一章 落日の桃源郷

桃源の隠れ里・壱

「——◾️◾️◾️」


 赤黒く染められた空間。朦朧とする意識の中、脳裏に直接語りかけてくるような声が聞こえる。


 私の名を呼んでいるのか——それは言葉として聞き取れないほどに酷く陰鬱で、重々しい。まるで深淵の底から響いているかのようだ。


 意識が混濁する。思考が徐々に奪われていく。言い表しようのない衝動に駆られ、自身も空間の一部として溶け込んでしまうかのような感覚に駆られた瞬間、意識の水面みなもに波紋が起きた。





「————……!」


 意識が完全に引き摺り込まれそうになった瞬間、千鶴は目を覚ました。同時に、頬に感じるざらざらとした感覚。そして生暖かい湿り気。


 寝たまま首を傾けると、頬を舐め回している愛らしい瞳と視線が重なった。


「おはよう、柘榴ざくろ


 千鶴はそう言うと、傍で甘えるようにして尻尾を振る子犬を優しく撫でる。すると、柘榴と呼ばれた子犬は心地よさそうに目を閉じ、喉を鳴らした。


 柘榴は千鶴と共に暮らす——とういうより、懐いて離れない妖犬だ。彼女が幼少の頃から成長を見守るかのように常に側に控えており、今では心を許せる家族のような存在になっていた。


 真っ白な毛並みに描かれた渦巻く炎のような緋色の紋様は、どこか神秘的な雰囲気を醸し出している。


「……またうなされていたのか」


 重々しく上体を起こした千鶴は、誰に言うでもなく呟いた。


 ふと目を向けると、開け放たれた窓の向こうでは緋桜の花弁がひらひらと舞い落ち、時折穏やかな風が千鶴の頬を撫でる。汗が滲んだ衣服が冷えて多少の肌寒さは感じるが、それがなんとも心地よい。



 ——龍暦二百二十四年、逆撫月さかなでつき


 胡鞠と行動を共にした辺境の村での騒動から、二月ふたつきの時が過ぎていた。


 任務にあたった隊士達に負傷者は出たものの、命を落とした者はいなかった。最優先標的であった霊力を宿した謎の少女の保護にも成功したが、村は壊滅、少女一人を残し村人は全員が犠牲になるというなんとも後味の悪い結果に終わった。

 

 原因は定かではないが、それから数日経たぬうちに千鶴は頻繁に悪夢にうなされるようになっていた。


 気が付けば、赤黒く覆われた空間に一人。脳裏に響く邪悪な声を聞く度、自分が自分ではなくなる奇妙な感覚に陥り、そして突然目覚める。


 すると、決まってすぐかたわらには柘榴が我が子を見守る母親のように控えている。今日に限っては頬を舐め回すというおまけつきだったが、その姿を見る度、不思議と安心できた。


朝餉あさげをとりに行こう。お前も腹が空いたろう」


 小窓から差す陽光を見て、千鶴は柘榴に言った。すると柘榴は相槌を打つように短く吠え、同意の意を示す。


 千鶴は麻が敷かれただけの粗末な寝床から起き上がると、すぐ側に立て掛けてあった愛刀を拾い上げた。妖魔を寄せ付けぬ不可視の結界に囲まれた里の中である以上安全なはずだが、丸腰はどうも落ち着かない。周囲から奇異の視線を向けられようが、用心には用心を、だ。


 随所に甲冑があてがわれた防具は一切外した簡素な肌着のまま、戸を開ける。


 強い日差しが差し込むと同時に、柘榴が飛び出す。


 遅れて一歩踏み出した瞬間、慣れ親しんだ澄み切った空気が全身を包み込んだ。


 軟風によって舞い散る緋桜の花弁と紅葉の葉が視界を鮮やかに染め上げ、その光景はまさに百花繚乱、まるで桃源郷に迷い込んだかのようだ。


 遠方に視線を向ければ、雲海に覆われた雄大に聳える山々。初めてこの地を訪れる者がいるとすれば、間違いなくその絶景に目を奪われるだろう。


 ここは『巫神楽みかぐら』。神々廻一族が代々住まう霊峰であり、千鶴の故郷だ。


 俗世と隔絶されたこの地は同時に巨大な龍穴でもあり、この地で暮らす人間は膨大な生命力の影響を受け続ける結果、常人以上の寿命を誇る。戦士となる者は血流を操作し、身体能力を爆発的に向上させる術を身につける。千鶴や胡鞠はその代表格というわけだ。


  千鶴が暮らすあばら屋はその山腹にぽつんと建てられており、少し離れたところには胡鞠ら妖魔殲滅にあたる隊士達や、戦闘には赴かない民も生活している集落がある。


「急ごう、柘榴。少し寝過ぎてしまった」


 高く登った陽を見て、千鶴は集落にある食堂へと向かう足を早める。柘榴も同様、短い足をしきりに動かす。


 すると、正面に手を振りながら小走りしてくる人影が見えた。


「——おはよう、千鶴様! なかなか来ないから迎えに来たよ!」


 千鶴達の元へとやってきたのは、遊撃隊【颯】筆頭・胡鞠だった。


 二月前に共にした任務の時とは違い、少しくせのある黒髪は束ねずおろしている。千鶴と同様、甲冑などが付いた装束ではなく薄着一枚となっており、ざっくりとはだけた胸元からは豊満な谷間がくっきりと覗いている。体型こそ成熟した女性のそれだが、緩んだ笑顔も相まってどこか幼く見えてしまう。


「……別に私を待つ必要はないだろう。それとも何か伝達事項があるのか?」


「朝から機嫌悪いなぁ〜。またうなされたの?」


 千鶴が歩きながら煩わしそうに返答すると、胡鞠はむくれながら言い、並んで歩き始める。


「そんなところだ」


「それで、今日も柘榴が起こしてあげたってわけね。いつも偉いね〜」


 胡鞠は千鶴の足元を歩く柘榴を抱き抱えると、わしゃわしゃと頭を撫でた。毛並みが乱れることを嫌っているのか、胡鞠が手を離すと柘榴は頭をぶるっと震わせ腕の中から飛び出した。


「はぐらかすな……。また何か命が下ったのか?」


「いや、なにも?」


 なにかと千鶴は胡鞠との共同任務が多い。そしてそのほとんどが複雑な地形での、比較的強力な妖魔の討伐だった。また難敵が現れたのかと予想した千鶴だったが、あっけらかんと答えた胡鞠の顔を見てため息をこぼした。


「あのね〜、一緒にご飯食べるのにいちいち理由なんて必要? 千鶴様も一人で食べるより、誰かと一緒のほうが気分いいでしょ? あ、柘榴がいるからどっちにしろ一人じゃないか」


「まあ……否定はしないが」


 千鶴がぼそりとこぼすと、胡鞠は意地悪そうな笑みを浮かべながら「素直じゃないな〜」と肘で突つき、からかった。


 「やめろ、歩きにくい」といらついている素振りを見せながらも、千鶴の口元は僅かに緩んでいた。


 今となっては、このような取るに足らないやり取りも嫌いではなく、むしろ心地良い。全てを憎み、一度は完全に閉ざされた心が徐々に開いているように感じる。


 ならば、分け隔てなく自分と接してくれる胡鞠には感謝するべきなのだろう。


 隣で「お腹空いた、なに食べようかな」などと能天気に呟く胡鞠の横顔を見て、千鶴はそう思うのだった。


 

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