懐刃・参
住民達の活気で賑わう集落から少し離れて山肌を登ると、周囲の喧騒を遠ざけるように建設された
それは集落と外界を隔てる門に取り付けられたものと比べるとかなり高く、周囲の霊峰よりさらに遠方を一望できるほどだ。
幾重にも積み上げられた木材の外周には階段が取り付けれ、地上には二人の隊士が護衛するかのように配備されている。
そして、千鶴が探す人物は天辺に取り付けられた小部屋で1日の大半を過ごすという、少々変わった生活を送っている。もっとも、今回のように数日間に渡ってこもりきりになることも珍しくないのだが。
「——邪魔するぞ」
櫓の前に到着した千鶴がそう一言発すると、階段を塞ぐように控えていた隊士達は無言で一礼し、道を譲る。
「ああ、そのままでいい。少し急いでいるんだ」
愚直に数百段もある階段を登るつもりはない。千鶴がそう言い含めると隊士達は意図を汲んだのか、またも無言で元の配置に戻った。
寡黙な二人の隊士は頭部をすっぽりと白無垢の頭巾のようなもので覆っており、性別も表情も一見しただけでは見当がつかない。戦闘に赴く突貫隊や遊撃隊の隊士が着用するような機動性を重視したものでなく、長い袖に足元まで覆う袴といった祈祷師のそれのようにゆったりとした装束に身を包んでいる。
「柘榴、頼む」
千鶴の一声に、柘榴は
この妖犬の姿こそが、古くから神々廻に仕える
普段の子犬は柘榴の仮の姿、膨大な霊力を無駄に消費しないための手段だ。
真っ白の毛並みは随所が流雲のように
「よし、いいぞ」
千鶴が背に乗ったのを確認すると、柘榴はまるで足場が空中にあるかのように天目掛けて上昇する。炎をゆらめかせ宙を駆けるその姿は、まるで伝承に登場する神獣かのようだ。
風をきる感触が心地よい。千鶴は柘榴の背に乗り飛び回る時間が好きだった。しがらみから解放された気分になるからだ。
視線を上空に向けると、櫓の周りを数羽の鷹が飛び回っており、よく見ると屋根や骨組みに留まって羽を休めているものもいる。
あっという間に天辺の小部屋まで辿り着き、扉の前に降り立った千鶴を確認すると、柘榴は再び炎に包まれ、子犬の姿に戻った。
「……なんだその目は。仕方がないだろう、時間が惜しいんだ。それとも、ここまでお前みたいに飛べとでもいうのか?」
些細なことで変化を強いられたのが気に食わなかったのか、拗ねたような視線を送る柘榴に千鶴は言った。それに対して吠えることすらせず、柘榴はそっぽを向いた。
「子供じみた真似はよせ。今度美味い肉でも獲ってきてやる」
適当に柘榴をなだめると、千鶴は両開きの扉を慣れた手付きで引き開けた。
こじんまりとした外観に対して室内は意外と広いが、光が差してもなお薄暗い。明かりといえば、蝋燭に灯された炎のみだ。
物見櫓には通常、容易に周囲を観察できるよう吹き抜けになっていることがほとんどなのだが、巫神楽のそれはむしろ逆だった。四方にある扉は閉め切られており、文字通りの密室。時折風に吹かれて揺らめく蝋燭の炎が、木目の壁を怪しく照らしている。
「——
「……」
小部屋の奥に座る人影の名を呼ぶが、返答はない。花嫁が着用する綿帽子のような被り物とゆったりした装束に隠れて姿は見えないが、とにかく小さな背格好をしている。
「……はぁ、またか」
千鶴は沈黙を保ったまま微動だにしない人影にため息を吐くと、ズカズカと歩み寄る。
「おい。食事だ、食事」
千鶴が背後から被り物を乱暴に取ると、同時に「ふぁ」と幼く気の抜けた声と共に、しまい込まれていた長く絹のような白髪がさらさらと舞った。
被り物を取られ上向きになった人物と目が合う。その瞳は夜叉の血を解放した千鶴のように赤く染まっていたが、すぐにその色を失い、光のない虚な瞳が千鶴を見上げる。
その人物は
その矮小な体躯を覆い隠すほどに大きく仕立てられた装束は、白無垢の生地に赤と金の刺繍と紋様と神秘的な造りをしている。
「……千鶴様、何か、用?」
無為と呼ばれた童女は背後に立つ千鶴に向き直ると乱れた髪はそのまま、被り物を浅く被り直すと消え入りそうな声で呟いた。抑揚のない、幼い声だった。
「だから、食事だ。お前の分を持ってきてやったぞ」
千鶴が童女の目の前に竹包を差し出すと、大振りな袖の中から小さな手が出る。
「ありが、とう。でも、お腹、空いてない」
「いいから食っておけ。皆が心配していたぞ」
無理やり握らせてやると、童女は渋々受け取った。
「また長いこと入り込んでいたようだな。なにか変わったことでもあったのか」
「う、ん。妖魔の気配、なにか、変」
無為は虚な目のまま、下界の異変を口にした。まるで遠方で
否、実際に把握しているのだ。それこそが彼女の異能であり、この若さで懐刃・千眼隊【
五龍血・
鋼月と同様、彼女も巫神楽に派遣され居を構えた五龍血の一角、虚空羅家の末裔であった。
北東の離島に屋敷を構えるとされるかの一族が有する異能は、
複雑に入り組んだ霊峰と周囲の深林を常に警戒する必要がある巫神楽にとって、これ以上適した異能はない。
無為はその異能を以って、常に下界を監視・警戒しているのだ。術の維持には想像もつかにほどの集中力が必要なため、こうして視界を閉ざした小部屋に籠りきりになることもしばしばだった。
五龍血が扱う秘術は、そのどれもが懐刃の隊士が会得しているような血流操作による身体強化などとは一線を画す。
