第29話
院の大人たちはもしかすると、俺たちのことこの場所が嫌いだと思っていたかもしれない。実際に、俺たちはよく院を抜け出して遊んだし、ベッドを開けて何日か帰らなかったことも少なくない。だけど。俺たちには俺たちの野望と目的があったからそこは大目に見てくれよとマザーに心の中で許しを請うて、また馴染みあるスラムに入り浸る日々は楽しかった。相棒がいたから一層楽しかった。
俺もエズラも気がついたときにはスラムの地べたで生活をしていた。母親が誰かは知らない。産まれたのは娼館だ。あの女たちの誰かか、あるいは母親は梅毒でも貰ってとっくに死んでるか。どちらにせよあそこにいた女たちは皆、利用価値のないオスガキの俺たちに優しくはなかった。いや、もしかすると優しい女もいたのかもしれない。だけど、少なくともあそこでの生活を楽しいと思ったことはなかった。
俺とエズラがそこを出たとき。追いかけてきた大人なんていなかった。ただ雨風を凌ぐ屋根がなくなって、空腹が大きくなっただけだ。スリを叩きこんでくれた優しい大人に稼ぎをごっそりと納めながら見返りにもらった小さなパンに二人でかぶりつきながら、俺たちは幸せとか不幸とかそんな感情と無縁なままただ生きていた。
「なあ、母親ってさどんな感じかな?」
最初に小さな憧れを路地裏に持ち込んだのはエズラだ。
「さあな、腹いっぱい飯を食わせてくれるんだったら欲しいな」
「貧乏な母親ならいらない?」
「何の役に立つんだよ」
「でもさ、貧民街にいる子供たちでもさ、母親というときに笑ってる奴をいっぱいみるじゃん」
「何かの役にたってんのかな?」
「俺も一辺あんな風に笑ってみたいな」
「お前、笑うの下手糞だっけか?」
「お前よりは上手いけどな」
そういって、余所行きの綺麗な笑顔を見せる。
「お前そういうの上手いよな。子供っぽい笑顔で大人引っ掛けるの」
「じゃあ、この笑顔でもうひと稼ぎしてくるかな」
「だな、俺たちには守ってくれる母親なんていないわけだし」
そんなやり取りを思い出す。思えばスラムで遺棄されていたアケビを見つけて、院に連れて帰ろうと言い出したのもエズラだった。
「あいつは、スラムで生まれて母親を知らない。でも、俺たちが兄貴みたいなもんだからさ守ってやろうぜ」
エズラは優しい。俺よりいつも一歩先を走っていて、俺よりずっと考えてて、そしてあいつの判断はいつも正しかった。
アケビのことはとりあえず俺が守って見せるからさ、お前も早く帰って来いよ。いなくなった相棒に心の中で呼びかける。
スッと目の前が開けてきた。先を歩く三つの人影が目に入る。俺はためらわずにスピードを上げると、屋根から屋根に飛び移りながら最後は彼らの眼前に着地する。
「わっ、とお前な」
彼を認識した背の高い男が反応する。
「マザーの所で待ってるって約束だったじゃないですか」
そう返すのはどうも間が抜けていていつも隙だらけな女だ。けどこの女、身体能力だけは侮れないのも知っている。
「ああでも言わないと、マザーが心配するだろ。周りが静かになるのを待って、こっそり抜けてきたんだ」
「連れてはいかないぞ」
三人目の、頭の切れそうな男が先回りして拒否する。出会った時から三人ともどこか街の人間とは違う雰囲気をまとっている。特別な何か、今の俺にはそれが必要だ。
「頼むよ。エズラと約束したんだ。アケビは俺たちが守ってやらないといけないんだ」
変に言い訳をせずに素直に懇願した。変な駆け引きは逆効果だと思ったからだ。
「だから、俺たちに任せろよ。今や俺たちの任務とあの赤ん坊探しは一致してる。片手間にするわけじゃない」
「そうは言っても兄ちゃんたちさ当てはあるの?その教団今までずっと探してみつかってないんだろ?」
それから畳みかけるようにカード切った。
「あのマーク、心当たりがあるんだ」
「なるほど、じゃあそこをまず探ってこよう。教えてくれ」
小さい方の兄ちゃんが尋ねるが、俺は静かに首を振った。
「俺が案内する」
「……」
返事の代わりに、彼らはこちらの顔を覗き込んだ。それから三人で顔を見合わせあきらめたように手を挙げた。
「説得は無理だな」
「そうですね」
「どうする?」
長身の男が小さい方の兄ちゃんに訪ねた。
「――仕方がない。案内してよ」
彼はそういって背を向ける。
俺はその背中を追い越してから彼らの先頭に立った。
「ついてきて」
大丈夫アケビはきっと無事だ。エズラだってそのうち戻ってくるさ。あの院での幸せだった日々はすぐに戻ってくるさと信じて走る。あの日エズラが路地裏に持ちこんだあこがれを、俺たちは現実に手にしていたのだから。マザーを悲しませない。アケビを取り戻す。エズラも探し出す。そして皆でもう一度笑うんだ。”家族”は俺が、守ってみせる。
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