龍幻記 〜終脈の巫女夜叉〜

琳堂 凛

序章 

陰陽の邂逅・壱

 朝と夜。日輪と月輪。善と悪。陰と陽。


 ——そして、生と死。


 万物において全ては表裏一体、見方を変えれば、何事も異なる表情を見せるものだ。


 それは大陸中央に聳え立つ霊山を取り囲むように広がっている、“かくりの森”と呼ばれるこの地においても、決して例外ではない。


 龍暦二百二十四年、穿月うがつきの薄月夜。その日の夜更けはいつにも増して闇が深く、妖しげな空気が漂っていた。


 枝葉の隙間から僅かな月明かりが差す、鬱蒼うっそうとした深森。その木々の間を、枝から枝へと縦横無尽に飛び回る人影が二つ。


 

「——もたもたするな!! 報告より数が多い! 油断していると囲まれるぞ!!」


一人の少女は鋭い声で令すると、肩につく程度のほのかに赤みがかった黒髪を揺らしながら、一つ、また一つと軽快に木々を飛び移ってゆく。


 抜き身の刃のような威圧感を放つこの少女、性は神々廻ししば、名は千鶴ちづる


 顔立ちには未だ幼さこそ残るものの、黒真珠のような瞳から放たれる鋭い眼光はこれまで潜り抜けてきた死線の数を物語っているかのようだ。


 小柄で華奢な体躯に纏っているのは、防御面よりも機動性を重視されたような忍のそれに近い装束。急所となり得る随所に甲冑に似た素材があてがわれ、闇夜に溶け込む漆黒と鮮血を彷彿させる真紅の二色のみで構成されている。


 そして背には、明らかに持て余すであろう、身の丈程の長尺太刀。朱漆で拵えられた鞘には八重桔梗やえききょうの紋が刻まれており、一目で業物だと分かる。


 この日、十四の歳を迎えたばかりの千鶴はある任務は遂行するため、闇夜の森の中を疾駆していた。


 その表情は険しい。絶えず視線を動かしては周囲を警戒しており、何かに備えているようだ。


「千鶴様〜!! 一人で突っ走らないでってば!」


 そして後方から、もう一人の少女がすがるように叫んだ。焦燥を含んでいるが、愛嬌のある声色のせいで今一つ緊張感に欠ける。


 遊撃隊【はやて】筆頭・胡鞠こまりである。


 千鶴同様、忍のような装束に身を包んでいるが、その体つきは似て非なるものだ。女性にしてはやや高い身長に、胸当越しでも分かるほどの豊満な胸部。それに反してしなやかに伸びた手足は駄肉がなく引き締まっていて、日頃の鍛錬が伺える。しめ縄のような髪紐で黒髪を一つに結んでおり、その背中には、剥き出しの二対の短刀。その切先にはすでに何かを仕留めた後なのか、赤紫色の血液らしきものがこびりついている。


 不意に、千鶴の後を追う彼女の頭上、隙間なく折り重なった枝葉が揺れた。

 

「——……? っ、上だ!!」


 上空から迫る何者かの気配を捉えたのか、千鶴は突然、後方の胡鞠に叫んだ。

 

 そのあまりの剣幕に胡鞠が思わず上空を見上げた瞬間だった。バキバキと音を立て、生い茂った枝葉の天蓋てんがいを突き破り姿を現したのは、夜の闇がそのまま落ちてきたかのような漆黒の巨影。予期せぬ急襲に、彼女の猫のような瞳が更に見開かれる。


「うにゃあ!?」


 獰猛な奇声を上げる巨影が通り抜けた後には、砕け散った枝の破片と大量の葉が宙を舞う。胡鞠はたまらず両腕で顔を覆い、足場になる枝を破壊されそのまま空中に放り出されてしまった。だが咄嗟に後方に飛び退いたことで、なんとか衝突を免れたようだ。


 彼女を急襲したのは、巨大な蝙蝠こうもりだった。ただし、通常の蝙蝠とは随分外見が異なる。翼を広げた姿は成人男性の身の丈をゆうに超えるほどに巨大で、その大口で一噛みされたなら血を吸われるどころでは済まないであろう、ずらりと並んだ鋭利な牙。そして血走った双眸に加え、額には第三の眼窩。


 絵巻に描かれたような化け物が木々の間を縫うように高速で飛び回り、落下を続ける胡鞠に再び牙を向こうとしている。


「ちょ、ちょいちょいちょい!」


 自身へ再び迫り来る化け物を見て、胡鞠は慌てて体勢を立て直そうとする。だが、付近に足場になりそうな枝はない。このまま自由落下に身を任せる以外に選択肢はなかった。


「このっ……!」」


 ようやく背に携えた二対の短刀に手を伸ばし迎撃する姿勢を整えるが、その必要はなかった。


「——遅い」


 その一言は胡鞠に対してか、巨大蝙蝠に対してか。胡鞠がもがいている間に、千鶴は標的の背後へと距離を詰めていた。その手には、既に抜刀された彼女の上半身よりも長い刀身を誇る長尺太刀。夜の闇の中、獲物を見据える千鶴の眼光のように白刃が鋭く光ったと思えば、巨大蝙蝠の両翼は胴体から切断されていた。翼を失った巨大蝙蝠に為す術はない。耳障りな悲鳴と共に、地に落ちていく。