その名も“
体内の血液を操作するのではなく、自身の血を媒介に大地に流れる龍脈に干渉するのだ。
無為の『遠見』は龍脈に意識を繋ぐ、といってもいい。そうすることで、龍脈から溢れる生命力の恩恵を受けた生物を感知することができる、というのがからくりだ。
人員の限られた状況下で懐刃はいかにして妖魔の所在とそれによる被害を把握しているのか。その答えは、まさしく無為自身とその異能である。彼女が
「変……とは、どういう意味だ」
無為の容量を得ない発言に千鶴は問いただす。
「分から、ない。出てきたり、消えたり……。その、繰り返し」
「意味が分からん……いや、待て。突然現れてはすぐさま消えるだと……?」
千鶴は既視感を覚えた。二月前の任務と同様だ。
自身が村に突入した時は難なく事が運んだが、後から到着した胡鞠は妖魔の待ち伏せにあったという。妖力を敏感に感じ取れる自身の感覚は確かなもので、千それは千鶴も自覚していた。胡鞠の証言が本当なら、あらかじめ潜んでいた伏兵ではなく、文字通りいきなり現れたことになる。
無為の言動が意味する内容は、その現象と酷似していた。
「場所はどのあたりだ」
「それも、おかしい。特に、気配が、強いのは、五箇所。……全部、五龍血の里の近く」
「五龍血の……? いつからそのような事態になった」
「ん……、一月前、くらい、から」
「頭領が辺境に赴き始めた時期と重なるな……」
千鶴の言う頭領とは、懐刃四部隊を統括する男のことだ。
基本的に里に留まり、神々廻家の護衛をこなしながら各部隊に指示をとばしている。下界には滅多に赴かない男が、近頃調査という名目で任務でも足を踏み入れないような辺境へと度々出向いているのだ。
無為の言う異常を調べる為というなら、なぜ自ら動くのか。それこそ、各部隊に委ね自身は報告を待てばいいだけの話だ。
だがどれだけ思考に没頭しても答えは出ない。それに今は、優先しなければならないことがある。
「……まあいい。無為、引き続き頼むぞ。だが、無理はしない程度にな。——それと、それは自分で食え。また隊の者に押し付けたりするんじゃないぞ」
渡した竹包を指差しそう言うと、千鶴は踵を返す。
「むぅ……、なんで、分かった? まさか、千鶴様、心、読める?」
「ばかを言うな。そのくらい考えずとも分かる。では、またな」
「……あい」
無為は諦めたのか、膝の上に竹包を乗せて袖に包まれたままの小さな手を振り、退室する千鶴を見送った。
再び変化した柘榴の背に跨った千鶴は集落の喧騒とは無縁の、巫神楽の山頂付近へと目をやる。その先に薄雲に紛れるように佇んでいるのは、豪奢な神殿のような屋敷に、一際大きな社。
向かうはその中間、入り組んだ竹藪の中にある
そこに向かうにあたり柘榴は目立ちすぎるため、地上に降りたつとすぐに変化を解かせる。
「——急ごう、柘榴。随分と時間を費やしてしまった」
子犬の姿に戻った柘榴にそう言うと、千鶴は駆け出す。
普段はもっと早くに足を運ぶのだが、今日は遅れてしまった。
次期巫女姫である姉は、決まって太陽が昇りきる前に早朝の修練を終え、身を清めるために禊の滝で水浴びをする。
最愛の姉の背中を思い浮かべると、自然と足が早まる。
千鶴は集落の間を縫うように人目を避けて進み、やがて竹藪の中へと消えた。
千鶴が去った後の小部屋には開け放たれたままの扉から陽光が差すが、それでも薄暗いままだ。
不意に、「かかっ」と幼いながらも老獪な笑い声が響いた。
「——まったく殊勝なことじゃ。
そう言葉を漏らしたのは無為だ。だが、その幼い声色には到底似つかわしくない口ぶりで嘲笑する。
虚空羅無為。彼女の放つ雰囲気は先ほどとはまるで違う。
姿形は変わらぬが、弱々しい童女の出立は消え失せ、見たものを思わず畏怖させるような威圧を感じさせる。
「巫女姫の血脈より女人の夜叉生まれ出づる時、それ即ち龍幻の終焉なり——、か……」
彼女が巫神楽に伝わる予言を口にしながら立ち上がると同時に、まるで意思を持ったかのように閉め切られていた四方の扉が勢いよく開け放たれ、吹きつけた風によって蝋燭の炎は消えた。
「あれから
床に垂れ下がるほど長い装束を引き摺り、遠い過去に思いを寄せるように呟きながら小部屋から出ると、周囲の霊峰——そしてその遥か先を見据える。頭を覆っていた綿帽子をそっと外すと、絹のような白髪が風に揺られて靡いた。
「ようやく……ようやくじゃ。二百年の時を経て、全てが
虚だった瞳は赤く染まり、光が灯った。口元からは僅かな笑みが漏れている。
それは誰に向けての言葉か、遠い過去に死別した友へ捧ぐかのようでもあった。
不意に、日輪の影から一羽の鷹が飛来し、差し出した袖に留まる。その目は主と同様、赤く染まっている。
「童心に差した陽光は未だ陰ってはおらぬ。だが万物は移ろうもの……陰陽、果たしてどちらに転じるか、それは誰にも推し量れるものではない……」
愛おしそうに、それでいて嘆くように鷹を撫でると、再び宙へと放る。鷹は飛び立ち、地平の彼方へと飛び去っていく。
「かつて残した言霊……、叶わぬ妄言となるか、はたまた全ての
虚空にこぼした言葉に呼応するように、遠くで鷹が甲高く鳴いた気がした。
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