第百二十二話「幸せは血の味がする」

 硬く鋭い切っ先が、もろいガラスの容器に触れる。

 白いヒビが小瓶全体を覆い、希望はてのひらからこぼれ落ちた。


 林太郎は慌てて一滴でも拾おうと手を伸ばす。


 しかし床から突き出した新たな剣が、希望にすがろうとする哀れな男を阻んだ。


「ばっ……ざっけんなよ、そんな……!」


 勢い余った林太郎は、剣で覆われた床に倒れ込んだ。

 赤黒い秘薬が林太郎の目の前で、剣の隙間へと音もなく吸い込まれていく。


「マジかよ……終わった……ここまで、ここまでやったのに……」


 ザゾーマの秘薬にもう予備はない。

 よしんばあったとしても、再びこのおびただしい剣の層を通り抜けて戻ってくることは不可能だ。



 文字通りの詰み、状況は最悪であった。



「まだ何か、何か手立てがあるはずだ……考えろ考えろ考えろ……」


 原因は全て、油断した己のミスにある。

 がっくりとうなだれた林太郎は、床に手をつき立ち上がろうともがいた。


 諦めるのは性に合わない。

 大事な仲間の命がかかっているならばなおさらである。


 しかしそれと同時に、林太郎は両手に微弱な振動を感じ取った。



 ソドミナゴンが移動を再開したにしては静かな、まるで血管の中を血液が流れるような、そんな小さな脈動である。


 林太郎の脳裏に恐ろしいシナリオがよぎった。



 カシャン……。



 乾いた金属音といっしょに、天井から一本の剣が床に落ちる。

 見上げると無数の剣がシャンデリアの装飾さながらに、天井からぶら下がっていた。


 それらすべての先端が、侵入者である林太郎へと向けられている。


「まじかよ……」


 林太郎は未だ“最悪”に至ってはいなかったのだ。

 最悪が始まるとすれば、今この瞬間からである。



「なあ、おいソードミナス。起きてたら返事をしてくれ。ここらへんで引き分けにしておかないか?」


 林太郎は部屋の中央で静かに目を閉じるソードミナスに語りかけるも、当然のように返事はない。


 そしてこれが返事だと言わんばかりに、天井の剣が林太郎に向かって一斉に降り注いだ。


「うおおおおおおおおおおおおおッッッ!!! こちとらマスクねえんだぞ! 手加減しろよ、おぉぉぉーーーーいッッ!!!」


 第一陣は間一髪走って回避した林太郎だが、一息をつく暇もなく天井には既に第二陣が用意されていた。


 それどころかここは壁も床も、全てが剣で構成された空間である。

 少しでも立ち止まると、林太郎目掛けて四方八方から剣が襲い掛かってくる。


 ソードミナスという女王を守らんとする騎士のごとく剣たちは舞い、攻め手を緩めることはない。

 所詮は無機物、されど無機物、スタミナも在庫も文字通り無尽蔵なのである。


「ぐっ! うっ!? くそっ、こんなのいつまでも続けられないぞ!!」


 林太郎とてこういう事態を想定していなかったわけではない。

 だがしかしいざ対峙してみると、規格外の恐怖が林太郎に襲い掛かる。


 ソードミナスと林太郎を取り囲む、空間そのものが敵であった。




 …………。




「おかしいぜえ。山が止まってからもうずいぶん経つが何の動きもねえ。まさか兄弟のヤツ、しくじりやがったのかあ……?」

「アニキはちゃんとやり遂げるッス! アニキがサメっちに嘘ついたことなんて、一度もないッス!」


 外では巨大化した怪人たちが、お互いに不安な顔で剣の山を見上げていた。

 彼らは内部で繰り広げられている死闘など知る由もない。


 ただ貴重な時間だけが、刻一刻と過ぎていく。




「…………」

「紅茶が入りましてございます」


 少し離れた芝公園の中心で、優雅に紅茶を嗜みながらショーを眺める一行がいた。

 言わずもがな、奇蟲将軍ザゾーマとその部下たちである。


 彼らは林太郎の作戦には参加せず、ただ遠くからその様子を見守っていた。


「じきに動きがあるでしょう。我らがザゾーマ様の“秘薬”に万が一はございませんので……ほほほ」


 ザゾーマは銀色に輝く巨大な山を眺めながら、すうと目を細めた。

 そして紅茶を口に運び喉をうるおすと、静かに語り始める。


「愚者は己が身ひとつと、ひと振りの剣を手に竜を屠らんとす。されど硬き鱗は狂う飛蝗が如し、黒炎は絶なる死を纏いてしろがねの牙に傷痕を標す。屍は渺茫びょうぼうたる月下にてその身を休め、勇なる御名は枯楢かれならの葬碑に刻まれん」

「仰る通りでございます。デスグリーン様とて覚悟の上でございましょう」


 ミカリッキーをはじめ、居並ぶアリの触覚を生やしたザコ戦闘員たちも、うんうんと首を縦に振る。

 一呼吸置くと、ザゾーマはまるで弦楽器でも奏でるかのように言葉をつむいだ。


「盾鎧は炎砂に剥がれ、肉叢ししむら蛇蠍だかつに蝕まれ、鬼骨となりてなお剣を手にするならば。陽月は共に手を携え愚かなる同胞に導標を示さん。昼は夜に、夜は昼に、愚者の奢りは墓標の下に、勇者の誉はその胸にぞありきと」


