陰陽の邂逅・陸

「——くっ、陽動か!」


 千鶴が慌てて振り向くと、社はどこからか飛来した鳥の姿をした妖魔により屋根を破られ、崩壊していた。妖魔の脚は一人の少女を掴んでおり、今にも飛び去ろうと巨大な翼を広げ羽ばたいている。そして、またしても吹き荒れる突風。


「——時期じゃねえ! 今日のところは引いておいてやる! 覚えていやがれ……全てがめぐめぐる時、それがてめえらの最期だ! せいぜい余生を楽しむんだな! その首、必ず刈り取りに戻ってくるぞ!!」


 大仰に吠えた鎌嚇は再び荒れ狂う旋風となり、勝ち誇ったような笑い声と共に空へと姿を消した。後には先ほどまでの強風が嘘であったかのような、穏やかな風が吹くのみ。不吉な言葉を受け様々な疑念が脳裏に渦巻くが、思案している余裕などない。


「逃したか……! ——っ、胡鞠!! あの娘を取り返す! わたしを投げ飛ばせ!!」


 踵を返した千鶴は、駆け出しながら少し離れたところで座り込んでいた胡鞠に向かってそう叫んだ。


「いや殺す気!? あたし一応怪我人なんですけど! ……ああもう、しょうがないなあ!!」


 胡鞠は悪態を吐きながら、観念したかのように腰を落とし無傷な右腕のみを手前に伸ばすと、迫る千鶴を待ち構えた。やはり左腕は動かせないのだろう。そして彼女が力むと、先ほど千鶴に起こった変化と同様、伸ばされた腕に青筋が浮かぶ。見開いた双眸は千鶴のものほど鮮烈ではないが、赤く染めあげられていた。


 千鶴の突発的な行動に常日頃から手を焼いている胡鞠は、支離滅裂かに思える言動からもその意図を正確に読み取った。


 必要なのは千鶴が上空の妖魔の元まで跳躍するための足場作り、その際に生じる負荷に耐えるための身体強化。彼女のような神々廻に仕える戦士達は、自身の血流を自在に操り、短時間だがただでさえ常人離れした身体能力を更に飛躍させることができる。妖魔のような異形と対等に渡り合えるのも、その秘技があってこそだ。最も、千鶴に限ってはそれだけではないのだが。


「やるからには逃さないでよね!」


「誰に言って——いる!!」


 千鶴は勢いを殺すことなく、半ばやけくそになった胡鞠が差し出した右手に乗り、力強く踏み込む。小柄な千鶴と、女性とは思えぬ膂力を持つ胡鞠だからこそ可能な芸当だ。


「……っ! ——おりゃあぁぁぁぁぁぁ!!」


 片手にかかった負荷に一瞬顔を歪めたが、全身を襲う激痛を掻き消すような雄叫びを上げ、胡鞠は千鶴が踏み込んだ右腕を振り上げる。同時に、千鶴はその勢いを利用し跳躍した。身体強化により高められた脚力に加え、胡鞠の腕力により推薦力を高めた脅威的な跳躍だ。


「〜〜〜っ!!」


 やはりその負荷は凄まじかったらしい。血流操作により無理矢理止血した傷口のみならず、全身に激痛が走った胡鞠は、堪らず悶えその場にうずくまってしまう。


 千鶴のそれはもはや跳躍ではなく、飛翔に近かった。全身の筋肉を使い弾丸の如く凄まじい勢いで空中に飛び出した千鶴は、一瞬で少女を持ち去ろうとする妖魔の元まで到達した。


「逃すか!!」


 振りかぶった大太刀を強化された腕力を以て水平に振い、妖魔の両脚を胴体から切り離す。突如脚を襲った激痛に妖魔はよろめいた。確実に息の根を止めておきたいが、今は切り離された脚に掴まれたまま落下する少女の確保が優先だ。


