生きて
亡者たちが
わずかな灯明。暗く、しんと凍てついた大気。それらがあの日の夜を思いださせる。
――ほとばしる血煙を、飢餓に狂う瞳を。
水滴の音、何かを引っ掻く音――かすかな呻き声。たったそれきりの静寂を破り、ルオッサは止め金を外す。ゆっくりと
対するは白い聖女、偽りの聖女。漂白された瞳が、穢れた少女を見下す。
薄く笑って、すらりとそれを抜き放つ。
黒く錆びついてしまった、銀の短剣。聖ヴェロニカの御名におき、聖別されし短剣。――ルオッサがかつて贈った、誓いの証。
「ここに宣言します。ルオッサ、あなたは恥ずべき罪にまみれ、あまつさえ罪を重ね、みずから悪鬼へと堕落しました。あなたは償わなければなりません。その命をもって
白く、銀の短剣が光を持つ。瞬く間に錆は落ち、新品同様にぎらりと輝いた。
ぞわり、とルオッサの背を寒気が走る。回廊の両脇、牢のなかで一斉に亡者が立ちあがり、鉄格子にひしめいた。ルオッサは額に浮いた汗をぬぐう。
眼前に錯綜する、いくつもの記憶。橙色の花を前に笑う少女。涙をこらえながらも、気丈にもアタシをかばう少女。木の実に唇を紫に染めながら、にっこりと笑う少女。腹をおおきく膨らませ、苦痛にあえぐ少女。――血走った目で、アタシを獲物としか見られなくなった銀狼。忌まわしい過去を思いだし、虫唾が走る。
……ああ、でも。白く色褪せ、酷薄な笑みを浮かべる少女を前に、ルオッサは思う。
あの見開かれた
歯の根が鳴る震えを、歯を食いしばって押さえつける。
少女は決意を胸に、そっと、けれど力強く囁いた。
「イレーネ。アタシは
聖女の眉根が、かすかに曇る。「かかりなさい」
けたたましい音とともに鉄格子が一斉に外れる。白蝋のような腕、焦点のあわない白んだ目。無数があわさり、ひとつの生き物になって殺到する。
ルオッサは一人目の足を叩く。その亡者は胴を中心に回転し、勢いのまますっ転ぶ。が、次にきた腕が槌をつかむ。はなせ、とルオッサがもたつくうちに、紫に変色した顎が、大きくぽっかりと口を開けていた。
べきり。
ルオッサは相手の指をへし折りながら、メイスをもぎ取った。そのまま振りかぶり、その大口へ叩きこむ。いつの間にか、
「無駄なことがすきなのね。あなたの命運はここで尽きるのに。はじめから、世界がはじまる前からそうきまっているの。主はみな、なにもかもおさだめになっている。運命に服することが、幸せなんだよ。
――ふふ、ふ。うれしいでしょう? 無駄で、無意味な“受難”もこれでおしまい。地上での苦しみはこれで最後――冥獄では、もっと苦しむでしょうけどね?」
偽りの語調を崩しながら、白い聖女はイレーネの言葉を吐きかける。
イレーネの亡者の動きは、それほど早くはない。だが、完全に動きを止めるには、頭を潰さなければならなかった。同じ年頃の少女より怪力とはいえ、ルオッサの手に余る頭数だった。一体を転ばせるうちに二体に捕まり、もがくうちに転倒させられる。それでも、ルオッサは笑った。いつもの悪辣ではなかった。
「終わりだって? 冗談だろ? ――アタシがこんなにも苦しんでいることを、主は見ていてくださる。アタシの苦しみは、アタシだけのモンじゃねェ!
