終章 戦乱前夜

蒼紋病

 白い月光が、小さな窪地を照らす。

 東の大山脈は、月明かりにもその暗がりを奪われずにいた。

 黒衣の青年は、覆面を外して眼下の激流を眺める。その水面の上、月は千々に砕け、きらきらと瞬いていた。顔をあげ、月を見上げる。晴れた夜空、月は光輪をまとって青年を照らす。その頬には、藍色に光を失った痣があった。

「フェルンベルガー……さん?」

 その青年がふりかえると、ひとりの少年が木陰から覗いていた。少年の顔にはまだ、青黒い斑点があった。けれど、手首に覗くそれはだいぶ薄れていた。

「……よかった。アントン、君だけは死なせたくなかったんだ」

 アントンは何も言えなかった。彼はただ主人に促され、ここまで降りてきただけだ。フェルンベルガーの秘密も、彼のこれからの運命も、知るよしがない。

 けれど、やつれたその顔と満ち足りた表情を見るや、なにかを察しつつあった。

「あなたは、どうなるんですか」

 フェルンベルガーは笑みを消し、困ったように“竜の刻印”のある頬をかいた。

「――おわかれだ。僕は本当なら、五年前に死ぬべき人間だった。なのに、強欲にも生きたいと願ってしまった。そのせいで、罪もない民を大勢死なせた。……やっと、区切りがついたんだ。刻印に生かしてもらうのも、ようやく終わりにできる」

 彼は長雨の後のように晴れやかな顔で、そう言った。

 けれど、アントンは身を切られるような胸の痛みを感じた。

「どうしてですか! おれ、やっと楽になれると思ったのに――先生みたいな立派なお医者さんが死んで、どうしておれみたいな、薄汚い人殺しが生き残るんですか!」

 フェルンベルガーは眉を下げて困惑し、いや、と深く謙遜した。年若い、もうじき青年になる少年の、ひたむきな視線。彼は、そんなまっすぐな目を見られなかった。

「アントン。君は知らないかもしれないが、医者は詐欺師の別名だ。何の効果もない薬を高値で売り、血を抜いて死期を早める。僕はそれに、疫病神を足した存在なんだ」

「先生は大金をせしめたんですか、治療で人を殺したんですか!」

 歯に衣着せぬ問いに、彼は言葉に詰まった。そして、その問いには答えずに言う。

「僕は――医術は無力だ。口を利くものの知識は、まだ人を救えない。僕がまっとうできたことといえば、髪と髭を整えるくらいのことだったんだ」

 鬱蒼とした東の地の森よりも深い、泥炭のような絶望。それに入り混じる後悔が、青年の端正な顔を醜く歪める。

 けれど、間髪入れずにそれは否定される。

「そんなこと、ない!」

 アントンの真摯な声に、フェルンベルガーは顔をあげた。

「おれは一年半、サーインフェルクにいました。テオっていうお医者さんが、お金もろくに取らずにみてくれてたって聞きました。それって、先生のことなんでしょう? みんな、神さまみたいな人だったって――」

 フェルンベルガーは、言葉を失った。小刻みに首を振り、うつむいて否定する。

「……違う。神様なんかじゃない。神様なら――僕は、あんなに……」

「だれも、ありがとうって言わなかったんですか? みんながみんな、先生を嘘つき呼ばわりしたんですか?」

「ありがとう……?」

 そして、彼は思いだした。

 光景が目の前に交錯する。彼が看取った無数の人々、その声を。

 ――朦朧とする男は、うわごとの最期にこう言った。

『せんせ……すまね、な……』

 腕を切断された男は、息を引き取る間際に、こう言った。

『ああ――きれいな、おひさまだ……』

 忌み子を産んだ母は、肉塊を抱きしめ、こう言った。

『ああ……。この子に会えて、よかった……』

 彼は、なにもかも覚えていた。けれど、真に見るべき結末から、目を背けていた。

「そうだったのか……。僕は、僕のやってきたことは……!」

「先生は、無力なんかじゃありません! だから、どうか――」

 その時、青年は小さく咳をした。その口から、真っ赤な鮮血がどろりと垂れる。

「先生!」

 彼は立て続けにせきこみ、その場に崩れ落ちる。アントンが駆け寄る。

 だが彼は、来るな、と叫ぶ。

「これは、蒼紋病よりも厄介だ。僕の死後も残るのだからね。

 ……アントン。ありがとう、最期に気づけて、本当に良かった」

「なんで……先生はなんにも分かってない! おれは、おれなんかが――」

 青年は、口からあふれる喀血を拭う活力もなかった。けれど、月光のように静かな声でアントンの名を呼んだ。

「君は、その罪の重さを知っている。ならば罪は償えるんだ。天の宮の主は、裁きの神なんかじゃない。人はあまりにも弱く、罪を犯さざるをえない。けれど、主は人をゆるし、見守ってくださるんだ。君にしかできないことが、必ずある。そのために、主は君を生かしている。だから、その日まで……君は生きなさい」

 彼は草地の上に倒れこみ、再びせきこむ。アントンは駆け寄りそうになるが、再び制される。心臓まで吐きそうなほどの咳に、枯れた草が赤く染まる。

「おれ……きっとまた、殺しちまう。それでも、生きなきゃ……いけないの?」

「……ああ。この世に無意味なものなんて、ひとつとしてないんだよ。あるとすれば、自ら無意味と決めつけた人生くらいなものだ。君の行いには、必ず、意味がある」

 だから、安心しなさい。神様は、きっと見ていてくださるから。

 アントンは、目の前で消えゆく命を見ていた。ふとなにかを思いだしそうになって、彼はそれを言い訳と打ち消す。

「……分かった。殺しちまうかもしれない。でも、責任は取るよ。おれのすることに意味があるなら――いつか、罰があるはずだから」

 フェルンベルガーは、血塗れになって笑った。ひゅうと喉が鳴る。月をあおいで、霞む目でアントンを見た。

 その男は――“蒼紋病”は、滅ぶとき、なにかを口にしようとした。でもその声は、一陣の風にかき消されてしまう。

 けれど、アントンにはわかる気がした。

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