第14話
血の海が、石畳に広がっていた。
「そんなっ」
一番動揺していたのは普段冷静なマーニー元首だ。僕らには悪い想像しか浮かばない。群種をかき分けると、おぞましい量の血だまりがあり、マザーの上に覆いかぶさるように男が乗っかり重なり合って倒れている。
「マザー、大丈夫ですか。マザー」
元首の悲痛な叫びは、彼にとってのマザーの大きさを物語っていた。
だが予想に反して、マザーはのしかかる男を押しのけてもぞもぞと這い出して来る。
「私は大丈夫。それよりも早くこの人を」
誰もが一瞬理解できなかった。そして彼女が案じているのが、彼女を刺そうとした浮浪者じみた男だとわかると周囲は彼女の思いやりに息をのむ。
「もう、死んでいますよ。マザー」
男の側により、彼の身体に触れて長身の美人が立ち上がる。
「私が殺したからです。あなたが無事でよかった」
雲蘭隊長の言葉通り、男の胸には彼自身が持っていたナイフが突き刺さっている。
「隊長、いたんですか?」
予期せぬ人物に僕らは驚いた。
「ああ、広場を視察していた。騒がしいと思ったらこの事件だ。暴漢には悪いがとっさのことで手加減はできなかったがね」
目立つ女性だ。だが僕らが気がつかなかっただけで近くにいたのだろう。男が襲い掛かってからマザーの元まで一瞬、わずかしかない時間で的確な判断を下し、マザーを救って見せたその技量に驚く。僕からは人知を超えた早業にすら感じた。
「とにかく子供たちが動揺している。あの宗教団体も調べた方がいいだろう。あとは任せていいかなマーニー元首」
指名されたマーニー元首はそのことで自らの役割を思い出したのだろう。
「とにかく、我々の母さんを救ってくれてありがとう。礼は必ず後で」
的確に周囲に指示を飛ばしだすとあわただしく動き出す。
雑踏が騒然とそれぞれのこの後の行動に手いっぱいとなっているなか、雲蘭隊長は僕らの方に近づいてきた。
「少し話がしたい。が、多少疲れたな何か腹に入れながら話そうか。ヒナギク買ってきてくれるかい?」
「は、はい。行ってきます」
反社的にヒナギクは例のお気に入りのパン屋へと駆けだす。
「待て、これを持っていけ」
そういって雲蘭は自らの財布を投げて渡す。
「そんな、別にいいですよ」
「いいから持っていけ。きっと必要になる」
隊長は意味ありげにほくそ笑んだ。
しばらくすると、ヒナギクが四人分のパニーニを抱えて帰ってくる。表情はどこか浮かなかった。
「聞いてください、先ぱ~い~。また財布を無くしちゃったみたいです」
「だがら必要になるといただろう。君はもっと落ち着いて物事をよく観察したまえ」
そういいながら隊長は財布とパニーニを受け取った。
「それで話って何ですか」
僕もパンに手を付けながら改めて尋ねる。
「見たかお前たち。沈黙していたこの世界が動いた瞬間を」
あの騒動を後にして、不謹慎なくらい目をギラギラと輝かせて笑う。美人のそういう顔は正直不気味だ。
「あの一連の騒動。今までは起きてなかったってことですか?」
「そうだ。私も君たちも知る限り、今日はマザーと子供たちは何事もなく見学を終えていたはずだ」
「何か以前、私たちがログインし時と違うことってありますかね?」
「あの宗教団体さ。他の隊員の調査と照らし合わせても、あんなもの以前のユニバース6には存在しなかった」
「隊長さんが、ほかのチームに調べさせてたってあれね。でも何で事前に教えておいてくれないんだ?俺たちだって情報が共有されていれば、奴らの行動にもっと注意を払えていた。今回の凶行ももっと楽に回避できたかもしれない。よりチーム間の情報共有をした方がお互いが綺麗に連携できるんじゃないか」
リンドウは隊長たちの非効率的なやり方に疑問を呈す。
「全てのことにはきちんと理由がある。君の疑問はもっともだ。だが今言えるのは、情報を共有することはできないということだけだ。現状この部隊全ての情報を閲覧できるのは私を除けば二人の副長に限定している。不満はあるだろうが、君たちには私が必要だと感じた情報だけを降ろす。他のチームメンバーにもな。不合理を受け入れて自身に割り当てられた調査を全うしてほしい。それが君たちの自身の安全の為でもある」
「まあ、わかることにするよ。隊員の安全を確保しながら結果を持って帰ってくるあんたの実績はよく知ってる。あんたがそれが必要だと思い、そのやり方で結果を出してる以上俺はそれに従うさ。ただし、今のところはだ」
ひとまずは疑問を飲み込むことにしたようだ。
「それにしても、良かったですね。隊長がいてくれて」
ヒナギクはマザーが無事だったことを言ったのだろう。
「ああまったくだ」
隊長は同意する。
「この瞬間に居合わせたことは実に幸運だった」
僕の目に見える彼女の表情には、マザーを救えた喜びなどみじんも感じない。そこにあるのは任務解決への光明、出世の道がまた一つ開けることの喜びのように見える。僕には雲蘭という人間がどこまでも合理的で少し怖く映った。
ヒナギクの方は隊長との会話がずれていることに気が付いているだろうか?のんびりとパニーニを頬張る。
「やっぱりおいしい。とっても美味しくて…、おんなじ味です」
不意に彼女は物思いにふけるようにぼんやりとつぶやく。今までさんざん味わってきたこのパニーニを作るという役割を与えられた人間たちを思い出したのだろうか。
「確かに不思議だな。別の時代の、別の人間が作ってるってのにな」
「でも、変わらず美味しいならいいじゃないか」
何も考えずに何気なく返す。
「いいことなんでしょうか? 変わらないというのは。ここはいつも比較的平和で平穏です。でも完璧ではない。明日が違えば、このパニーニももっとおいしくなれるかもしれないのに」
「俺はそう思うぜ。誰もが安寧を探している。変わらない平穏が続くならそれはいいことだ。もっといい未来を求めるくらいなら今の現実に満足する努力をする方がいい。その幸せは捨ててしまえば二度と手に入らないかもしれない」
「私は同意しかねるな。変わることは痛みを伴うことだ。だがそれなくして、前には進めない。時には、大事なものを捨てることになっても先に進み続けるべきだ。失ったのならただその分を取り返して埋めて、さらに大きな取り分を手に入れればいいだけの話さ」
二人は二者二様の言葉で答える。
「僕は…、わからないな。まだわからないよヒナギク」
何かを言う必要があると思ったが、僕が言えたのはそれだけだった。
「ですね。ただ、みんなが美味しいものをいっぱい食べてお腹いっぱいになれる世の中になれば、きっと世界は幸せになるはずなのにって思って」
彼女の単純な真理に雲蘭隊長が思わず笑う。
「君の真理は単純でいい。だが、君はまだ若いな。世界という器を満たすということは、そいう単純な話ではない。足りない分が埋まったら、また足りなくなるのが世の中だ。でも可能ならまだ、そう考えていられた方がいいのかもしれない」
彼女はそう言って残っていた最後の一口を放り込むと、立ち上がり軽く手を振ったのち自らの職務に戻っていった。
ユニバース7はその後、十分に平穏な300年の永久の中で腐敗は徐々に訪れ、結局は洪水によって滅びた。
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