魂の砥石

 それは、怪物だった。

 肉体にはくまなく蒼い紋様がはしり、その紋様が青白い四肢を縫合していた。そのところどころに、毛皮がパッチワークのように残っている。

 ダンは吐き気を催し、崩折くずおれる。あれは、なんだ。頭が理解を拒絶していた。

 彼は生来、難しいことを考えないようにしていた。止水卿の知恵の指輪を受けても、それは変わらなかった。いくつもの死をみとってから、加速してさえいた。

 けれど、倒れた蒼紋兵の骸が目に入り、直感してしまった。

 砂になりゆく、その骸。厚い化粧で隠されてはいたが、そこにも縫合の痕があった。肩など、毛皮を剥がれた獣肉のような質感だったし――なにより、その臭い。

 ダンは嘔吐した。胃のよじれるような嫌悪に、目の前が回る。

 その臭いは、犬人が好んで噛む木の実の臭いだった。

「嘘だろ……おい」

 震えながら、ダンは立ちあがる。目の前の怪物――出来損ないの蒼紋兵、弟の顔をした蒼紋兵が、一歩、一歩と歩いてくる。手足に繋がれた鎖の音とともに。

 わかりたくない、理解したくない。それなのにダンは分かってしまった。蒼紋兵に器物に対する強化呪文がかかっている理由が――痛みも、恐れもなく、誰もが一様に統率されている理由が。

 あれは、泥人形ゴーレムなのだ。死体を材料とした人形。人間だけじゃない、毛皮を剥いだ犬人も使われている。だって――

 目の前に、その証拠がある。

「――す、こ……」

 その声に、ダンはまた腹のものがせりあがってきた。

 それはかぼそい、弟の肉声だった。

「こわ、す……ころ、す――」

 光のない目、青白い光に塗り潰されたウラの目が、無表情にダンを見つめていた。

「やめろ、やめて――やめてくれ! もう、もうたくさんだ!」

 ダンは、首を振っていた。兄弟はもはや自分ひとり。挙句の果てに、その遺骸さえもてあそばれて。どんな顔をすればいい。なんと叫べば満足だ?

「みん、な……こわ、す。みん、な……ころ、す」

 その手に握られた棘付きの鎖スパイクト・チェインが、回転を始める。標的は、今となってはひとりしかいなかった。

「やめてくれ、ウラ! お前は、お前はな――」

 粗造の蒼紋兵は、書きこまれた命令のままに刃先を投擲する。

 彼の意思とは関係なく、ダンの肉体はひとりでに攻撃を回避した。腰は萎え、脚は震えていた。けれど、手は刃を離さなかった――離せなかった。

「――つよ、く。もっ、と……つよ、く。ぼく、は……もっ、と……」

 人間の腕で鎖を引き戻し、犬人の脚で構える。ウラの顔が、次第に表情を変える。

「ウラ……? お前は……」

 ダンはふと、かつての弟を思いだした。兄弟のだれよりも臆病で、犬人の誰よりも心優しかった、末の弟。ひとりで木切れを彫るのが好きで、誰が喧嘩をするのでも真っ先に止めに来た弟。

 ぼくも、ダンみたいに戦いたいよ。でもできないんだ。どうして、ぼくはこんなに役立たずなんだろうね――。そう、白目がちに笑っていた。兄弟や自分だけでなく、敵でさえも傷つくことを恐れていた。

「つよく……つよ、く……! みん、な……ころす――!」

 犬頭の蒼紋兵は再び攻撃の予備動作に入る。童顔を烈火のような怒りに染めながら、鎖は耳障りな音を立てて加速する。

 そのまなじりから、雫が落ちる。

 その怒りが、苦しみが、ダンには分かるような気がした。

 自分も、同じことを思って戦っていたのだ。ロンとパテンが死ぬより恐ろしい目に遭ったとき、こんな自分が刃を持つこと、覚悟も決意もなく戦場いくさばに出ること――それそのものが、間違いだったと思ってしまったから。

