裏切り
謁見の間へ。はやく、早く!
犬人ハインは、見慣れた回廊をひた走る。それは十年近く前の記憶で、もはや彼に感傷はない。――胸の奥に眠る、押し殺したはずの自分、かつての自分以外は。
ルオッサの顔をしただれか――
『これは罠だ。地下へ行った仲間も危ない。君だけでも命があるうちに逃げるべきだ』
――そう、合理的に。
答えは知っているだろう。そう言うハインの言葉に、それは寂しそうにうなずいた。ハインはオルゼリドにルオッサたちを頼み、単身、隠し通路を通って潜入した。
敵の姿はなく、魔術的な探知も防護もない。あけすけに誘われていた。だがリタが無事なことも明らかだった。城を包む守護結界をすり抜けたことで、
なんの危険もなく、謁見の間の扉の前までハインはたどりついた。目を閉じ、魂の上の呪文書を確かめる。これまで何度も行ってきた手順。違うのは――弓引く相手が、かつての主だということだけ。
ハインはソードブレイカーを構えながら、使用人用の小さな扉を押し開けた。
謁見の間。高い天井の中心では、巨大な水晶が青く輝いていた。かつてはなかったその宝飾に、ハインはすぐさま目的を悟った。それは、大規模な儀式や呪文の完遂を可能とする、特別な焦点具だった。
青白い光に照らされる、大広間。間隔をあけて数段ずつ、低い階段が彫られていた。どれだけ注意深く歩いても、その大理石の床は足音を立てるだろう。
青い水晶の、六角柱の結晶。その下で、愛犬は幾何学図形の結界に囚われていた。
「……!」
その結界の奥に立つ、ひとりの人影。ハインはその人相に、息をのむ。
「久しぶりね、ハイン」
舌打ちひとつ、ハインは扉の陰から歩みだす。大理石をうつ足音のなか、青鹿毛のコボルトはその女性の前に立った。
長い金髪をたなびかせる、竜の紋章の杖を携えた王――血花王。
「リタを返してもらう」
ハインは右手を空けたまま、油断なく短剣を突きつける。
女王は水晶の杖をぎゅうと握りしめ、きんとひとつ、床を突いた。
「……どうして。なぜ、あなたは――」
「黙れ。“簒奪の”はどこにいる。いないのなら――」
わなわなと震える女王に、ハインは身構える。その杖を掲げ、ハインを見つめた。
「不在の者より、ここにある私を見なさい!」
ハインは頭上の変化に気づく。青い水晶が、群青の火花を散らす。
刹那、雷轟とともに藍色の稲光が走った。
爆風が粉塵を巻きあげ、広間は白煙に包まれる。
女王は我にかえり、駆け寄ろうとする。だが。
瞬間、青鹿毛のコボルトが煙のなかから飛びだした。その身にまとう不可視の盾、《
「――汝、無に
ハインはリタの解放を認めるや、体をひねって左の短剣を投げた。その射線の先、血花王の、次の詠唱を始めていたうら若き王の瞳に、飛来する凶刃が映る。
もう、間に合わなかった。
ハインが着地しながら、リタを抱きとめる。
――きぃん。着地と同時に、甲高い金属音がした。
「……は?」
ハインは、我が目を疑った。
時間が停止したようだった。
だが、そうではなかった。その証に、弾かれた短剣が床に突き立つ。
「なぜ……。なぜ、あなたが……ここに」
あえぐように、ハインは声を漏らした。
「なぜ? なぜ……か。
ハイン、私は常々、自分自身の考えを持てと教えてきたはずだがね」
肺がきりきりと痛む。早鐘のように脈が打つ。気が遠くなりそうな感覚のなかで、けれど、そうあれかしと育てられたハインは、欠けた破片があうように理解した――してしまった。
――おかしいとは思っていた。裏切者が、ベルテンスカに通じた者がいるとすれば、指揮権を持つ自分の周囲にしかいないはずだった。だが、誰も知らないはずの新しい工房の位置を知られ、兄弟や
でも――ダンとウラ、
「なぜ、なぜここにおられるのです! ……“
細剣を戻し、緩やかに、流麗に鞘に納める――黒髪を後ろでまとめた、初老の紳士。
止水卿。自由都市サーインフェルクの実質的な主権を握り、ヴェスペン同盟盟主、ビルギット・ヘンネフェルトの師として同盟を指揮する、ならび立つものなき賢者と讃えられる魔術師にして――ハインの師。
「分からぬのであれば、用済みだ。とく消え去るがいい」
ハインが
ハインなら詠唱と動作に六秒もかかる、《火球》。それが、天井を覆い尽くすほどに《
「……ほう」
止水卿は突然、宙をつかむような動作をする。出現が唐突であれば、消失も無詠唱。もうそのときには、大火球は影も形もなくなっていた。
――同時に、二匹の犬の姿も。
「この守護結界の内から《転移》で離脱するとは――事前に儀式を行っていたにせよ、なかなかの精度だ。また腕を上げたか。
さて、いかがいたしますかな。ご希望とあらば、追跡も可能ですが」
かたわらの女王は、すぐには答えなかった。だが、ひとつ息を吐くと、顔をあげて宣言する。
「不要です。いずれまた、
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