桃源の隠れ里・弍

 巫神楽の集落は山腹を削り取ったように築かれており、単なる生活の場というよりは要塞に近い。隙間無く敷き詰められた人間の体躯の何倍も太く大きい杭上の丸太によって構成された防壁に加え、その外側と山肌に面した傾斜の部分に配置されているは鋭く先端の尖った逆茂木さかもぎ

 

 その全てが城に攻め入る人間の兵を阻むためのものではなく、里の平穏を脅かす妖魔を退けるためのものだ。


 下界の主流である石垣で固められた堅牢な城壁に比べると見劣りするが、乱世の時代に築かれた砦のような造りは今も劣化することなく残っている。


 千鶴達が物見櫓ものみやぐらと一体となった木造の門を潜る頃には、緋桜と紅葉によって彩られた幻想的な景観はその色を失い、集落で暮らす民達の活気に溢れながらも穏やかな時が流れる日常の光景へと変わっていた。


 点々と立ち並ぶ木造の家屋の下では、すでに住人達が各々の一日を始めている。

 肉を天日干しにする者、何やら不気味な質感の皮をなめし縫合する者、溶かした鉄を鍛えるべく金槌を無心に振り下ろす者。雄大な自然の恩恵である食物は民の腹を満たし、討ち取った妖魔の外殻や表皮は丈夫な防具の素材へと加工され、鉱石の類は刀匠によって武器へと鍛え上げられる。


 里の者全てが生活の基盤となり、閉鎖的ながらも外界からの流通に依存することなく巫神楽の民は暮らしてきた。



「——胡鞠ちゃん、胡鞠ちゃん! 今朝捕まえてきたばかりの猪の肉、すぐに捌くから持っていくかい?」


 二人が家屋の間を縫うように歩いていると、脇で巨大な猪の毛皮を剥いでいたふくよかな中年の女性が声をかけてきた。にこやかに笑っているが、傍に置いてある鉈包丁のせいで猟奇的に見えてしまう。


「おはよう、おばちゃん。悪いけど遠慮しとく。今から食堂に行くとこなんだ」


「今からかい? 朝餉にしちゃあ随分と遅いね」


「どこかの誰かさんがねぼすけだったからね〜」


 不思議そうに首を傾げる女性に対し、胡鞠は意地悪そうな視線を千鶴に送りながら言った。


「……ねぼすけで悪かったな」


「なんだ、そういうことかい! なら、持っていって調理してもらうといい。千鶴様は華奢なんだからもっと精力つけないといけないよ!」


 女性は千鶴の反応を見てひと笑いした後そう言い、袖を捲し上げ肉を捌く動作を見せた。


「私も遠慮しておく。今朝は目覚めが悪かったんだ、朝餉は軽く済ませたい」


 千鶴が穏やかな声色で言うと、女性は少し残念そうな表情になる。


「仕方ないねえ。あんた達にはうちのぼんくら息子がいつも世話になってるんだ、出来ることはなんでもするから、気軽に言っておくれ」


 そう言うと、女性は二人に屈託のない笑みを見せた。千鶴と胡鞠も感謝の意を口にすると、その場を後にする。


 胡鞠ら筆頭と呼ばれる者達が指揮する隊士達の大半がまだ若く、その両親のほとんどは集落の中で担っている役割がある。それは戦闘とは無縁で、狩りにおもむいいたり食事の用意をしたりと様々だが、危険な任務に出向く隊士達の生活基盤を支える重要な仕事であることに変わりはない。


 故に、彼らの愛息子と愛娘の命を預かっている胡鞠達筆頭は敬われ、頼られているのだ。胡鞠の場合は誰とでも分け隔てなく接する天真爛漫な性格もあり、実の息子や娘と同様に慕う者も多い。


 それが今となっては、千鶴も同様だった。


 数年前のある出来事以来、里の誰もが彼女の存在を恐れ、忌み嫌うようになってしまったが、数々の任務を経て救ってきた命も多い。先ほどの女性のように他の者達となんら変わらず接する者も増えてきていた。


「千鶴様さ〜、いい加減ここに住んだら? お屋敷には戻れなくても、ここのみんななら受け入れてくれるよ。あんなぼろ屋に一人で住んでたらどうにかなっちゃうね、あたしなら」


 歩きながら、唐突に胡鞠が切り出した。日頃から住人達の心境の変化を感じ取ってのことだろう。千鶴が未だに孤独な生活を送っているのがどうにも気に食わないらしい。


「またその話か……。今さら生活の場を変える気はないと言っているだろう。あんなぼろ屋でも、慣れればそう悪くないぞ」


「いや、でも——」


 尚食い下がろうとする胡鞠を、千鶴は「それに」と一言制した。


「なにも一人で孤独というわけじゃないさ。そうだろう? 柘榴」


 そう千鶴が足元をちまちまと歩く柘榴に語りかけると、主人の言葉を理解したのか柘榴は小さく吠えてみせた。


「はぁ……。いつもそればっかりだね」


 取るに足らない会話を繰り広げているうちに、二人の足は食堂へと着いていた。暖簾の向こうからは談笑する声や、とんとんと包丁でまな板を叩く心地よい音が漏れ、食欲をそそる香りがふわりと漂ってくる。


 ——本心では、孤独を嘆いているのか。


 里の者達が織りなす輪から、一人外れている感覚。全てがそうではないが、自身へ向けられる温かい言葉も、笑顔も、熱を帯びない無機質なものに感じてしまう。寄り添い合うことを恐れ、手を伸ばせば紡げる絆を一向に掴めずにいる。心の奥底に根付いた矛盾を自覚する度、やりようのない葛藤に駆られる。


 一瞬で思考の波に呑まれそうになっていると、今朝方けさがた脳裏に響いた邪悪な声が再び忍び寄って来る気配がした。


「……もういっそ、あたしが居候しようかな」


「はは、それだけは遠慮願いたいな」


 千鶴は澄ました表情の裏で陰る心を払拭するかのように笑うと、ぼそりと呟いた胡鞠を軽くあしらいながら暖簾をくぐった。









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