陰陽の邂逅・伍

「——見えたぞ!!」


 鬱蒼うっそうとした森の中を急ぎ進んでいると、千鶴が張り詰めた声を発した。木々で埋め尽くされていた視界が開け、夜明けが近いのか薄明かりが見える。


 周囲を木々で囲まれた開けた空間にひっそりと佇むのは、長年手入れされていないような老朽化した小さな社。


「敵は……いないみたいだね。きっとあの中だよ! 早く女の子を保護して帰ろう。向こうも片付いてる頃だろうし」


 胡鞠は周囲を一瞥すると、安堵したように社へと一歩踏み出す。


 一方の千鶴は、胡鞠の後に続くが警戒を緩めていない。村を襲った妖魔の頭数からして、母娘に差し向けられた追っ手が先ほどの一体だけということはないだろう。抜刀したまましきりに視線を動かし、潜んでいる何者かを探している様子だ。


「油断するな。何か来るぞ」


「え? あたしは何も感じないけど……」


 千鶴の忠告に、胡鞠は訝しみながらも気を引き締めた。


 妖魔の発する気配、妖気は感知できる。強大な妖魔のものほど強く禍々しいが、中にはその気配を抑えたり悟られないよう完全に無くすことができる個体も存在する。


 社一帯は不気味なほど静かだった。


 時折吹く風に揺らされ、周囲を囲む木々から葉擦れが響くのみ。そして漂い始める微かな妖気。胡鞠はそれに気付いていないらしい。妖気に敏感な千鶴だけが、徐々に強くなる妖気、新手の襲来を感知していた。


「——わっ」


 ざあ、と一際大きい葉擦れと同時に、吹きつける突風。胡鞠はたまらず腕で顔を覆う。——が、その瞬間。鋭い風切り音が鳴ったかと思うと、彼女の左肩から血飛沫が上がった。砕かれた肩当てと破れた装束が血に混じって宙を舞う。


「——!?!?」


 あまりに突然の出来事。


 不可視の斬撃を受けた胡鞠は痛みに声を上げることもなく、倒れ込んだ。


「胡鞠!! ——……そこか!!」


 傷を負った胡鞠を案じるも、姿の見えない刺客から意識は外さない。彼女を襲ったであろう異形は、次の標的だと言わんばかりに、その殺意を自身に向けている。気付けば、先ほどまでの微弱な妖気ははっきりと認識できる強大なものになっていた。風の流れに身を隠しているであろう妖気の根源を捉え、その慧眼で大太刀を振った。


「ぐお!?」


 確かな手応え。空を斬ったかに見えた千鶴の一太刀は、異形の居場所を正確に捉えていた。千鶴の反撃は予想外だったのか、風が止むと強大な妖気の主は姿を現した。


「てめえ、なぜ俺様の居場所が……! ただの小娘じゃねえな」


「なっ……! 人の言葉を……!?」


 そう吐き捨て、血走った鋭い目をいやらしく吊り上げ千鶴を睨むのは、細長い胴体と尾の異形。獣のような体毛に覆われ、尖った耳横に大きく裂けた口元には鋭い牙がずらりと並んでいる。腕は途中から湾曲した鎌に変形しており、その長さは千鶴の大太刀の刀身を優に上回るほどだ。


 異形は風に乗るように宙に浮いており、その体を取り巻くように旋風が渦巻いている。そして胸には刻み込まれた刀傷。千鶴の一撃はびっしりと生えた体毛に覆われた肉を斬り裂いていた。傷口からは毒々しい色の血が流れ、深手とまでいかずとも、浅くはないだろう。


 里の重役達に聞いたことがある。土地神や精霊といった存在も同様だが、長い年月を生きた妖魔は人語を理解し、まるで人であるかのように流暢に話すという。そして、それら特別な個体にはもう一つ共通点がある。


「ちきしょう、痛えなぁおい! 小賢こざかしい真似しやがって……!」


 鎌の妖魔がそう悪態をくと、みるみるうちに千鶴が与えた傷が塞がっていく。


 長い年月を生きた妖魔が厄介なのは人語を操る高度な知能だけではない。溜め込んだ膨大な生命力により、多少の負傷なら瞬く間に治癒することができるのだ。これまで数多の妖魔を葬ってきた千鶴だが、そのような敵と対峙するのは初めての経験であった。


