第6話
懐中時計の針の示す方角には、比較的大きいと思える建物がポツンとあった。半日ほど前に通り過ぎた街から幾何か離れた場所にあるこの建築物は、旅人たちの為のただの寂れた宿場に見える。コンパスがここを指すということは僕が訪れるべき場所はここなのだろう。
「ごめんくださーい」
ぐるりと様子を伺ったが窓という窓には板が打ち付けられ扉も締め切られている。気さくに愛嬌を振りまきながら入り込もうにもその隙間がない。結局パキラは、正面の一番大きな扉に戻ってくると扉を再びノックした。
「……」
返事一つない。いや、そもそもこの建物からは人の息遣いみたいなもを全く感じない。人が常駐している建物じゃないのか、少し前に廃棄された空き家なのかもしれない。そんな呑気な考えを頭に浮かべながらも、念のためないとは思いつつも扉に体重をかける。
予想外に抵抗はなく、扉はすっと後ろに押し倒される。暗闇になれない瞳は室内のおぼろげな輪郭だけを写した。半身を闇の方に投げ入れると、外から流れ込んだ風で舞う埃がこの建物が管理されなくなってからのずいぶんと長い時間を教えてくれる。
かび臭い空気を何度か吐き出すころに、目は闇に適応して真っ暗だったその内部にも意味のあるものが点在してることを知らせる。埃だらけの床に続く足跡がいくつかあった。一人のものではない。廃墟だと思ったが完全に放置されているわけではなく定期的に人の出入りがあるのだろう。足跡に埃が積もり、それを別の足跡が踏みしめて、またそこに埃が積もる。そんなことを何度か繰り返しているようだった。
考えられるとすれば同じように針に導かれた隊員だろうか?最後の記憶の中で一緒に旅をしていた四人の姿が思い起こされる。短髪の精悍なリーダか、お調子者の長髪か、金髪の美少年ルーキーか。全員の風貌を完全には思い出せないが、そのうちのだれか、あるいは三人ともが、僕のようにログインしなおしてここを訪れた可能性は大いにある。
僕もまた先行者の歩みに導かれながら、足跡を追って建物奥へと踏み入っていくことを選ぶ。
内部はやはりずいぶんと痛んでいた。床がギシギシと不安な音を立てながら歩みを進める僕を何とか支えている。念のためもう一度懐中時計を開いてみると、足跡はやはり針の示す方に向かっているのでこれらの足跡を残したのはやはりパキラと同じMALUSの隊員だろうと思われた。
もはや指針を見る必要もなさそうだ。懐にしまって、先駆者の痕跡をたどる。足跡はやがて扉に遮られて止まった。この部屋で間違えはなさそうだ。僕は足跡を遮る扉に力をこめて押した。
ギーっと音を携えて開く扉は、その濁音に感じるほどには重くなくスムーズに開く。暗い部屋の中を、板でふさがれた窓から光が埃をプロジェクターにして線のように噴き出していた。
目が慣れればそこには空っぽの棚。それから無造作に真ん中に積み上げられた本の砂山。図書室?そう直感した。
「お兄さん…、だれ…?」
その小さな人影を認識したのと、その小さな人影が声を発したのはほぼ同時で、心臓が鼓動を上げ、体が一瞬硬直する。まじまじとそこに意識を集中して焦点をあてればそれはただの本を抱えた一人の少女で、僕は胸をなでおろした。
「僕は…、旅のものかな。表の扉が開いてたから入ってきてしまったよ。足跡が続いていたからここに誰かいるんじゃないかと思ってね。良ければ、誰か大人はいないかな?」
努めて柔らかく声をかける。子供の相手は正直苦手だ。
「旅の人なら良く来るよ」
やはりここはMALUSの隊員が訪れる中継ポイントで間違いなさそうだ。
「そうか、よかった。なら誰か…」
「本は、好き?」
脈絡のないと時が返ってくる。
「本?」
「そう、みんなに聞いてるの。私のパパとママは本が好きで、私が本を読んでるといつも褒めてくれるの。だから、私は本が好きだった。あなたはどうかしら?本は好き?」
「どうかな、あんまり考えたことはないけど、強いて言えば好き、かな」
仕方なく会話に付き合う。適当に言葉を肯定しておけばいいだろう。
「そうなんだね。私も本を読むのが好きだったの、けどね…」
少女は笑う。