 千鶴は勢いを殺さぬまま空中で反転すると、先ほど胡鞠にそうしたように妖魔の胴体を踏み台として、地上に向けて身を投げ出した。そしてあっという間に落下を続ける少女に追いつくと、その身を鷲掴みにしている猛禽の脚に向け数回、目にも止まらぬ斬撃を浴びせた。少女の体には傷一つけず、拘束していた異形のあしゆびのみを全て斬り払い、解放された身体を抱き抱える。ここまで、ほんの数秒。


 目的を達した千鶴はそのまま落下に身を任せ、木片の山と化した社の中心へと突っ込んだ。常人ならその時点で粉々に体が砕けているであろうが、身体強化された千鶴の体には関係のない話だ。


「——ぐっ!! はは、なんてざまだ……」


 舞い上がった埃の中、瓦礫の山に力無く身を預けた千鶴は苦しそうに呻くと、自嘲するように呟いた。夜叉の血を解放した後には全身を襲う激しい倦怠感と激痛が待っている。なにより、寿命を縮める。先ほどの一戦で千鶴の企みに気付いた胡鞠が制止したのもそのためだ。


 屋根が崩れ落ち吹き抜けとなった頭上には、夜の名残に朝焼けが差しつつあり、黎明の空が広がっている。空を見上げる彼女の瞳は、元の黒真珠のような色に戻っていた。


 少女を持ち去ろうとしていた妖魔はどこかへ逃げおおせたようだ。不吉な言葉を残していった鎌嚇もみすみす逃す結果となってしまったが、討伐を優先していたら少女の奪還は叶わなかっただろう。そう思うと、いくらか気が紛れた。


 胡鞠の安否が気になり少し離れた視線を向けると、ぐったりと仰向けに倒れている。どうやらあちらも限界らしい。


 ふと、腕に抱いた少女を見る。


 肩より少し長い程度の黒髪に粗末な着物、ごく普通の村娘だ。背格好からして同年代くらいだろうが、顔立ちはやや幼い。白い肌に外傷はなく、力を使い果たしたのか、それとも襲われた恐怖からか、気絶しているだけのようだ。すやすやと静かな吐息を立てている。


「人の気も知らずに呑気な奴だ……。——これは……?」


 粗末な衣から覗く首元には、雫のような形状をした緋色の結晶の首飾り。それは血のように赤く、澄んでいる。何故かは分からないが、不思議と目を奪われた。


 少女が目を覚まし、母親の死を知ったら絶望し咽び泣くことだろう。だがその前に確かめねばならないことがある。


「おい、起きろ。お前が結界を張った術者か?

 

 千鶴が少女の体を数回揺すると、「ん……」と小さく唸り、ゆっくりと目を開けた。


 二人の少女の視線が重なる。


 互いの顔を映した瞳は水面に雫が落ちたように揺れ、煌めく。


 瞬間、千鶴は言い表しようのない感覚に襲われた。それはまるで、欠けていた何かが埋められたようで。


 どこかで会った気がする。いつだったか、言葉を交わした気がする。自身に向けられたその視線は、他の人間とは違う、何か特別なものだったような。


「——嗚呼、やはり来てくださった。ようやく、ようやく……」


 それは年端のいかぬ娘のものとは思えないほど、大人びた口振りであった。少女は目に涙を浮かべながら、恍惚とした表情でそう言うと、糸が切れたように再び意識を失ってしまう。


 その瞳に宿っていたのは羨望、悲哀、そして純愛。まるで数年振りに愛して止まない想い人と逢瀬を果たしたような、恋焦がれてたまらなかったとでも言いたげなものだった。


 ——なんだ。一体なにを言っている。出会ったこともない娘。話したこともない人間。取るに足らぬ存在、所詮は只人の女。ただ、それだけのはずだ。


 なのになぜ、こんなにも心は揺れ動いているのだろう。


 霞のように見え隠れする自覚もない記憶を引き寄せようとするほど、千鶴は心の芯が熱く火照るのを感じた。



 時は龍暦二百二十四年、穿月うがつき


 鬱蒼と影を落とした薄月夜に、鮮血のような朝焼けが差した黎明の空の下。


 幾度となく巡り巡った輪廻の果てに、陰と陽はここに邂逅を果たした。


 






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