第15話

世界が満たされていれば、世の中の人はみんな幸せになれるのに。少し前の任務で新人の隊員が言っていた言葉が心に残っていた。それはそう考えていた時期がかつて私にもあったからだ。あの頃の私の世界の中心にはまだ、万能の神が鎮座していた。


「何を考えてるんですか?」

向かいに座るすっかり顔なじみになった青年が、私の顔を覗き込む。彼と食事をするには初めて会った日から数えてもう五度目だ。


「妹のことさ」

そういって私はワインを一口だけ口に含んで、グラスを置いた。

「ミモザ、君は世界にすべての人を満たすことのできるだけの資源があれば、世の中は平和になると思うか?」


「あなたはそうは思っていないんですよね」

「私はね。でも、妹はそう信じていたよ」

「妹さんですか?」


私は彼が話に乗ってきたことに上機嫌になり、グラスをもう一度手に取る。ミモザのような人間にこそ聞いてほしいのだ。愚かな妹の話を。


「聞いてくれるかい?」

「是非聞きたいです。あなたのこと」

可愛いい言葉が返ってきて、私は微笑と共に口を開いた。


***


妹と私の違いを探すことは難しい、私と妹は同じ遺伝子をもって同じ日に生まれ、同じ環境で育った。どちらかが秀でたことはないし、どちらかが劣ったこともない、勉強、運動、容姿に至る何もかもまで私たちはお互いの鏡だった。


母は私たちを産んですぐに亡くなったから顔も覚えていない。父と祖父と妹と私、幼いころは四人の家族だった。父が亡くなった日のことはあいまいだ。どんな日だったか、何をしたのか覚えてはいない。それほどに普通の一日の終りに、父はふっと目の前で消えてしまった。


灰化症だ。いや、そもそもこれは病気ですらないのだろう。私たちの父は、私たちと同じ食卓を囲み、私たちと楽しそうに食事をしながら、ふっと寂しそうな表情をして、それからハラハラと灰になってしまった。比喩ではく文字通り灰と化した。残されたのは父と同じ体積の白い堆積物。最愛の人が、目の前で突然いなくなる奇跡に、私たちは最早見とれるしかなかった。


思えば私と妹に小さな差が産まれたとすればこの頃からだったのだろう。彼女は父の命日を境に、寝る前は毎日祈りを捧げるようになった。私はというと、熱心だったのは最初だけで、しだいに飽きてやめてしまった。断っておくがこのころの私はきちんと教会の教えを信じていたよ。ただ、彼女ほど熱心ではなかったというだけだ。妹が祈りの言葉を述べる数分の間、私は漫然と祖父と話をしながら待っていた。


しかし誓って言えることがある。その後の人生を含めて私と彼女の違いは本当にそれだけだ。知能も、運動能力も、容姿もどこを切り取っても私たちの違いは、夜に女神に祈る方と、祈らない方、ただそれだけの差だったはずだ。


私たちの人生を変えた日のことは、父が亡くなった日よりも鮮明に覚えている。風はは穏やかで心地よく、日差しは汗ばむには十分なその日は一年で最も忙しくなる穀物の収穫時期で、私も妹も働く祖父を手伝って畑仕事をした。一仕事を終えた夕暮れに、三人では沈みゆく夕日に照らされる畑を眺めながら話をしたことを覚えている。