だからよ――なにも、無意味なンかじゃねえ。
アタシは
戦槌で頭を叩き、その目に指を突っこみ、引きずりおろす、叩き潰す。
「いま行くからよ、……そこで待ってろ!」
ルオッサの叫びに、イレーネは答えなかった。希薄だった笑みすら消して、短剣を振り下ろす。その瞬間、回廊の奥の棚。その上で目覚めるもの。何段にもわたる棚は、一段それぞれが寝台ほど大きかった。その台上、蒼い紋様を刻まれた兵が手足と首を鎖で打ちつけられている。そのうちの数体が開眼し、いきなり動きだした。速やかに立ちあがろうとし、拘束に気づくやそれを引きちぎった。そして、機械じみた動きで駆けつけ、イレーネの背後にかしずいた。「控えなさい。出番はないでしょうけれど」
ルオッサはつかみかかる腕にしがみつき、胴体をあらんかぎりの力で蹴り飛ばす。引っこ抜けた腕を、鞭のように振りまわして薙ぎ倒す。倒れざまに鋭い爪が、少女の顔を裂く。ルオッサは悲鳴をあげる。傷が
「どうかしら。さぞかし痛むでしょう? わたしは主のご意思で蘇り、おなじように聖霊を吹きこんで
白煙があがり、傷が焼ける。だが、赤い血がその顔を濡らしても、ものともせずにルオッサは突き進む。噛みつかれて肉が
時に立ち止まろうと、少女は決して退かなかった。その決意に聖女の表情が崩れる。
「あなたはどうして、――どうして立ちあがるの。
ルオッサは落ちたメイスを拾い、狼のように吠える。――なぜ? なぜだと?
「
アタシの欲望のままに――行けるところまでゆくと決めた! その道行きで犯した罪を、主だけは見ていてくれるのだから!
なにより――まだゆける
涙を浮かべ少女は
奮闘の甲斐あってか、亡者の群れは確実に数を減らしていた。押されつつあった。いくつもの手傷はルオッサを奮い立たせ、古いものから順に超常の力で癒えていく。
イレーネは、そんなルオッサの姿を見て、震えていた。ぎゅうと左の脇腹を押さえ、違う、とつぶやく。
「あらがうから、自分のちからだけで、なんでもできるだなんて思うから――きみは苦しんだんだよ! これは罰、罰なんだよ! 身の丈をわきまえて――あたしには、到底できっこないってあきらめていれば! こんなことにはならなかった!
どうして、――
イレーネの脇腹から、青白い光が漏れる。黄色い血が指の間からあふれでる。刹那、精細を欠いた亡者の動きに力が満ちる。蒼紋兵に勝るとも劣らぬ、迅速で無駄のない――殺戮のためだけの駆動が。
ルオッサは足を取ろうとするが、反対に弾かれてしまう。その一瞬の隙に別の腕がルオッサの首をつかむ。吊りあげられ、足がつかない。少女の指では引き剥がせない。
……息が、できない。
万力のような力だった。ルオッサの口から泡がこぼれた。その間にも次々と亡者は腕を突き出す。少女の両腕両脚はいくつもの腕につかまれ、かじりつかれる。少女は暴れるが、数多の腕と口がそれを妨げる。
ぶちぶちと音が響く。胴体に食いついた
流血はなかった。肉は食いちぎられなかった。だが、コートは破れ、瘢痕だらけの胴体があらわになる。白い幼子の腹に、黄色く腐敗した歯が突き刺さる。
意識が遠ざかる。股ぐらからじゅう、と雫があふれる。
「イ、レー……ネ……」
末期の息は、友の名を呼んでいた。
白い少女は、色を失って友を見つめていた。ぶるぶるとふるえる腕が、銀の短剣を振りあげる。だが、振り下ろせない。
もう片方の手、薬指のない手が、その指令を引きとめようと手首を握りしめていた。イレーネはその手に気づき、表情を失った。
あたしは、なにを――?