「いけないんだあああ、本を読むのはは異端なんだよおおおおおおおおおおおおお」
体に衝撃が走った。視界が無理矢理揺らされる。何とか焦点が定まったとき、僕が先ほどまでいた場所に、木の根のようなものが、地面から突き刺すように生えてた。
「大丈夫か?立て、走るぞ」
その声で初めて自分の身に起こったことを認識する。少女、いや少女と思っていたものが立っていた場所にあるのは禍々しい朽木のような化け物で、それが貫こうとした僕の体を、この声の主が突き飛ばして助けたのだ。
「聞いているのか?動けるなら走れ」
なぜあれを少女などと思ったのか?もう一度姿を確かめる余裕はない、視界の端に恩人の声を感じながら、導くように進むその影を追って跳ねるように動き出す。
少女の姿を模した朽ち木は一瞥もしない。まるで目などもはや飾りであるかのように、いや実際目としての機能などないのだろう。しかし、かわりに地面から際限なく隆起して伸びてくる樹根だけがひたすらに追ってくる。腰の短剣をを抜いてそれらを払う。
人型はいまだ微動だにしない。固定された木々のようにただそこにとどまり続けた。
「異端なんだよ。いけないんだ…。いけないんだ…、本を読んだらいけないんだ…」
たただだぶつぶつとつぶやきを続ける。
しかしそんなものにかまっている余裕はなかった。次々と追ってくる木の根を振り払いながら、前を先行してくれる誰かを追いかける。
「こっちだ」
声に導かれるように廊下を抜け入ってきた道を逆にたどっていく、扉が見える僕が入ってきたあの扉だ。ツンと刺激のあるにおいがする。行はこんな匂いしただろうか?
考えている暇はない、バシャバシャと靴がしぶきを立てた。まさに建物から出られる、そう思った瞬間に左手がずんと沈んだ。しまったと思った瞬間、先を行く人影がそれに気づいた。腰から剣を抜くとこちらまで駆け戻ってきて、僕の左手にからむそれを断ち切る、と同時に僕を引っ張って扉の外に押し出す。僕の体はバランスを失いながらも建物の外へとはじき出された。
彼自身も追って飛び出してくる。僕はどん、と尻もちをついて明かりの中に放り出される格好になった。行掛けとは逆の理由で視界が失われる。
「はあはあ、大丈夫か?」
そんな僕に手を差し伸べ、つまり扉に背を向けて、黒いくせ毛のヘアースタイルが特徴的な男が一人微笑んでいた。
「後ろっ!」
慣れてきた目がまずとらえたのは男を捕まえようと追いすがってくる木の根。思わず叫ぶ。
「大丈夫」
しかし男はこちらに差し出した手を引っ込めながらも余裕の表情で振り返る。
「あれにはテリトリーがあってね、自身のテリトリーを超えた範囲からは出られない」
ゆっくりと扉から飛び出すそれらを見つめた。
その言葉を証明するように、彼を追いかけてくる木の根のようなものは、入り口の境界面きっかりを過ぎると、灰になるようにその先端が消えてしまった。残った枝がうねうねと悔しそうに境界の向こうでこちらを伺う。
「ごめんよ。君に罪はないけれど、僕には僕の使命がある。だから本当に、ごめんよ」
寂しげなその言葉はこちらに向いていない。きっとあの部屋にいた少女に向けられたものだ。手に持っていた何かに火をつけるとそれを扉に向って投げ入れる。パリンとその何かが建物の中で割れた。おそらく火炎瓶か何かだろう。
火の手はすぐに上がった、すさまじい勢いで。それで先ほど僕がパチャパチャと行きがけにはなかった水たまりを踏みしめて逃げてきたことを思い出す。油か何かがまかれていたに違いない。
「離れよう、立てるかい?」
そういって、彼はもう一度仕切り治すようにこちらに手を差し出す。いわれるがままに引き起こされる視界の隅で、バキバキと、炎が全てを壊す音を聞いた。少女はきっと、何も言わずに淡々と燃えるのだろう。あるいは異端だと呪詛を吐きながら、消えるのかもしれない。
「よかった無事だったんだね、葵パキラ」
視界の中央では僕を起こした男の満面んの笑みがあった。彼は微笑んで、なぜか親し気にそう言ったのだった。
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