私と読者と仲間たち

烏目浩輔

私と読者と仲間たち

 出版社の編集部で働きだしたのは大学を卒業してすぐのことだった。


 この業界が忙しいという噂は耳にしていた。しかし、いざ働きだしてみると噂以上の忙しさだった。ほとんど毎日終電近くまで残業し、ときには会社に泊まりこむこともある。よくこんなことを五年も続けてきて身体を壊さなかったと思う。労働基準法というものがファンタジーにすら感じる。


 ただ、昼食は意外とゆっくりとれる。ゆっくりといっても普通に一時間休めるだけなのだが。出版業界で普通というのは貴重なことだ。


 うえはらひろは自分のデスクで冷たいコンビニ弁当を突いていた。時刻は午後一時を少し過ぎている。


 なんの魚かわからないフライにザクッと歯を立てたときだった。隣のデスクにいる田村がPCのモニターを見ながらこう話しかけてきた。


「なあ、『情事と代償』って小説覚えてるか?」


 同期の田村も昼休憩中でデスクに菓子パンと缶コーヒーが乗っかっている。PCのモニターに映っているのはネットニュースらしい。


「ううじのあいせう……?」

「いや……」田村が呆れた目を上原に向けてきた。「口のもんを飲み込んでから話せって……」


 上原はフライを飲みこみつつ考えた。情事と代償……ああ、あれか……。


「覚えてるぞ。素人が書いた短編小説だろ?」

「そうそう、その『情事と代償』」


 『情事と代償』は某小説投稿サイトに公開された短編小説だった。五千文字ほどの創作ホラーで、一時期ネット上で話題になり、バズりにバズりまくっていた。


 ストーリーの大筋はこんな感じだった。不倫をしていた女が妊娠して相手の男に結婚を迫る。女は昼夜問わずに男に電話やメールし、ときには職場にも押しかけた。女のその様子に狂気を感じた男は、怖くなって女を風呂に沈めて殺害。遺体は山中に埋める。その後、男のまわりで怪現象が起きはじめ、まもなくして男の死体が自宅で発見される。男の死因は風呂場での溺死だった。


 ベタな内容でなんの捻りもない。上原も一応は読んでみたが微塵もおもしろくなかった。そんな素人ホラー小説がバズったのは、妙な噂がまことしやかに囁かれはじめたからだ。『情事と代償』の読者が次々に死んでいく。あの小説は呪われている。


 読めば呪われるという怖いもの見たさの心理に後押しされて、『情事と代償』はネット上で十万人以上に読まれた。大手検索エンジンのWEBニュースにも取りあげられたほどだ。そのブームのピークは半年ほど前のことで今は少し落ち着いてきているが、それでも『情事と代償』は未だにそこそこ読まれているという。


「『情事と代償』の作者がな」田村がまたPCのモニターを見ながら言った。「殺されたみたいだわ」

「へえ……」

「ネットニュースによると犯人は二十代後半の会社員みたいだ」


 上原は正直あまり興味がなかったが、田村はお構いなしに説明を続けた。


「『情事と代償』の作者は二十一歳の男子大学生らしくてな、大学の文芸サークルに在籍していたみたいだ。『情事と代償』はそのサークル活動の一環で書いた作品で、サークル名を小説投稿サイトに載せて宣伝していたらしい。犯人はそこから作者を特定して殺害したようだな」

「ん? 特定? つまりあれか、犯人は『情事と代償』の作者を狙って殺したってことか?」

「そういうことだ」

「なんでまた」

「『情事と代償』の噂を信じたみたいだぞ」

「噂ってあれか、読んだ人間が次々に死んでいくっていう……」


 田村は頷いた。


「犯人には結婚する予定があったんだけどな、その婚約者の女が交通事故で死んだんだ。事故の詳細はネットニュースにも載ってないけど、できちゃった婚で女の腹には子供がみたいだ。実はその女が『情事と代償』を読んでいたらしい。女は『情事と代償』を読んだあとに死んじまった。犯人は『情事と代償』の読者が死ぬっていう噂を信じて、書いたやつのせいだと考えて復讐したってわけだ」

「読んだら死ぬなんて、幼稚な都市伝説だろ。そんなもんを本気で信じるやつがいるとはな。殺された作者はマジで災難だな」


 『情事と代償』を読んだ者が次々に死んでいくというのはまったくのデタラメだ。そんな事実はない。犯人の婚約者が事故で死んだのは単なる偶然にすぎない。しかし、犯人は婚約者の死を偶然だとは考えず、作者を恨んで殺害したらしい。


「けどな、犯人が幼稚な都市伝説を信じたバカってだけの話でもないかもしれない」

「おういうおとあ?」

「だから、口にものを入れてしゃべんなよ」


 上原はしゅうまいを飲みこんで言い直した。


「どういうことだ?」

「『情事と代償』を書いた作者だけどな、小説が一番バズってた時期に、別のことで大炎上してたんだよ」

「別のこと?」

「作者の元カノと名乗る女がSNSでこんなことを暴露してる。高校からつき合っていたのに、浮気して別の女に乗り換えたってな。それで炎上ってわけだ。けどな、小説がバズるきっかけになったのもその元カノなんだよ。『情事と代償』の読者が次々に死んでいくって噂は、どうやらその元カノが最初にSNSで発信したらしい」