「おわりよ、もうおしまい! さようなら――ルオッサ!」
左手を引き剥がし、ひとおもいに短剣を振り下ろす。神威の奴隷たちへ命令を下す。殺せ。引きちぎれ。八つ裂きにしろ。無慈悲に、無情に命ずる。終わらせるため――なにもかも、終わらせてあげるために。
黒い血がほとばしった。
ねばつく流血が、あたりを血の海に変える。いくつもの腕が、頭部が冷たい石畳に転がっていた。半ばとろけた脳漿が、
「そんな――。ああ、ルオッサ……!」イレーネは、うめくように言った。
血と肉片と、臓物に彩られた惨劇の舞台。その中心に立っていたのは。
「あァ――最悪の気分だ」
動脈血のように赤い、その瞳。腐った返り血を浴びた顔は長く伸び、黒い狼に成り果てていた。怒りと悲しみに鼻先を歪ませ、低く、暗く唸っていた。
その手足、胴体の傷が、急速に塞がれていく。後にただ、瘢痕だけを残して。
もはや。イレーネの科した、刻印による封印は爆ぜとんでいた。
「っ――ルオッサ……!」
イレーネは再度、亡者の軍勢に命令を下そうとする。
だが。
新月の夜より黒い、その人狼の手。そこには、傘十字の
「汝は
塵は塵に。灰は灰に――《
それは厳かで、静かな終わりだった。元より白蝋のような死体たち――イレーネの刻印によって保存された
「そんな――
「
だいたい――主が自ら、御手による奇蹟たる生を穢すはずがねェだろうが!」
ルオッサの言葉に、イレーネは反論しない。できるはずがなかった。
後に残ったのは、ルオッサの信仰呪文を弾いた蒼紋兵と、イレーネだけだった。
「……みとめない。きみはまちがってる! まちがってるのはあなたなの!
だって。だって、そうじゃなきゃ、
……いって! ルオッサをとめて!」
すらり。一糸乱れぬ動きで蒼紋兵が剣を抜き放つ。仮面のような無表情で、一匹の人狼に襲いかかる。
「邪魔すンじゃァ――ねえ!」
――本来なら。発症から何年も経った人狼は、とうの昔に発狂しているはずだった。なのに、ルオッサは二年前でも困難だった、変身中の呪文行使さえやってのけていた。
頭が重い、今にも割れそうだ。けれどあの封印の残り香か、自我だけは明瞭だった。
聖印をポケットにしまいながら、足元のメイスを拾う。蒼紋兵の動きは完全に同期されており、乱戦は避けられない。ルオッサは蒼紋兵めがけ、うなりをあげて戦槌を投げる。今のルオッサにとっては、小石のようなものだった。
一人目の頭をめがけ、メイスは砲弾のように飛来する。彼はそれを腕で防ごうと、力任せに弾こうとした。
べきり。
重量に負け、左腕がひしゃげる。だが骨折を気にも留めず、彼は折れた腕を振ってメイスを払いのける。しかし。
その陰から、黒い狼が牙を剥きだして現れた。憎悪と哀しみに瞳を真っ赤に燃やし、白い吐息をたなびかせて。
ずぶりと指が突き刺さる。ルオッサの二本の指が、蒼紋兵の両目に食いこんでいた。眼窩をつかんで引き寄せ、飛びつくと、そのまま右腕で肩を抱きよせ、左腕は頭骨を押しだす――べきっ、と音がした。人外の怪力が、瞬く間に頚骨をへし折っていた。
水っぽい音とともに、狼は眼窩から指を抜く。その爪は剥がれ、関節は砕けていた。だが、見る間に再生が始まる。
