其の迷走

かなぶん

其の迷走

 ある学校の屋上。

 柵に手をかけた娘が一人、その向こうへ大きく身体を倒す――その時。

『其れでいいのか?』

「え!?」

 問いかければ、柵から飛びのいた娘が辺りを見渡した。

 直前まで確かに誰もいなかった――――それ故の行動にほくそ笑んでいれば、黒い瞳が私に向けられた。

 気味が悪いと伝わる表情に、更に笑みが深まる。

 と、その手が私に伸べられ身体が持ち上がる。

「演劇部の小道具……? 誰かの忘れ物?」

 誰かの名が刻まれていないだろうかと、娘は私の身体へ視線を這わせた。

 表と裏、横に上下。

 そうして、娘の指は留め金へ辿り着くのだが、開ける素振りはない。

 どうやら小道具であろうとも、誰の所有物かも分からぬモノを勝手に開けてはいけないと考えたようだ。

 身投げしようとしていた割に、殊勝なことだ。

 せせら笑い、仕方なしと己で留め具を外した。

「わわっ!?」

 瞬間、上がる娘の驚きなぞ構わず、その手を離れた宙で、閉じていた身体を開いていく。

 娘にとってはひとりでに捲られていくであろうページ。

 黒い瞳にその全てを映すのは、これが必要なことだからだ。

 この娘が、私の新たな所有者となるための――。

 程なく全てのページを明かし終え、一度閉じては、すぐに中間のページを娘の前に提示する。

 読ませる文字は、我が名。

 呼べば最後、この地に私を深く刻ませ、ゆくゆくは瓦解させる、最初の一文。

「世を尊び奉ずる、風蝕の書……?」

 書かれている文字の形はこの世の何処にもないもの。

 けれど私の導きにより、容易く読めてしまった娘は眉を寄せ、この地にしかと降り立つ心地を得た私は、一文を淡く朱色に輝かせた。

 その鮮やかさに恐れを為したのか、後ずさる娘へ、私は再び声をかける。

 今度は止めるためではなく、招くために。

『ただでさえ短い命を、一時の衝動で失って良いのか? もっと有意義に使おうとは思わぬか? たとえば――――復讐に興じる、というのは?』

 何度同じ手合いに告げたか分からぬ問いかけ。

 一様の答えを知っている身としては、どうしたって堪えきれぬ喜色が浮かぶというモノ。

 お前の望みは知っている。

 低く喉で嗤うと、望みが発せられるまで沈黙を保つ。


 風蝕の書、あるいは腐食の書と呼ばれる書がある。

 世の誰もが知らない、知り得ない魔導書。

 それもそのはず、この書を知る存在はことごとく滅びを迎えているのだ。

 住まう世界ごと、塵も残さず消えている。

 ゆえに、この書を語る者は他になく、ゆえに、手に取る者はその脅威を知らず。

 其れ自体に意思を持つ魔導書にとって、滅びは何よりも勝る遊びであった。

 自身の力を、その地に住まう者の声に乗せ、その地に刻み、蹂躙する。

 時に、魔導書の力を自分の力と誤認した驕りにほくそ笑み、更なる力を欲する無謀へ御しきれぬ力を明かす――――。

 魔導書を構成するページは、其の一枚一枚に強力な魔獣が封じられていた。

 これを一つ一つ読み手に明かし、それが手に余るようになれば、後はこちらの思うがまま。読み手の後悔も何もかもを喰い尽くし、呑み尽くし、世の終わりを堪能してから次の世へ。

