。
滝壺に足を踏み入れるのは、横にいる姉か巫女に付き従い身の回りの世話をする侍女くらいだ。姉がここにいる今、誰かが現れるとしたら屋敷の人間に他ならない。屋敷周辺に近づくことすら禁じられた千鶴の姿を見られたら、この上なく厄介なことになってしまう。千鶴にとって自分の勝手で姉が責任を問われるのは、なんとしても避けたい事態だった。
「千鶴、大丈夫よ。——うじうじしていないで出てきなさい、つぐな!」
だが、千景は今にも飛び去ろうとする千景の腕を掴んでその場に留めると、崖上に向かって声を張り上げた。
「つぐな……? ——!」
千鶴が訝しみながら姉が呼びかけた崖上の竹林に視線を向けると、「は、はぃぃ……」と情けなく上擦った声と共に、茂みに隠れていたであろう小柄な少女が姿を現した。
なぜか姉と同じく巫女装束を着ており、髪は肩より長い黒髪。顔まわりにかかる部分は赤い組紐でまとめている。胸元には、陽光を反射してきらきらと輝いて見える緋色の結晶の首飾り。
「あ、あの……ええと……」
少女が恐る恐る視線を眼下の姉妹の方へと向けると、滝壺を隔てて、千鶴と目が合う。
瞬間、二月前の記憶が鮮明に蘇った。
「お前は……あの時の……」
自然と言葉が漏れ、足は勝手に一歩、二歩と崖上にいる少女の元へと近づく。
『嗚呼、やはり来てくださった。ようやく、ようやく……——』
恋慕に満ちた言葉を添えて、かつて自身へと向けられた羨望にも似た眼差し、恍惚とした表情、感じた謎の既視感。
高速で脳内を駆け巡る記憶。同時に心は揺れ動き、熱く火照りだす。
二月前は粗末な着物を着ていて、砂埃に塗れた酷い姿だった。身なりを整えた今は別人のようにも見えるが、なぜか確信がある。
その少女は他でもない、妖魔に襲われ廃村と化した村の外れの社で、自ら保護した村娘だった。
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