別の蒼紋兵が剣を振るうが、首の折れた胴体が倒れる前に人狼は飛び移っていた。首元に飛びつき、同じように首を取ろうとする。
しかし、それは既に学習済みだった。
「ぐッ……!」
ルオッサの左腕をつかむ手。一瞬遅れ、剣が石畳に落ちる音が鳴り響く。蒼紋兵の左腕が、短剣でルオッサの脇腹を刺し貫いていた。
「ンな、モンじゃ――ねえ!」
ルオッサは蒼紋兵の胴体につかまりながら、短剣を持つ手をつかむ。ぎりぎりと、蒼紋兵の腕を引きあげる。己の臓腑を切り裂こうとする短剣を、その腕ごと。
「
自分の脇腹を引きちぎりながら、ルオッサはその短剣を敵めがけ引っぱりあげる。刃先がルオッサの体を突き抜け、蒼紋兵のチェインシャツを貫いた。そのまま何度も、刺し貫く。何度も、何度も。心の臓を滅多刺しにする。
がくりと蒼紋兵から力が抜ける。仰向けに倒れた蒼紋兵の上、ルオッサは速やかに飛びあがろうとした。しかし、胃の腑が切れたか、ルオッサは口から血を吐く。血を失って、意識が遠くなる。
――時間をかけすぎた。そう気づいた時には遅かった。
「が、ふッ……!」
最後のひとりが、ルオッサの背中を袈裟斬りにした。
吐息に血が混じり、霧となる。真っ赤な血が、石畳に飛沫をつける。
「ルオッサ……!」
イレーネが悲痛な声をあげた。ルオッサの体が、ぐらり、と均衡を失う。
蒼紋兵は機械のように無慈悲に、とどめの一撃を振りかぶる。
「ルオッサ、ルオッサ――!」
イレーネの四指の手が、その意思に逆らって向けられる。
友へ、最初で最後の友達へ。
岩を斬りつけるような、鈍い音がした。
ルオッサの手が――小さな少女の手が、振り下ろされる剣を握りしめていた。剣は骨に食いこみ、微動だにしなかった。
「させるか……させるかよ! アタシは、アタシはルオッサだ!
ルオッサは力任せに剣をもぎとった。自分自身の骨を削る音。狼少女は奪った剣を構え、立ちあがりざまに跳躍する。蒼紋兵は身構えるが、余りにも足りなかった。
人狼の膂力でくりだされた一閃は、肩から入って胸を真っ二つにした。短剣を抜きかけた腕を骨ごと断ち、そこで剣が耐えきれずにへし折れた。
りぃん、と剣の断片が
どう、と最後の蒼紋兵が倒れる。
ルオッサは折れた剣を投げ捨てる。背中と脇腹、両手を鮮血に染め、肩で息をしてふりかえった。
イレーネは、銀の短剣を構える。構えるが、四つ指の腕はぶるぶると震えていた。
「イレーネ……もう、いいだろう。アタシの勝ちだ。この傷だってじきに塞がるぜ。なあ――」
失血からめまいがする。全身に激痛がうごめく。受傷よりも再生の方が痛かった。それらの痛みに、ルオッサは快楽を感じなかった。衣服はぼろぼろになり、ほとんど裸に等しい格好で、狼少女は手を差し伸べる。
祈るような顔で、かつての友へ。
「――どうして、どうしてよ!」
ひゅん、と風を切る音。
白く漂白された少女が、短剣を振るう。人狼は、ルオッサは避けざるを得なかった。刻印による偽りの聖遺物でない、聖別された銀に傷つけられれば。聖傷が自分の体をどうしてしまうのか、ありありと知っていたから。
「きみはなんで、どうしてそんな姿になってしまったの!