「フラれた腹いせに死ぬなんて噂を流したのか?」


 皮肉なことにその嫌がらせが小説をバズらせしまった――ということだろうか。


「いや、腹いせじゃないかもしれない。あえてバズらせたっぽいな。『情事と代償』がネット上で話題になりはじめてからも、元カノは次々に死ぬって噂をSNSで発信し続けてたんだよ。その不気味な噂が小説を後押ししてるって、最初はわからなくても途中でさすがに気づくはずだろ。けど、元カノは噂を発信し続けてる。あえてだな」

「もしかして、元カノは未練タラタラなのか。小説がバズったのは私のおかげでしょ。だから、ヨリを戻して的な感じで噂を流しとか?」

「たぶん、違う」

 

 田村はそう言いながらマウスを操作した。それから、「これを見てみろ」とモニターを視線で示した。言われるがままモニターを覗きこんでみると、ネットニュースではないサイトが表示されている。


「作者はなかなかおもしろい逸材だ。『情事と代償』がバズるし、元カノのことで大炎上するし。だから、誰かが作者のあれこれをネット上でまとめてる。これはそのサイトなんだ。でな、作者と一緒に元カノのこともまとめられてるんだよ。それによると、元カノは過去にSNSで意味深な書き込みをしてる。ここだ」


 田村が指差したところに上原は目をやった。SNSのスクリーンショットらしき画像が貼りつけてある。


 ――読者は私の味方です。仲間と言ってもいいかもしれません。きっと、仲間の誰かが私の願いを叶えてくれると思います。M・Tは許せません。


「M・Tって誰かのイニシャルか?」

「作者のイニシャルだな」


 『情事と代償』の作者は本名が特定されていた。本名のイニシャルはM・Tだった。


「これは元カノと名乗る女の恨み節のSNSだよ。作者を許せないって恨みまくってる。でな、〝私の願い〟ってのはこのことだと思わないか?」

「このこと?」

「だから、作者が殺されることだよ」


 田村の考えはこうだった。


「元カノはあえて『情事と代償』をバズらせたんだよ。読むと死ぬって噂を立ててな。結果十万人以上が『情事と代償』を読んだ。その数の人間が読んだんだから、中には偶然死ぬやつだっているさ。だが、死んだ人間に近しいやつは、偶然とは思わないかもしれない。『情事と代償』を読んだせいだと、『情事と代償』を書いた作者のせいだと思う可能性がある。元カノはそれによって作者が復讐されることを見こんでバズらせたんだ。自分の手を汚さずに殺害した。ある意味完全犯罪だよ」


 上原はもう一度元カノの書きこみに目を通した。


 ――読者は私の味方です。仲間と言ってもいいかもしれません。きっと、仲間の誰かが私の願いを叶えてくれると思います。M・Tは許せません。


 確かに田村の主張どおりに読み取れなくもない。だが、上原は田村の考えに懐疑的だった。


「さすがにそれは考えすぎじゃないか……」

「俺も考えすぎかとは思ったんだよ。けどな、作者が殺されたという報道があったのは今朝でな、元カノはさっきまたSNSに投稿してる」


 田村はその書きこみをモニター上で上原に見せた。


 ――今日、とても嬉しいことがありました。私の願いが叶ったのです。今日はランチを奮発しようと思っています。


「これだけじゃないんだ。続きがあるんだけど、元カノの狂気を感じるぞ」


 田村はそう言ってサイトを下にスクロールさせる。


 ――本当に嬉しいです。やっとあいつがいなくなりました。とうとう仲間がやってくれたんです。これであのクズをようやく忘れられそうです。だってもういなくなったんですから(笑)。ああいう人間は必要ないです。仲間が私の願いを叶えてくれました。今日はランチを奮発しようと思います。嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい。


 上原が読み終わったのを見計らって田村が尋ねてくる。


「どうだ。狂気を感じないか?」

「まあ、これは確かに狂気を感じるな……けど、狂気を感じるからといって、お前の完全犯罪説が――」


 上原の話を遮るように田村が言った。


「それでな、もっとヤバいことが発覚したんだ。実はこの女、元カノじゃない。自称元カノだったんだよ」


 田村が集めたネット情報によると、作者のほうは女とつき合ってはいるつもりはなかったそうだ。女が一方的に好意を寄せて、彼女になったと思いこんでいただけらしい。ようするに、ストーカーだった。


「このストーカー女は勝手に作者とつき合っている思いこみ、勝手に作者を恨んでついには死に至らしめた。それだけでも充分狂気だけど、今頃その悦に浸りながらどこかで豪華ランチを食ってるかもしれない。マジでヤバいやつだよ」


 上原は女の姿を想像した。イタリアンらしき豪華ランチを食べている。満面に嬉々とした笑顔を浮かべて、パスタをぐちゃぐちゃと咀嚼していた。


 あいつが死んだ。嬉しい嬉しい嬉しい――。





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