 魔導書ができた経緯、魔獣たちが封じられた理由は、すでに遠い過去であり、今の愉しみの前では霞むものでしかない。

 そうして此度もまた、世を儚む背へ誘いをかけた――――


 ――――のだが。


 学校帰り。少女が二人、公園の一角に停まるキッチンカーを遠巻きに見ていた。

「なあ、かえで。アレはどういう食べ物だ?」

 やや血色の悪い少女が、見合わないほどキラッキラに目を輝かせて問う。

 これに隠すことなく「うわぁ……」と言いたげな顔をしたかえでは、血色の悪さ以外は自分とほぼ同じ顔へ答えてやる。

「クレープ、だけど……」

「ほう、くれーぷ……。なあ、かえで」

「却下」

 キッチンカーから自分へ移り変わった視線の意味に、かえではきっぱり首を振る。

 少女はあまりの早さに面食らい、たじろぐものの、口を尖らせて食い下がる。

「ひ、一口くらい良いではないか。お主にも喰わせて――」

「却下。そんなお金はありません」

「か、金なら――」

「だーめ。勝手なお金の精製は犯罪です。偽造は言うまでもなく。大体、本が食べ物を食べたいってどうなの?」

「うぅ……」

 うな垂れる少女を見て、呆れたため息をつくかえで。


 何を隠そうこの少女、実は数日前、かえでが学校の屋上で拾った、魔導書本人。

 ……本相手に本人と言う表現もおかしな話だが。

 何か思惑を持って声をかけてきたらしいこの魔導書は、初っ端から物騒な言葉ばかりをかえでに投げかけてきた。

 よくよく聞くに、どうもこの魔導書、探し物をしていたかえでを、何かしらを苦に自殺しかけていると思ったらしい。

 そこまで理解が及んだなら、正直、かえでに付き合っている時間はない。

 状況にはしっかり驚いていたし、魔導書という現実ばなれしたモノへの興味もないわけではないのだが、それよりも彼女には時間がなかった。

 魔導書の勧誘らしき言葉も勘違いで払って場を後にしようとする。

 けれど魔導書は食い下がり、『何をそんなに急いでおる。その用、申せば叶えてやれるかもしれないのだぞ?』と言ってきたので、かえではつい、答えてしまった。

 売店一番人気のコロッケパンを買いに行くのだと――。

 そもそも、屋上でかえでが探していたのも、件のコロッケパンの割引券。

 不意の風に飛ばされてしまったのを、未練がましく追って来たに過ぎない。

 それなのに…………


「お待たせしましたー」

 クレープを受け取り、くるりとこちらを向いては、それはそれは嬉しそうな顔で駆け寄ってくる少女。

「かえでー、いちごー」

「はいはい、良かったね」

 結局根負けして金を渡してしまったかえでは、すとんっと隣のベンチへ腰かける、自分と同じ顔に苦笑する。

(あの時聞いた声は、もっと年上の男の人っぽかったのに、人になったら私と同じ姿形だもんね。まあ、本が本体なら性別は関係ないけど)

 意図せずダジャレのようになってしまった考えにも、乾いた笑いを浮かべたなら、視界の端に寄せられた彩り。

「ん?」

 見れば、ニコニコ顔の血色の悪い自分が、クレープを口元へ向けていた。

「一つしか買っていないからな。半分こしよう」

「いや、いいよ」

「それはいけない。全て私が頂くわけには。……せめて一口」

 よくは分からないが、決まりがあるらしい。

 この姿になってからというもの、初めて見る真剣な表情に、仕方がないと一口。

「ふぉふ、ふぁふぇふぁふぉ(ほら、食べたよ)」

「いちごのクレープなのに、いちごを除けるなんて……邪道だっ!」

 食べたいだろうと思ってわざわざ除けた無傷のいちご。

 そんなかえでの気遣いに気づく様子もなく、これまた妙なこだわりで憤る少女。

 値段的に、もしかしたらコレ一個かもしれないというのに、食べなければ許さないと言わんばかりに差し出されたなら、食べないわけにはいかない。

(元は本のくせに、変なの)

「いちごは噛み切らないで食べてくれ。一口に、そう、それでいい」

 しっかりいちごを頬張ってやれば、嬉しそうに頷き、ようやく食べ始める。

「うん。これも美味だな。薄い生地が層になっていて食感が面白い。生クリームも甘いが、生地そのものもほんのり甘いな。ハムとチーズの組み合わせも、今度試してみたいぞ」

「…………」

 感想を聞くに、やはりいちごはかえでが食べた一個だけだったようだ。

 それでも満足げに平らげ、「ごちそうさま」と丁寧に両手を揃えて頭を下げた少女は、ポツリと呟いた。

「コロッケパンも美味であったが、クレープもなかなかどうして……。一つの世だけで、こんなに興味深いモノが揃うとは恐れ入る。……これまで滅ぼした世にも、きっと美味なる食はあっただろうに。悔やんでも悔やみきれぬ」

 幻聴だろうか? それとも……?

 聞こえてきた物騒とクレープ一つに一喜一憂する少女が結びつかず、かえではきっと気のせいで片付けると、ベンチから立ち上がって言う。

「ほら、満足したでしょ。早く帰ろう」

「ああ。……今日の夕飯は何だろうなぁ」

 かえでと同じ姿をした少女には名前がない。

 しかし、この姿を取った時からかえでの双子の片割れと、かえでの両親からも認識されている少女は、血色の悪さに反してどこまでも楽しそうで。

(……やっぱり、バイトしようかな)

 同じ顔の嬉しそうな顔につられ、ほんのり温かくなる気持ちに、かえではそんなことを思うのだった。

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