ルオッサは、
ぴたり、と。ルオッサは、動きを止めた。イレーネは、自分が口にしてはならないことを叫んでしまったと気づいた。――けれど、遅かった。
振りまわした白刃は、止まらなかった。
ぱっ、と赤い花弁が散る。真新しい鉄の臭いが充満する。
「あ、ああ……」
イレーネは、血塗れの短剣を持ったまま、あとずさった。
ルオッサの左の乳房が、ざっくりとえぐれていた。その傷からは、赤熱する烙印を押し当てたように白煙があがる。再生の兆しは、一向に現れない。
自他の血に顔を汚して、ルオッサは苦悶していた。
なにも、聖傷ばかりが少女を苛むのではなかった。
「……高潔なままではいられなかった。ゲオルグの野郎は、アタシを『育てた』と言った。アタシは――ゲオルグの仔だ。親を喰い殺さねば、死ぬより他はなかった。
……
イレーネは、自分の顔を覆う。その手に獣の血がべっとりと付いていることなんて気づかなかった。ただ呆然と、指の間から己のあやまちを見ていた。
「ルオッサ――ルオッサぁ!」
イレーネは遮二無二、銀の短剣を寝かして突進した。遺志とは裏腹に――刻印が、それを許さなかった。
ルオッサはその腕を握り、怪力で押しとどめる。
「やめろ! イレーネ……もう十分だ。
アタシと、オマエがいる! もう十分なんだ――お願いだ」
「きみは……きみはもう楽になっていい、いいんだよ! もう苦しまなくていいの! ルオッサ――
イレーネのどこに力があるのか、細腕を抑えきれず、刃先がルオッサの腹を切る。たまらず力が入り、イレーネの骨が折れる音がする。だが、イレーネは止まらない。
ルオッサは悟った。手のなかで骨が繋がってゆく。たとえイレーネの心が折れても、刻印がそれを許さない。偽りの奇跡が、その肉体に休息を与えない。
「ルオッサ、もうやすんで! きみのかわりに、わたしが動きつづける!
わたしがかわりに、
ルオッサの瞳に、イレーネの瞳が映る。そのとき、その胸に、狂乱する友の声は、無防備に届いてしまった。悲しみと苦しみに狂い、それでも
――それも、悪かねえかもな。自分も、もう十分に苦しんだ。過去の喜びを胸に、己の血に溺れゆく。そんな終わりも、悪鬼に堕ちた自分には上等だ。思い起こせば、死を
――なのに。
兄の言葉が、脳裏に響く。感情とは裏腹に、少女はなすべきことを理解していた。
「……すまねェ」
ルオッサは胸元に手を入れ、鎖を引きちぎってそれを突きつける。
イレーネは、目前に現れたそれを見るや、ひるんで尻餅をついた。
汗に黒く錆びた、銀のロケット。その上に刻まれた、のたうつ蛇のアーチ。
あの日の約束、その証が――ふたつの教えのかけ橋が、イレーネを見つめていた。
「虹の蛇よ。天と地を繋ぎて、我らに食と薬を賜り、始祖より見守りしアンギスよ。
我が友、盟友にして最愛なる――イレーネを、エンルムのイレーネを
それは、罪を赦す呪文。神の名において罪を赦し、償いの完了を宣言するもの。
《
けれど、天の宮の主にその身を捧げた聖女にとって、異教の――己がかつて信じた神による「ゆるし」は、致命的な汚損となった。
偽りの聖女の脇腹、そこから放たれる蒼白い光が暴走する。衣服の上から七芒星の刻印があらわになるや、一瞬の閃光とともに白熱して砕け散った。
ルオッサは、己への失望を胸に、己のしたことを眺める。まただ。あの晩と同じ。またアタシは、感情を置きざりにして――。
「あ、あぁ……そう、そうなんだね。……ごめんなさい、アンギスさま」
蒼紋兵に施される
そして、聖女は少女に還る。その全身を満たしていた運命の光は蒸散し、代わりに異教の光がイレーネを包んでいた。無数の偽りの加護は消え去り、ただ、祝福された末路だけがそこにあった。
少女は両膝をつく。もう、その脚は用をなしていなかった。
けれど……その表情は安らかだった。そう、一度目とは比べるまでもないほどに。
「イレーネ……!」
ルオッサは、その体を抱きとめる。
その羽のように軽い体に、ルオッサは涙をこぼした。あの日の晩を思いださせる、あまりにも軽い体だったから。
「ルオッサ――ごめんね。ほんとうに……ごめんね。
わたし、あの夜、ルオッサにたのんじゃいけないことを、おねがいしちゃった。
