存在証明

 月が、高くあった。

 ふわりと舞い落ちる、白い欠片。気の早い初雪は、天気雪だった。純白の粉雪が、ケルンエヒトを覆いつつあった。

 難易度の高い、守護結界のなかからの転移。悪影響がないか五体を確認してから、ハインは立ちあがった。ヴァイセルシュタイン城から限界まで遠く転移した森のなか。以前の工房跡。

 冷たい汗に濡れた白い顔で、ハインはあたりを見回す。

「大丈夫か!」

 駆け寄る小人と、負傷した犬人。ふたりはその肩に担がれた犬を見て、安堵する。だがハインの顔色を見て、すぐにただごとではないと悟る。

「どうした、なにがあった」

「……卿が、止水卿が裏切った」

 青褪めたハインの言葉に、ふたりは絶句する。嘘だろ、とダンは震える声で言う。

「――やっぱり、なァ」

 三人の視線が、木陰から現れた少女に集まる。

「知ってたのかよ、ルオッサ!」

 オルゼリドの裏返った声に、少女は仏頂面を、白い目を向ける。

「知らねェよ。――なんとなく、そンな予感があっただけさァ」

 沈黙。

「ともかく、リタを助けだしたならとっとと撤退だ! 冬の雪山とか言ってらんねえ、一刻も早くこんなところからおさらばしねえと……!」

 オルゼリドはダンと目配せし、ハインもうなずいた。本拠地、サーインフェルクはどうなっていよう。それさえ曖昧なまま、彼らは走りだす。

 ――ひとり、少女を除いて。

 ハインは、一向に動こうとしないルオッサへ叫ぶ。

「何してる! ルオッサ、早く――」

「なに、勘違いしてンだァ?」

 頓狂な、高い声。仏頂面が一気に破れる。ニタリと少女は笑い、呆けたように口を開いたままの三人をげらげらと笑った。やつれた顔に爛々と光る瞳は餓狼を思わせる。

 そして。いきなり真顔に戻る。

「ハインさァ――コレ、返すわ」

 放り投げられ、足元に転がったもの。それは、竹筒だった。踏みつぶされ、割れてしまったその瓶のなかから、場違いな香りが漏れ出す。

「……どういうつもりだ?」

 歯を食いしばるハインへ、ルオッサは歯を剥いて笑いかける。

「肩の上によ、脳ミソっつうモンが詰まってンの、知ってッか?

 それさァ、便利だから使ってみた方がいいぜ?」

 ハインの後ろで、ダンが悪態をつく。だから、言ったんだと。

「黙っててくれ!

 ルオッサ、おまえは……おまえまで俺を裏切るというのか?」

 普段の冷静さを欠いて、ハインは懇願するように言った。眉を下げたその犬顔は、十年も歳をとったかのように毛艶が悪かった。

 そんな彼の姿を見て、ルオッサは不意に冷めた顔になる。気の狂った少女はどこへ、その顔は、相対する犬人と変わらぬほどに老けてみえた。

「オマエの前に立ってンのは、。ふたり欠け、ふたり補充されるッつうワケだ。今回の遠征、まるきりの徒労だったな。ハハ、ご苦労サマってこった。

 ハイン。次に会う時ァ、敵同士だ。そんな腑抜けたツラ、アタシの前に晒してみろ。

 今度こそ、その喉笛を喰いちぎって……クソにしてやる」

 そうして、狼少女は背を向ける。月光は大樹に遮られ、大きな影を投げかけていた。細かい粉雪は、誰も彼も等しく、白く、染めはじめていた。

 犬の騎士は、あらゆる言葉を失っていた。仲間に促され、冬の夜の山を下る。でも、心は遠く、背後に置き忘れていた。

 悔しかった。あまりにも憎かった。

 次の手立てを――指揮官を失った今、その次にやるべきことを列挙し、優先順位をつける自分に。自分の感情を脇にやり、趨勢をはかるため使い魔を放つ自分に。

 一年以上前――あの晩もこんな夜だった。あの夜、彼は覚悟していたはずだった。素性の知れないものを引き入れることの意味を、当然あるべき代償を。同盟の実権を握る賢者の裏切りに比べれば、取るに足らない、分かりきった結末だった。

 ――じゃあなぜ、自分はこれほど打ちひしがれている?

 彼は再び、かつての凍てつく鉄面皮に戻っていた。胸の内で暴れまわる駄々っ子を押し殺し、封じ、大義を執行する――慈悲なき殺戮者へと。

 彼が無表情のうちになにを思おうが、事実はなにひとつつかめない。だがしかし、分からないことばかりであろうと、たったひとつだけ確かなことがあった。

 開戦は近い。

 ヴェスペン同盟にとって、絶望的な戦いが。


         ――The dog and wolf will slaughter, for themselves, themselves.

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気狂い少女と犬の騎士 化野知希 @looshee

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