 

 まさに刹那の斬撃。千鶴はその体躯では持て余すかに思える大太刀を想像もつかないほど軽々と振るってみせ、化け物を斬り捨てた。

 

「……あたし一人でもやれたのに」


 胡鞠は力が抜けたように地面に腰を下ろし、足を広げている。拗ねたように唇を尖らせ悪態をつく彼女の視線の先では、身体の至る所から気色の悪い体液を垂れ流しながらもがく巨大蝙蝠。翼を失い地面に激突してもなお、絶命していない。


「——その割には、余裕がなさそうに見えたがな」


 少し離れたところに着地したのか、千鶴は挑発しているかのような口調で皮肉りながら、姿を現した。


「ちょ、ちょっと驚いただけだもん! そもそも千鶴様が先走るから——」


「そのおかげで二人同時に襲われずに済んだんだ、感謝しろ」


 胡鞠が勢いよく立ち上がり反論するが、千鶴はどこ吹く風といった様子だ。


「……あ〜はいはい、わかったよもう」


 なにを言っても無駄と悟ったのか、胡鞠は呆れながら降参とでもいうかのようにおどけて両手を挙げた。


 千鶴はそんな胡鞠には目もくれぬまま、胴体のみとなり虫の息の巨大蝙蝠の元へ歩み寄る。そして脳天に狙いを定めると、顔色一つ変えずに両手で逆手に握った刃を突き下ろす。巨大蝙蝠は一瞬呻くが、千鶴が突き刺さった刃を捻ると、命の鼓動を止めた。


 異形の死骸を見下す彼女の瞳は、胡鞠に向けるそれとはまるで違う。薄く開かれた瞼の奥に見えるまなこは人としての温もりを感じさせぬほどに冷徹で、一切の感情を含まない無機質そのもの。不要な物を廃棄するのと同様であるかのように、捨てるもの故に捨てる、殺すもの故に殺す。返り血が頬に飛んでも全く動じないその表情は、まるで殺戮に生きる夜叉のようだ。


「まったく、筆頭ともあろう者が蝙蝠如きに手こずるとは情けない」

 

 そう呟きながら立ち上がり、死骸から刃を引き抜くと青紫色の鮮血が噴き出る。


「……しかし、これほど巨大な個体は見たことがないな」


 千鶴は訝しみながらそう呟くと、穢れを払うように勢いよく大太刀を振り、血払をした。そしていつの間にか握っていた鞘に刃を収めると、はばきのとまる軽快な音が鳴り響く。


「ぶー、これから本気出すとこだったの! 大体、使い慣れてない武器なんだから仕方ないじゃん」


「口先だけならなんとでも言える」


 胡鞠は不服そうに言うが、千鶴は一貫して冷めた表情である。


「なにを〜!?」


「「——胡鞠様!!」」


 二人が場にそぐわない痴話喧嘩のようなやり取りを繰り広げていると、一組の男女が舞い降り、跪いた。胡鞠が率いる遊撃隊の隊士達である。


「お、二人ともお疲れさん! そっちは無事?」


「は! 両翼とも何度か妖魔との交戦はありましたが、死者は出ておりません。怪我を負った者も何名かいますが、任務遂行に支障はないかと。——胡鞠様の方は……心配無用でしたね。」


 女隊士は胡鞠の身を案じ言いかけるが、地面に転がる飛倉の死骸を見て安堵の表情を見せた。


「誰に言ってんのさ。あんた達も無事でよかったよ。」


「……さっきまで狼狽えていたのはどこの誰だったか」


「うるさいなあ、もう!! ——で、どうだった?」


 千鶴が冷めた視線で皮肉ると、胡鞠は火に油を注がれたように声を荒げた。全くもって正反対の二人である。


「ええと……報告します。例の村の周囲は複数の大型妖魔が彷徨いており、突破は困難かと……。それと、少々奇妙な点が」


 女隊士は懲りずにいがみあう二人を見て苦笑いすると、釈然としない様子で答えた。どうやら彼女達は斥候らしい。


「どういうこと?」


「なんと申し上げたらよいのか……。奴ら、まるで動く気配がないのです。我々に気付いても迎撃するわけでもなく、まるで我々を接近させないためだけに《《配置されている》ような……」


「奴らに理性や知能といった類は皆無だ。それが集団で、しかも規則性のある行動をとるなど到底不可能だろう。——何者かが裏で糸を引いていると考えるのが妥当だろうな」


 女隊士の報告を聞くと、千鶴は淡々と言い切った。その表情は怪訝で、細められた目は何か得体の知れないものを見据えているようにも見える。



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