こんなにも、ルオッサはあたしを大切にしてくれてたのに……。ルオッサにしか、たのめなかったの。だから――」
「分かってる……みんな、みんな分かってるよ。オマエが、アタシなんかよりずっと優しくて、強くて、きれいなことなんて。だけど、ちょっと、ほんのちょっとだけ、運命がゆるしてくれなかっただけなんだ……」
イレーネに、色が戻りはじめる。美しい銀髪が、鳶色の瞳が。
そしてそのまま、足先から
「ううん。……ルオッサ、あやまらせてほしいの。あのとき、『生きて』なんていって、ごめんなさい。あたしのせいで、ルオッサはこんなふうに変わっちゃったんだよね。あたしの体は死んじゃったけど、ずっと――ずぅっとみてたよ。ルオッサはあんなにかっこよかったのに、あたしがいたから、ルオッサは変わっちゃった――それがね、どうしても、あたしはゆるせなかったの……」
だから、だれかに罰してもらわなければならなかった。ほんとうに苦しむべきは、ルオッサじゃない。苦しんで、罰を受けなければいけなかったのは、ほかならぬ――あたし。その懊悩こそが、イレーネの刻印に火を入れた。
ゆえに、自分を罰するのは――一番、
「ごめんね……あたし、ルオッサにだけは生きてほしかった。あたしの何をあげてもよかった。だって、それ以外の幸せなんて、あのときのあたしには、わからなかった。
でも、今ならわかるよ」
薬指のない手が、ルオッサの頬をなでる。
……つめたかった。けれど、涙がその手を温める。
「あたしは、ルオッサに幸せになってほしい。
ルオッサなら、ほかのだれも押しのけなくても、それができるって知ってるから。もちろん、くるしいなら、あきらめちゃってもいいんだよ。
……でもルオッサは、あきらめたくなっても、あきらめなかった。そうでしょ?
だから、おねがいはこれだけ。生きてもいい、あきらめてもいいの。
でも……どうか、
胸まで砂になり、声が震える。イレーネの目尻から、つめたい雫がこぼれ落ちる。ルオッサは我を忘れた。やっと心の底から語りあえる機会を得て――それが最期だと分かってしまったから。
「ああ。あああ、ああああ……!
イレーネ……アタシはもう悪魔なんだ。アタシがゲオルグなんだ。こんな悪魔は、幸せになんか、なっちゃいけないんだよ。だから、そんな約束は――」
イレーネは、けれど、首をわずかに振る。
「きみは、悪魔なんかじゃないよ。きみがいったんじゃない。神さまは、この世界を完全につくったんでしょ。だからね、ルオッサ。
きみも、
肺が砂になり、息が、声が消える。
あとからあとから、ルオッサの口を突いて声があふれた。
「イレーネ、なあ。アタシ、友達ができたんだ。リタっていうんだ。犬なんだけどよ、喋れて、話してると楽しくて――きっと、オマエとも、友達になれる。あぁ、だから、だから……。
すすり泣く声へ、イレーネの声なき声が言う。唇が、音を形作る。
ご、め、ん、ね――
そして、少女は真砂に還る。後に、衣服と短剣だけを残して。
ルオッサは、泣いていた。さめざめと泣いていた。手の中に残る白い砂を、呆然と見つめていた。そしてふと、天井を見あげる。
暗い牢獄のなか。それでも、ルオッサはあの丘の大きな入道雲を見た気がした。
――これでよかったんだ。イレーネの魂は解放された。ようやく眠りにつくことができる。スヴェンと、ともに。
……それなのに。
涙が、止まることはなかった。嗚咽もでなければ、しゃくりあげることもない。だって、とうの昔に別れていたのだから。けれど悲しくてたまらなかった。鼻の奥がじんと痛くて、喉が締めつけられて、ねじ切れそうだった。
……あと何人だ。ルオッサは思った。
あと何人殺せば――何人みとれば、慣れるだろう。涙は枯れた。そのはずだった。なのに、どうしてこんなに――。
そのとき、ルオッサは砂のなかのそれに気づいた。
砂の山から現れたのは、ゲオルグのレイピアだった。半ば抜けかけ露出した刃は、イレーネに聖別されたまま、
ルオッサは凍りついた顔でそれを拾いあげ、その刀身に触れる。冷たい表面に映る顔は、既に人間に戻っていた。
あれほどの、度しがたい巨悪さえ赦され得るというのか。それも、御父の手による真なる聖霊でさえない、人の仔の刻印による、偽りの奇跡によって。
なら、その仔の悪のどこに、赦され得ない保証があるというのか?