 千鶴が驚愕し立ち尽くしているうちに、傷口は完全に塞がり、元通り体毛に覆われてしまった。


「傷口が……! 貴様、何者だ!!」


「あぁ? 俺様を知らねえのか。……まあいいだろう。一太刀浴びせた褒美だ、名乗ってやる。六妖りくようが一柱、【塵旋じんせん】の鎌嚇れんかくとは俺様のことよ」


 六妖。

 この言葉にも、千鶴は聞き覚えがあった。遥か昔、人の世の平穏を脅かした六体の異形。尋常ならざる力を有し、たった一体で小国一つなど容易に滅ぼしてしまうほどだったという。


 妖魔という人外の存在に臆した先人達が作り上げた妄想、所詮は伽話だとばかり思っていた。


 伝承でしか耳にしたことのない存在が、目の前にいる。鎌嚇と名乗った妖魔の言葉が虚言でなければ、これまで相対してきた妖魔とはわけが違う。その禍々しく強大な妖気も、心を強く保たねば気圧されてしまいそうな殺気も比べ物にならない。


 おそらく、奴の言葉通り先ほどの一撃は本気とは程遠いものだ。獲物を弄ぶ捕食者のように、狼狽え足掻く様子を見て楽しんでいたのだろう。


 同時に、理解する。


 十中八九、では勝てない。



「——ぐ……!!」


 不意に、背後で倒れている胡鞠が唸る。傷口を抑え、苦悶の表情を浮かべている。多量にかいた脂汗がどれほどの痛みなのかを物語っている。だが直前で反応したのか、致命傷は避けたようだ。


 終始冷静だった千鶴は、ここにきて焦りを感じた。常人離れした動体視力を誇る自分が、胡鞠を襲う凶刃に全く反応できなかったのだ。感じたのは突風が吹く直前、接近する微かな妖気のみ。新手の妖魔かと警戒していたら、突然胡鞠の肩が裂けたのだ。


 改めて彼女の傷口を見る。鋭利な刃物で斬りつけられたように、左肩から胸上にかけて刻み込まれた深い裂傷。もう少しずれていたら、彼女の左腕は切り落とされていただろう。


 とにかく止血をしなければならない。だが、眼前の異形から注意を逸せばたちまち手痛い一撃を見舞われるのは必至。

 

 そうあぐねていると、いやらしい薄ら笑いが響いた。すぐさま視線を戻すが、そこに鎌嚇の姿はない。背後の胡鞠に一瞬視線を向けていた間に、空気に溶け込むように消えてしまった。


「——なんだ、まだ生きていやがるのか。しぶとい女だ、首を落とすつもりだったのによぉ」


 辺りに再び風が吹き始めると同時に、醜悪な声が響く。千鶴は大太刀を構え、迎撃する態勢をとった。奴の姿は見えない。だが周囲には禍々しい妖気が充満している。


 その姿を滑稽だと嘲笑うかのように、鎌嚇は嬉々として語る。


「まさか、これほど近くに潜んでいたとはなぁ……! これでまんまと他の奴らを出し抜けたってわけだ」


 意味深な台詞を吐き続ける声には耳を貸さず、千鶴は大きく息を吐くとなにか決心したのか、静かに大太刀を鞘に納めた。そして目を閉じ、手にした鞘を手前で構える。


「千鶴様、気をつけて……! あいつの攻撃、速いよ」


「下がっていろ」


 背後で苦しそうに起きながら忠告する胡鞠に、千鶴は振り向くことなく答えた。


「思い出したぜ。その装束……さてはてめえら、神々廻の人間だな? 待ち伏せした甲斐があったってもんだ。どの道全員殺すんだ、今ここでその首切り落としてやる!」


 その言葉を皮切りに、千鶴を囲むように風が吹き荒れる。それもただの風ではない。妖気と殺意に満ちた、妖術による旋風だ。先ほど胡鞠が斬り裂かれたように、開けた空間でならば直前で感知できる可能性もあるが、これではどこから攻撃が飛んでくるのか見当がつかない。そのための撹乱なのだろうが、それでも心は波紋のない水面のように澄んでいた。


 不可視の攻撃に対する策には覚えがある。直前に感じる相手の殺気、自身を囲む空気の流れ。そして妖気。それら全て見るではなく、感じる。そして渾身の抜刀を以て斬り伏せる。吹き荒れる風によって惑わされることはない。風の切れ目が生じた瞬間こそ、奴が攻撃に転じる前兆。その一瞬に、勝機はある。