「あのトラックに山積みにされた収穫物のどれか一つでも、口にしてみたいとは思わんか?」

祖父の働いていた大農場ではあらゆる種類の農作物が育てられていて、それらはいつもトラックに積まれてどこかに運ばれていく。


「あれって本当に食べれられるのかな?」

「いつも支給されるオートミールと違って、なんだがちょっと汚い気がするよね。泥とかついてるし。加工されてないじゃん」

「そうそう。私、ここで採れたものを食べてる人なんて見たことない。誰が食べてるのって感じ」


無邪気な私たちの会話を祖父は寂しげな表情で見つめた。

「私たちは皆あれを食べたくないんじゃない。食べられないんだよ。畑でとれたばかりの作物ってのは加工された食品の何百倍も美味いんだぞ」


「なんで?食べれるなら食べればいいじゃん。皆であんなに苦労してたくさん作ったんだから。全部売らないで、少しぐらい取っておけばいいじゃん」

私の言葉に祖父は緩やかに首を振った。


「それはできないよ。あの作物は私たちのものじゃないからな」

「でも、おじいちゃんたちが作ったんだよ」「だよね」

「生産物ってのは作った人間のものじゃない、所有者のものなのなんだ」


「所有者って誰?農場長のおじさん?」

それはこの農場で一番偉い人だった。


「違う。彼もまた私たちと同じ雇われ、生産する側の人間だ」


「じゃあ、トラックのお兄さんとか?」

今度は妹が答える。


「違うな。彼は運ぶだけの人間だ」

「じゃあ、誰なの?農場長より偉い人っていたかな?」「いないと思うよ?」

私たちは首をかしげる。


「あの作物の所有者たちはね。みんな遠い所にいるんだよ」

祖父は静かに教えてくれた。


「遠い所?」

「そう、ここよりずっと安全で遠い所、私たちはそこをコロニーと呼んでいる」


「コロニーに行けばあれを食べてみてもいいの?」「食べて見れるんだ!」

「ああそうだよ」

「なら、私たちもコロニーに行ってみようよ」「行かないとね」

無邪気な声が畑に飲み込まれる。祖父の沈黙は長くは続かなかった。


「なあ、お前たち少しまじめな話を聞いてくれ。きっと難しくて理解できないだろうが、それでも聞いておくれ」

その真剣な声音に、私と妹は居住まいを正した。


「この世にはね。二つの世界があるんだ。あっちの世界とこっちの世界、持てる者の世界と持たざる者の世界だ。コロニーはね全てを持った人々の世界だよ。安全で、穏やかで、豊かで。彼らはあっちの世界に住んでいるが、こっちの世界の所有者でもある。この農場は彼らのもので、だからここの生産物も彼らのものだ」


「でもそんな人たち見たことないよ。この農場で働いてる人たちはみんなこの町に住んでるじゃない」


「この農場の所有者たちはずっとあっちの世界、コロニーに住んでいる」

「なんでその人たちのものなの。私たちはここに住んでるし、ここで作物を作ってる。この場所も、農作物も私たちのものでしょ?」


「そうだね。彼らは一度もこの地を訪れたことはないだろうし、写真で見たことすらないかもしれないな」


「じゃあ、もう私たちのものね」「その人たちはもうここがいらないみたいだし、きっとそうね」

双子の掛け合いに祖父は微笑んでから首を振る。


「それでもここは彼らのものなのさ。私たちはただ彼らからここの土地を借り住まわせてもらい、この農場で彼らの代わりに働いているだけだ。だからこの農場の全ては向こうに住む人たちのものなんだ」


「なんで?」「そんなのおかしいよ、おじいちゃん」


「それがルールだからさ」

祖父の簡潔な答えは、まだ幼い私たちには理解できなかった。


「ルールを変えることはできないの?」「そうだよ。変えればいいよ」


「できるさ、一つはルールを作る側が変えるべきだと願うこと。だが彼らはそれを望まないだろう。もう一つは暴力だ。。だけど、暴力は大きなリスクを伴う。今のこの生ぬるい日常を捨ててまで誰かに暴力を振るう覚悟はあるかい?」


「暴力はいけない」「いけないことだよ」

二人の言葉を祖父は優しい表情で受け入れる。


「向こうの世界に行く方法はもう一つだけある。それはね。ルールの中で戦うことだ。強くなって弱いものから奪う側になればいい」


「それはいけない事じゃないの?」

妹は不安げに聞いた。


「私にもわからないよ。でも忘れないでくれ、君たちの父親は、持たざるものだから死んだんだ。あいつは何も持っていなかった。だから彼にとって最後の所有物、命を差し出すしかなかった。いや、まだあいつが最後まで失わなかったものがあるな」

そういって私たちの頭を右手と左手で同時に撫でる。


「お前たちには生きて欲しい。幸いお前たちには持つものになれる資質がある。頭もいい、五体満足で運動神経もいい。だからそのまま強く賢く育っておくれ。コロニー移住の試験を受けるんだ、リナリア、マツバ。受験料は私と君たちの父親が働いて貯めたものがある。だがら、励んでくれ。この不平等なルールが支配するゲームの勝者になるために」


祖父の話したことのうち、幼い私たちに理解できたことはホントに少しだけだった。だけど祖父の言葉があまりに真摯で、真剣だったから私は勉学にいっそう励んだ。それは妹も一緒だっただろう。強く、賢く、そして美しく育った私たちが試験を受けたのはそれから六年後、15歳になったころだ。