「イレーネ……私は、アタシは!」
レイピアが地に落ち、けたたましい音が穴ぐらに反響する。少女は頭を掻きむしり、寒くもないのに震えていた。
「アタシは善き者なンかじゃねえ……! アタシは悪鬼、悪魔――真祖を継ぐ者だ!」
だって、そうでなくば。自分が二度も親友を殺めてしまったことすら、正しかったことになってしまう。己の尊厳を犠牲にして、友の安寧を取り戻したとでもいうのか。
「ちがう……」
これは、まぎれもなく、ルオッサという赦されざる悪魔の悪行だ。そうでなければならない。もしルオッサが悪魔でなく、そこに欠片でも善性があったとしたら――
ロスコーという幼子は、ただ力不足ゆえに
悪鬼なればこそ、スヴェンを殺し、イレーネを殺し、我が子を見殺し、盗賊どもを殺し、親を殺し、飯の種に殺し、快楽のために殺しつづけてきた。
それだけの罪を、天の宮の主はおゆるしになるというのか。荷札を剥がすように、指先ひとつで、いともたやすく?
――イレーネを二度も殺めたという、永遠に背負うべき十字架さえ?
「違ェ……そンなことは断じてねえ! そうじゃねェと――」
女子供を犯し、生きながら喰っておきながら、気に入った子供だけを助けた盗賊は。自ら養子に迎えておきながら、かたくなに認めず戦場送りにし、ひとりになってから改悛したと赦しを乞う老爺は。
その矛盾を、主は、御父はお認めになるのか? 義なるものと赦しを迫るのか?
その時、ふと。
自分の背嚢から、それがこぼれ落ちた。
少女の目に、それが入る。あの、酸い香りの竹筒が。
少女の脳裏に、あの男の顔が浮かぶ。その男ならなんと答えるか、自分の苦悩を、苦痛をどう評するかがありありと思い浮かぶ。
『おまえは、もう分かっているはずだろう?』
「あああァァッ!」
少女は竹筒を踏みぬいた。竹の瓶は割れ、場違いにさわやかな香りが鼻を突く。
『ハハ、なンだ。オマエ、案外気に入ってたンじゃねェか』
頭のなかにしわがれた声が響く。下品で下劣な、大男の黒い声。
「黙れ!」
真祖の嘲笑う声は、少しずつ甲高くなってゆく。
『ま、しゃァねえよなァ? なんたってオマエは――』
「黙れっつッてンだろうが!」
壁に頭を打ちつけ、少女は叫ぶ。真祖の声は、いつしか少女自身の声になっていた。
『結局は、なァんにも信じちゃいねえンだ』
少女は静止し、立ち尽くした。
静寂が耳に流れこんでくる。
――なんだ。
「最初から……みんな、みィんな、分かってたンじゃねえか」
そして少女は、少女だったころの
淡い希望も、
今となっては、なにもかも。すべてが、無意味な
「イレーネは、解き放たれたようだな」
後ろからかけられた声に、ルオッサはふりかえらなかった。代わりに返したのは、不愉快な笑い声だった。ひとしきり笑うと、冷めた声で言った。
「ああ。アタシが殺した。これでアタシも、伏竜将を殺した間諜さァ――。ハハハ、逃げも隠れもしねェ。煮るなり焼くなり、好きにしろよ」
明かりの下に現れた、黄金の鎧。
彼は見下ろす。かつての師の生き写しに成り果てた、狼少女を。その狂気を前に、彼は常ならず目を逸らし、ため息をついた。
「……話がある」
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