 ザゾーマの放った言葉に、ザコ戦闘員たちがざわつく。

 外骨格ゆえ表情のないミカリッキーでさえ、思わずティーポットを落としそうになるほどであった。


「ざっ、ザゾーマ様それは……! 我ら奇蟲軍団、秘中の秘でございますれば……! さすがにその、それに今さらどうやって調達を……!」

「……………………」


 慌てふためくミカリッキーに、ザゾーマは何を言うでもなく空になったティーカップを差し出す。

 ミカリッキーはザゾーマからカップを受け取るとスゥッと大きく息を吸い込み、そして観念したかのように頭を垂れた。


「……かしこまりました。我らが偉大なる主、奇蟲将軍ザゾーマ様の御心のままに」




 …………。




 林太郎の身体に、タイムリミットが迫っていた。

 襲い来る無数の剣をさばき、避け、弾き、受け続けられるのは、ひとえに林太郎の実力とデスグリーンスーツの性能の賜物である。


 しかし限度を遥かに超えたデスグリーンスーツの負荷は林太郎の、人間の肉体を容赦なく破壊する。


「ぐぎっ! ……はぁ、はぁ……右腕一本ぐらいで、許してくれるような雰囲気じゃねえな」


 最初に利き腕が悲鳴を上げ、ついにその役目を終えた。

 続いて両の脚が脳からの命令に背き始める。


 動きが鈍くなるのに合わせて背中や脚への被弾が増え、ダメージが更に林太郎の肉体の自由を奪う悪循環に陥っていた。


 だが林太郎に身体をかばっている余裕などない。

 烈人の一撃でマスクを粉砕された今、頭に一撃を貰えばその瞬間にジ・エンドである。


 そんな林太郎の都合など知らずとばかりに、剣の群れの勢いは衰えることなく無機質に林太郎を攻め立てる。



 それでも。



 それでも林太郎が立ち続けていられるのは、目の前にソードミナスがいるからだ。


 林太郎の方を見るでもなく、彫像のようにただ静かに、だけど手を伸ばせば届く距離に。

 助けたい、救いたい、手を差し伸べたい、幸せにしたい女がいるからだ。



「うああああっ!! いつまでも寝てんじゃねえぞソードミナスぅぅぅッッッ!!!」



 剣のドームに林太郎の叫びが響き渡る。

 襲い来る剣を払いのけながら林太郎は一歩また一歩と、少しずつだが確実にソードミナスのもとへと歩み寄る。


「俺もお前もこんなところで立ち止まってられねえだろ! いつまで黙って運命なんかに流されていやがるんだ! お前はこれからもっと、たくさんたくさん幸せを知らなきゃいけないんだ! 奪われたぶんを取り戻さなきゃいけないんだ!」


 ソードミナスのまぶたがピクリと動く。

 ほんのわずかだが、林太郎を襲う剣の動きにかげりが生じる。


 林太郎はその微かな反応を見逃さなかった。

 自分の言葉はソードミナスに届いていると確信する。


「抗え! お前ひとりで抗えないなら、俺も一緒にあがいてやる! だから幸せを諦めるな! 俺もお前の幸せを諦めない、俺にはお前を幸せにする義務がある!」


 林太郎は最期の力を振り絞って叫んだ。


 極悪怪人と名を変えても消せない過去が今、千刃となって林太郎に降り注ぐ。

 だがそれを運命と甘んじて受け入れるほど、林太郎は優しい男ではない。


 元ヒーロー・ビクトグリーン、平和のためならば平和をも殺す男、またの名を緑の断罪人。


 栗山林太郎という男が、怪人を屠り、彼らから幸せを奪う者の象徴であったならば。

 剣山怪人ソードミナス、剣持けんもちみなとは奪われる者の象徴である。


 暗い地下に幽閉され、その特異な力を利用され、いびつな正義のいしずえとなることを強要された過去は、いくらぬぐい去っても消せるものではない。


 だがしかし、だからこそ、林太郎は湊を前にしてけして足を止めたりはしない。

 降り積もった鋭い剣の大地を踏みしめ、降り注ぐ剣をものともせずに前に進む。


「俺がお前を、剣持湊の残りの人生を、必ず幸せにしてみせる! だから目を覚ませ、俺を信じろ、湊!!!」


 それが、林太郎がかつて信じた、正義への復讐であり。

 湊がかつて囚われてた、悪のさだめに対する叛逆であった。


 運命は過去ではなく、未来に拓かれる。

 それをこの手で証明するために。


「……うっ……ん……」


 湊の頬に、緑のグローブに包まれた大きな手が触れる。

 剣のドレスに包まれた、白い身体がピクンと小さく跳ねる。


「ようやく捕まえたぞ。……悪いな、随分遅れちまって」

「りん……た、ろう……」


 閉じられた目がわずかに開き、あふれ出た一筋の涙が頬を伝う。

 もう利き腕どころか両脚も動かない林太郎は、残された左手でその雫をぬぐった。


 天井のみならず、床から壁から無数の剣が、未だ林太郎の背中に狙いを定めている。


 これでもダメかと、林太郎は小さな溜め息をついた。

 やはり秘薬がなければ力の暴走は収まらず、湊自身にも制御できないのかと。



 そのとき、林太郎のギアに一本の通信が入る。


『……………………』

「……それ、本当なんでしょうね? もし嘘だったら触覚を蝶々結びにしますからね」


 短い通話を終えると、林太郎は湊の顔をジッと見つめた。

 剣は今にも降り注いでくる、もはや疑っている時間はない。

 林太郎は意を決して、下唇を歯で噛んだ。




 ゆっくりと湊がその黒く長い睫毛を持ち上げる。




 涼し気な目が、林太郎の傷だらけの顔を見て少し驚いたように見開かれた。




「林太郎……、メガネはどうした――」




 湊の言葉は途中でさえぎられた。


 林太郎の温かい血の味が湊の口いっぱいにひろがっていく。




 幸せの“苦さ”を噛みしめながら、湊は再び静かに目をとじた。



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