 ――でも。

 ダンは、両手の武器を構えた。

「そうか……そうかよ。でもな、ウラ。弱いお前も――俺らには必要だったんだよ」

 妹のことを思いだす。己が自分のことだけを考えていたとき、ガルーは兄弟みなのことを考えていた。

 そうして、この刃は――俺の牙はこの手にある。

「ウラ――忘れんな。お前は、

 人外の雄叫びとともに、無数の棘のついた刃が空を切り、迫る。ダンは加速する。頬が裂けるが、構わず懐に入る。

「だれ……より、も! つよ、く……つよく!」

 自分の二倍はあろうかという体格差に、果敢にダンは挑んだ。相手は投擲した鎖を引き戻すが、間に合わない。右腕を突き出す、その首を自由にするため。

 ――その鎖は、反対側にも刃があった。

 右腕に鎖が巻きつく。絡めとられ、体勢が崩れる。それでもダンは反射的に跳んだ。

 兄弟の顔が、間近に迫る。

「もう寝る時間だ、ウラ」

 その左腕が、弟の頚を裂いた。

 黒い血液が、兄の顔を染める。

「つ、よ……く――」

 着地後、速やかにダンは距離を取る。ぐらり、と崩れ落ちるその蒼紋兵に、ダンは背を向ける。遅れて、自分のやったことに感傷が追いつく。

 鎖の音。連鎖する鎖を引きずり出す音。

 ――衝撃。痛み。

「な、にッ――!」

 背中をざっくりと斬られ、ダンは後ろをふりかえった。

 それは片膝をつき、片手で鎖を振り回していた。

 その表情が、怒りから憎悪へ変貌する。

「まけ、ない……つよ、く……もっ、と――もっと!」

 なぜ、と思うより早く、ダンは理解した。背中が温かくなり、冷たくなり始める。時間がなかった。標的を見据え、ダンはまわる鎖へ突進する。加速した鎖の刃先が、ダンめがけ投げかけられる。犬人の素早さで回避するも、敵の反対の腕は長剣を拾いあげていた。異形の蒼紋兵は、人間の腕で剣を突きだす。間合いの差は明らかだった。

 飛び散る鮮血。

 ダンの左腕、その先から血が滴っていた。

 ウラのものだった目は、驚愕に見開かれている。

 ダンのダガーが、下腹部を切り裂く。ず、ず、と掻き回され、腹のなかから脳髄がこぼれおちる。ダンの目は、その材料にされた弟の残骸を見て取った。急所を外した、あまりにもむごい造りの人形だった。

「つよ、く……つよく、なりた、かっ――」

 今度こそ、その人形はどうと倒れる。

 無意味に見開かれた目に、ダンはぼろぼろと涙をこぼした。

「つよく……ならな、きゃ……。でも……なん、で――?」

 からっぽの頭蓋が、鏡写しのように目尻を濡らす。

「ねむれ……おやすみの時間だ。お前は、だれも傷つけなくていいんだから」

 そして、呪いが解けるように足先から砂になる。蒼い紋様は薄れて消え、死体に戻ってゆく。

 光のない、末期の顔。ダンの手が、そっとそのまぶたを下ろす。

 やがて、頭部さえも真砂に還る。墓標すら遺さずに。

「……くそ。クソッ、クソッタレが!」

 ダンは石畳を叩く。彼は弟の名誉をまもった。けれどそれは、本来は侵されざる、死後の安寧を取り戻したにすぎない。

「許さねえ……よくも、よくも俺の弟を……!」

 口を利くものは、運命より逃げ惑い、刹那を生きる定め。人間はもとより、犬人はさらに。ダンも、時に奮い立たされることこそあれ、命を握られればこそ刃を手に戦ってきた。

 だが――それこそが間違いだったのだと、彼は悟った。

 長いものに巻かれるのは、もうやめだ。

「必ず、必ずこの落とし前はつけさせてやる……! どこの誰かは知らねえが、必ず見つけだして――ウラに詫びさせてやる!」

 幻聴か、彼の耳には遠く、人間の笑い声が聞こえた。

 二束三文の犬人は、そうして牙を研がされた。

 しくも、彼の義理の兄弟が、そうやって心をすり潰したように。

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