***


「結果はもう話したな。私が受かって、妹はダメだった。私たちは何が違ったのかな?君はどう思う?」


「…運とか」

ミモザは自信なさげに発言する。


「私もそう思うよ。でも、運を引き寄せた気質っていうものがそこにはあると思うんだ。そういう意味では私たちの中には小さな差があったんだろうな」


「それは、何なのかあなたには見当がついてるんですか?」


「たぶん、優しさだよ」

私は言い切る。

「妹は優しかった。亡き父を思って毎日お祈りをするぐらい。私にはそんなもの意味がないと思ってた。所詮死んだ者は帰らない。居住試験の中にはね、毎年形は変われど合理性を求める試験がある。あれから十年、私はね、色々な経験をしたよ。だから今、二人の差がわかるんだ。ミモザ、優しさは成功への枷だよ」


「あなたは優しいと思います。初めて会った時のレストラン。毎年、妹さんを思って食事をしてるんですよね。用意された必要のない食事、それはあなたの非合理性じゃないですか」

意外な返事が返ってきて、言葉に詰まった。確かにそれは私の中に残る最後の非合理性なのだろう。


「…確かにその考えには一理あるな。残念ながら私にはまだ不合理な部分が残っている。そしてこんな不合理を君たちは優しさというのだな」

私はこの時になって初めて、ミモザという人間とその思考に心から興味がわいたのかもしれない。


「それ優しさの形です。きっと、俺たちの心には無数の形があって、それが何なのかは触れてみなければわからない。見えないんですよ心は、だから心を投射した影を見つめるしかない。現実の中に、人の行動の端と端にね」


「羨ましいよミモザ、豊かに育った君たちの中にしかその感性はないのだろうな。私は自分の中の不合理気づいてもなお、それを結局排除すべき弱さだとしか思えない。実は今だに考えてしまう時がある、本当は妹が受かるべきだったんじゃないかって。だけど何度も問いかけても結局私は一度もその考えを肯定しない。優しさは結局不合理を受け入れる余裕の中にしか生まれないのだろうね」

ついつい本音を吐露してしまう。

「私だけがコロニー行きの列車に乗り込んだ時に私は心から信じられたのだよ。神などいないのだと。もし本当に存在しているのなら彼女は間違えなく信心深い妹の方を選んだはずだ」


「あなたは教会の教えを信じてはいないんですね」


「何を言う。君たちコロニーで生まれた人間の方がよっぽど神を信じてはいないだろう?女神なんて結局、最後の審判を後にバラバラになった人心をまとめるために、為政者たちが世界中にあったいろいろな信仰をつなぎ合わせて作った偶像のパッチ―ワークだ」


「その側面は否定できないでしょうね。便利だからこそ教会には多額の寄付が集まる」


「そうさ、それでも外の世界はそれを妄信する。信じる他にないのさ、心のよりどころがね。そしてその妄信が人を弱くする。結局信仰は私たちを弱さに閉じ込めて前に進ませないようにする檻だよ。外の世界を本当の意味で知るまで私は、そのことに気が付けなかった」


「あなたにとって教会と神は、弱い人の心を一つにまとめるためのただの道具にしか見えないと言うんですね。外からくる人間は皆そんな風に考えているんでしょうか」

その言葉は私を非難するわけでもなく肯定するわけでもない。


「外から人間は多かれ少なかれそうじゃないかな。今の私を形作っているものは、神を捨てたからこその強さだ。ある意味では妹が教えてくれた真理だよ。もしわれわれの幸福を神が分配しているのなら、きっと私はここにはいなかった。神はもういない。少なくとも我々には関心がないようだ。私たちは結局自分の力でこの場に立ち続けるしかないんだよ」


「あなたのその強さ、好きですよ。俺には決してないものだから。でも俺には教会が与えてくれる倫理観が必要なんです。そうでないと我々と外からやってくる人たちは対等ではなくなってしまう」

優しい言葉だと思った。妹の、マツバの優しさだ。危うくて弱い守らなければ壊れてしまうもの。


「ミモザやはり私は君の家と財力が欲しい。私には築き上げた経験と地位、才能がある。君の弱さから君を守ってやろう。君は私に幸せ富と権力を与えることで、君の中にある外の人間に対する罪悪感を、ぬぐうことができるだろう?この結婚は二人にとって合理的で、有益だ」


「それはロマンチックじゃないですよ」

私の言葉にミモザは苦笑する。冗談ではないのに、なぜ笑うのか理解ができなかった。これ以上の合理性を私は考えつかない。神は私たちを救わなかった。だが合理性はいつも私に利益をもたらしてくれる。私は神を信じない、代わりに私は私自身の判断を誰よりも崇拝している。

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