姫と夜叉と・壱

 昔日の忌まわしい記憶に足取りが重くなりながらも竹林を進み続けていると、微かに滝のせせらぎが耳に入った。


 禊の滝が近い証拠だ。


 幾度となく足を運んでいるにも関わらず、この瞬間はもどかしい。まるで悪さをした子供が母親を前にして萎縮しているようだ。きっとそれは拭い切れるはずもない罪悪感からなのだろうが、我ながら情けなくなる。


 屋敷を追われてからというもの、姉の存在はどこか遠いものになっていた。


 幼い頃、好奇心から里を抜け出したことを母親に悟られ、制止できなかった姉も同罪だとこっぴどく叱られた過去が遠い昔のように感じる。


 そう想いを馳せていると、落葉と朽ちた枝で埋もれた足場が途切れた。


 より鮮明になる、滝の流れる音。風が吹く度に葉が擦れ、鳥が囀る。


 足を止め、眼下を見下ろす。


 そこには、人一人が水浴びするには広すぎる滝壺。白滝が水面に落ちることで起こる波紋が降り注ぐ陽光を反射し、宝珠のように煌めいている。


 そしてその中心には、一人の女性。


 腰まで水中に浸かり、滝壺に差す日差しを全身で浴びるようにして、一糸纏わぬ姿で佇んでいる。その後ろ姿は遠目から見ても美しく、どこか儚い。まるで秘境に舞い降りた天女が休息をとっているかのようだ。


 ——ざあ、と音を立て、風が周囲の枝葉を揺らした。


 同時に女性の背中を覆い隠していた長く艶やかな黒髪がなびき、清流にも勝るほどに透き通った柔肌があらわになる。


 瞬間、千鶴の心は締め付けられた。思わず口元を固く結び、握った拳に力がこもる。


 悲痛に歪んだ目で見据えるのは、女性の左肩から腰にかけて刻まれた裂傷の痕。鋭利な刃物で一閃したかのような傷痕は完全に塞がってはいるものの、痛々しい痕跡を残している。


 直視したくない。だが、目を背けてはならない。それはかつて犯した罪の証、そして戒めの証。


 ——最愛のひとを手にかけた私自身を、決して許してはならない。



「今日は少し遅かったわね、千鶴」


 淑やかな、それでいて凛とした声が、せせらぎの鳴る滝壺に響いた。


「——っ、……すまない、姉様。胡鞠に野暮用を押し付けられてしまって」


 巫女にとって、禊は神聖なひと時だ。


 先人達が担ってきたを全うするため、その身と心に穢れの一つもあってはならない。


 当代の巫女姫である母からその役目を引き継ぐ『継承の儀』を一月後に控えた姉にとって、心身を高潔に保つことがいかに重要であるか千鶴はよく理解していた。


 その邪魔はしたくないと、声をかける機会を木陰から伺っていた千鶴だったが、気配を悟られ、渋々姿を見せる。同胞の前では常に冷静で毅然とした振る舞いを貫く千鶴だが、姉を前にした今は年相応の無垢な少女に見える。


「なにも謝ることはないわ。こうして会いにきてくれるのだから」


 言いながら、女性は妹の方へと振り返ると、優しく微笑んだ。


 神々廻千景ししばちかげ。血の繋がった姉妹だけあって、千鶴とよく似ている。


 ややあどけなさの残る千鶴に対して、千景は二つしか歳が変わらない姉とは思えないほど大人びていた。屋敷で生活する時間が長いせいだろう。肌は白く陽光を浴びて雪解けのように煌めき、細身の体は触れれば簡単に壊れてしまうかのような儚さを漂わせている。飾り気こそないが、だからこそ淑やかな気品が際立っている。


「——それに、あなたが私以外の親しい人と過ごしていることが嬉しいの」


 続けながら、千景は水際に佇む千鶴の方へと歩み寄る。ゆっくりと、腰まで水に浸かっていた体が露わになった。


——ああ、美しい。


 無数の傷と斬り伏せた妖魔の返り血で汚れた私とは、別の生き物のようだ。


「私なんかのところに来ないで、胡鞠達といればいいのに」


 千景は千鶴の目の前に立つと、からかうような笑みを浮かべ、わざとらしく言った。妹とよく似た切れ長の目から向けられる眼差しは優しく、慈愛に満ちている。


「……それは……嫌だ……」


 込み上げる羞恥心に、つい俯く。


「え? よく聞こえないわ。まさか、私の裸を見るのが恥ずかしいの? 小さい頃はいつも一緒に水浴びしてたのに」


「そ、そんなんじゃない!! ……その……姉様に会えなくなるのは……嫌だ」


「あはは! かわいいなあ、もう! やっぱりあなたは変わらないわね。今のうちにお姉様に甘えておきなさい」


 妹が赤面しながらも消え入りそうな声で絞り出した本心を聞いた千景は、途端に子供じみた表情になり千鶴に抱きついた。


「ば、ばか、やめろ、冷たい!! ——あぁもう、離れろ! 服を着ろ!!」


 千鶴はたまらずすぐ近くの岩に置かれた着替えの巫女装束を着るよう促すが、千景は聞く耳を持たない。彼女の濡れた肌が千鶴の装束と密着し、二人で水浴びしたかのようになってしまった。


 姉の柔肌に触れ、改めて思う。


 無数の傷が刻まれ、斬り伏せた妖魔の返り血で穢れたこの身では、触れることすらおこがましい。目を向けることも、言葉を交わすことも、この空間に共にいることさえ許されないのではと。


 この身に流れる夜叉の血が目を覚まして以来、屋敷からは追放された。神々廻の姓も奪われた。姉妹で過ごす時間は、姉が一人になる禊の時間のみとなった。


 これではまるで、人目を忍んで逢瀬おうせを果たす恋仲の男女のようだ。


 ——でも。


 童心に帰ったように無邪気に笑う姉を見て、こうも思う。


 立場を忘れた振る舞いも、屈託のない笑顔も、この色褪せないひと時も。


 きっと、私だけのものだ。



「姉様! いい加減に————」


 不意に、姉の体を引き剥がそうと肩に押し当てた手が、古傷に触れた。


 そして、思い出す。


 自身への戒めと同時に立てた誓いを。


 犯した罪を許すな。


 最愛の人の体に刻み込まれた過ちから、目を逸らすな。


 生きる理由を与えてくれた。


 共に故郷を守ろうと、手を差し伸べてくれた。


 道が違えど、その心は常に共にあると言ってくれた。


 だから、必ず。


 たとえ、この身が朽ちようと。


 この人だけは、護らなければならない。



 巫女以外に人の寄り付かない滝壺には、せせらぎに混じって姉妹の声が響く。


 それは歩む道をたがった今も、ありし日となんら変わらぬものだった。


 


 





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