「——! 千鶴様、だめ!!」


 その様子からなにかを察したのか、帯の端を切り取り止血をしていた胡鞠は悲痛に叫んだ。


 だが、もう遅い。


 千鶴の纏う空気が変わった。酷く冷たく、それでいて禍々しい。触れるもの全てを刈り取るかのような、重く鋭い殺気。大太刀を握る細腕には青筋が浮かび上がり、赤みがかった黒髪は血液が循環したかのように躍動し、ゆらゆらと揺らめく。


 彼女を取り巻く旋風は次第にその勢いを増し、千鶴の装束を、肌を切り裂く無数の刃となって襲いかかる。だが千鶴は微動だにしない。幾度となく体に刻まれていく裂傷に対し、表情も変えなければ声も上げない。機会を待つかのように、ただ佇んでいる。


 そして、風の障壁が裂けた。


 明鏡止水。音が止み、時が止まるような感覚。今にも千鶴の首を落とさんと、眼前に迫りくる巨大な鎌。


「——断脈だんみゃく


 誰に向けてでもなく、そう呟く。


 刹那の瞬間、見開かれる双眸と抜き放たれる刃。同時にほとばしる、あかき剣閃。


「ぐあぁぁぁぁぁぁ!!」


 耳をつんざく悲鳴と共に、風が止んだ。


「——馬鹿な! 反応できるはずが……!!」


 苦痛にもがきながら再び姿を現した鎌嚇の右腕——もとい右鎌は切断され、傷口からはぼたぼたと血が溢れている。千鶴が放った渾身の抜刀は、鎌による一撃を防ぐだけでなく致命傷を与えていた。


「拍子抜けだな。六妖とはこの程度か。……貴様、私達を知っているのか? どの道全員殺すとは、どういうことだ。私達の里を襲う気か?」


 千鶴は血が滴る大太刀の切先を向け、問答した。


 殺意に満ちた眼光を宿すその瞳は、鮮血のような真紅に染まっていた。それと同調するように、大太刀の刀身も仄かに赤みを帯びている。変化はそれだけに止まらない。千鶴の全身に無数に刻まれた裂傷は瞬く間に塞がっていき、やがて完全に癒えてしまった。その治癒力は鎌嚇のそれを遥かに上回ほどだ。


「傷が勝手に……!? それにその目……!! そうか、てめえが噂に聞く……!」


 苦しみながらも忌々しそうに千鶴を睨む異形の表情が、驚愕に変わった。


 ——巫女夜叉。


 それが里の安寧を脅かす妖魔を討つ少女、神々廻千鶴に与えられた異名だった。


「——ちきしょう、どうなってやがる! 傷が治らん……!」


 鎌嚇の表情からは、先ほどまでの余裕を感じさせるいやらしい笑みが消えている。


 これこそ、巫女夜叉と呼ばれる千鶴が秘めた異能。否、その身に流れる血に秘められた、呪いともいうべき性質であった。


 巫女の血脈でありながら、なんの因果か与えられたのは、魔を退け傷を癒やす力ではなく、魔を討ち滅ぼし決して癒えることのない傷を刻む力だった。加えて、人間ひとの領域を遥かに逸脱した強度と運動能力、そして驚異的な自己治癒力を持ち合わせた身体。それは不死ではなく、不屈。眼前の敵を討つまで果てることは許さんとでも訴えているかのように、千鶴の意思に関係なく受けた傷をたちまち癒してしまう。


 そしてその血質をそのまま反映させたのが、千鶴が今手にしている大太刀・絶華ぜっかである。里に代々伝わる大太刀であり、歴代の夜叉と呼ばれた男達が所有してきた。それが巡り巡って千鶴の手に渡るにあたり、その刀身を鍛え直した際には特殊な鉱石を媒介に千鶴の血液が織り混ぜられている。それは千鶴が解放した夜叉の血に共鳴し、その血質を投影させ、斬った対象に癒えぬ傷を与える必殺の刃へと姿を変えるのだ。


「一連の騒動には黒幕がいるはずだ。貴様のような化け物が他にもいるのか? 洗いざらい吐いてもらうぞ」


 苦悶に表情を歪める妖魔に容赦などするはずもなく、千鶴は問い続ける。だが返ってきたのは問いに対する答えではなく、不敵な薄ら笑いだった。


「さすがに相手が悪いな。噂通り、厄介な力だ……! ——くくっ、だが目的は達した。てめえらの負けだ」


「なにを言って……——!?」


 鎌嚇の視線が千鶴の背後、静寂に佇む社へと移った瞬間、建物が破壊されるような轟音が響いた。


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