陰陽の邂逅・弍
——妖魔。
それは魔へと堕ちた生物の成れの果て。
本来であれば、龍脈から溢れる生命力を吸収し続けた生物は精霊や土地神といった、悠久の時を生きる存在へと昇華する。だが、全ての個体がそうなるとは限らない。憎悪に嫉妬、侮蔑や憤怒。それら人間が発する負の感情に影響された生命力、すなわち陰の気に晒され魔へと転じた存在を総じて“妖魔”と呼ぶのだ。一度転化すればいかに温厚な生物だったとしても、食欲という本能を満たすべく、生物の血肉を求め闊歩する異形へと成り果ててしまう。
その姿形は、大木に並ぶほどの巨躯を持つ個体から、手の平に収まるほどの矮小な個体まで様々。だがごく稀に外見の変化に留まるのみならず、なんらかの異能を発現させる場合もあれば、更には人語を操る個体も存在するとされている。
今しがた千鶴達が遭遇したこの巨大な蝙蝠も、妖魔の一種である。
その容姿の通り蝙蝠が妖魔へ転じたもので、夜な夜な闇に紛れて現れては動物や人間の生き血求め、肉ごと食らう。それだけならさして驚くことでもないのだが、千鶴達が遭遇した個体は平均的な大きさを遥かに上回っていた。
千鶴達は代々俗世と隔絶された霊山に住まう一族・神々廻家から下された命を受け、近隣の村を襲撃した妖魔を掃討すべく急行している最中である。すでに数体の妖魔と遭遇し、その度に斬り伏せてきた。
胡鞠は十数名の隊士達で構成された偵察や複雑な地形での活動を得意とする遊撃隊の人員を扇状に展開し任務にあたっている。自らの部隊を持たない千鶴はその補佐、というわけだ。独断専行に走りがちな彼女を胡鞠が諌めることも多々ある以上、最早どちらが補佐役なのかといったところだが。
「——これといった動きこそ見受けられないものの、報告の数倍の数です。我々の頭数より多い以上、慎重に事を運ぶべきかと」
女隊士の報告に、もう一人の長身の男が神妙な顔つきでそう付け加える。
「倍の数!? なにそれ、事前調査はどうなってんのさ! ——千鶴様、里に増援を要請しようよ。頭領に状況報告すればすぐに動いてくれるだろうし、このままうちらだけで続行するのはまずい気がする」
「不要だ。急務故に、真夜中の森でも動き回れる私とお前が選ばれたんだ。このまま突っ切るぞ」
千鶴は顔色一つ変えずそう言うと、更に速度を早めた。軽快に乱立する木々を飛び移り、あっという間に胡鞠達との距離が開く。
「ちょっと、千鶴様ぁ! ……っ〜! ああもう、勝手なんだから! ……仕方ない、二人とも、両翼のみんなに伝えて。このまま任務続行、ってね。でも、警戒を緩めないで。やばい奴に遭遇するかもしれないし、最悪は常に想定するように。村の手前で合流するよ!」
「御意」
「胡鞠様もお気をつけください!」
「はいはい、誰に向かって言ってんのさ!」
胡鞠は得意げな笑みを浮かべると、左右に散る部下達を背に、先走る千鶴の後を急ぐ。
先ほどの襲撃が嘘であったかのように、夜の森は静寂に包まれていた。人の気配は当然なく、森の生物全てが死に絶えたような不気味さが漂う。嵐の前の静けさとでもいうべきか、まるで千鶴達を死地へと誘っているかのようで、不吉の予兆に思えた。
「——千鶴様! あれ!」
千鶴達が目的の村へと進み続け半刻が経った頃、不意に胡鞠が声を上げた。
森を駆ける二人の前方、夜の闇と生い茂る木々の隙間から微かに漏れているのは、温もりを感じさせる淡い緋色の光。それは二人にとって馴染みのあるものだった。
「まさか……結界か? なぜ里の外に……!」
「ちょうど目標の村がある位置だよ!」
胡鞠の一言に胸騒ぎを覚えた千鶴は目の前の光景を訝しみ、足を早めた。
すると、徐々に結界の全容が露わになる。木々よりも更に高い位置まで半球状に展開されているようで、反りの部分が僅かに覗いている。それは村一つすっぽり覆ってしまうほどの規模と思えるほど、広範囲のものだった。
結界とはその名の通り、特定の範囲を覆う障壁のようなものだ。その効力は陰の気に
妖魔が当然のように跋扈するこの時代において、その対抗策として僧侶や巫女といった霊力を有する人間が村に住み込むことも珍しくなかった。
だがそれらは半透明の無彩色なものが多く、はっきりと視認できるものではない。視認できるほどの結界を実現できるほど、只人は濃密な霊力を持ち得ないからだ。
「……間違いない。あの緋色の光、あれは神々廻の……」
千鶴は適当な枝を足場に立ち止まると、前方を見上げながら誰に向かってでもなく、そう呟く。その表情は困惑に満ちている。
それも当然、緋色の光を帯びた結界は千鶴の出自である神々廻家相伝、それも扱門外不出の秘術なのだ。下界における只人の僧侶や巫女などが扱うそれとは強度、範囲ともに次元が違う。血脈に選ばれた神々廻の巫女のみが扱うことを許された秘術の顕現が、下界の人里でなど起こり得るはずがなかった。結界を展開するだけなら直系の巫女でなくとも可能だが、村一つ覆い尽くすほどの規模となると尚更だ。
「——よっと! ……千鶴様、あれって……」
一歩遅れて、結界を遠巻きに見つめる千鶴の隣に胡鞠が到着した。結界を確認した彼女も千鶴同様、驚愕と困惑に満ちた声を漏らす。
「ああ。定かではないが……おそらく——っ!?」
二人が呆然としていると、その時は唐突に訪れた。
突如結界に亀裂が生じたと思えば、その直後には硝子細工が砕け散るような音を立て、崩れる。その破片は光の粒子となって天へと消えてゆく。
「結界が……! ——って、ああっ! 千鶴様!!」
胡鞠がその様子を呆然と眺めていると、千鶴は既に駆け出していた。
「先に行く!! お前は部隊と合流しろ!」
「ちょ、ちょっと! 一人でなんて無茶……って言っても聞かないか。」
制止する胡鞠には見向きもせず、千鶴は村へと突き進む。
結界の崩壊が意味することなど考えるまでもない。
行手を阻まれていた数十の妖魔が一気に雪崩れ込み、瞬く間に村は蹂躙されるだろう。任務である以上こなさなければならないが、その村に親しい者がいるわけでもない。名も顔も知らない只人が何人死んだところで、なんの関係もない。
——だがなぜだろう。一刻も早く、あの村に急行せねばならない気がする。
なんとも言い表しようのない衝動に駆られ、千鶴の足は早まるばかりだった。
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