第5話

眠ったはずの僕の意識は、仮想現実上に創造されたもう一つの現実、タミアラと名付けられた世界で目を覚ます。飛んできたのは意識だけ、肉体は向こうの世界で今も眠っているはずだ。僕の意識は素体アバターと呼ばれるMALUSによって用意されたこちらの肉体に宿る。


葵パキラという僕を取り込んだ素体は、現実の僕より少し小柄で肌も黒い。年もまた僕より少し若いのだろうと思われた。無駄なくついた筋肉は僕の動きに合わせて違和感なく動作する。問題はなさそうだ。


「さてと、どうするかな」

目の前の光景には見覚えがあった。前回最後にセーブをした場所だった。仲間たちとここでキャンプをして、セーブが終わるのを待った。焚火を囲んで談笑していたのは覚えている。それより先は何も記憶にない。向こうの世界で目覚めたとき、僕はデッドエンドしたのだと教えられた。


あれからどれぐらい経ったのだろうか。一緒に旅をした彼らの笑い声はもうここにない。懐中時計を取り出し、その蓋を開ける。二つある小さな文字盤、インダイヤルのうち比較的大きい方を見る。白と黒二つの針の時間はもうすでにずれ始めていた。


前回、ここでか、この場所を離れてからか、離れてすぐか、数日たってからか、何があったかはわからない。確かなことことはつまり僕は次のセーブポイントに至る前に死んだのだということ。このセーブポイントを離れてから次のセーブポイントにつく前に。


「どのみち、進んでみるしかないかな」

メインの文字盤の方に意識を切り替えた。針は僕が手のひらで作った不安定な水平の上で左右に触れながらも、懸命に一点を指し示そうとしている。北とは限らない。羅針盤は常に僕らが進むべき方向を向く。


僕は文字盤の上で踊る針から、その先に広がる道の空間へと視線を伸ばすと、二機目のライフで第一歩を踏み出した。


****


大人たちにとってその場所がどういう場所だったのかは知らない。パパもママもはいつも臆病すぎるぐらい慎重に、私を連れてこの場所を訪れていた。だからそこにはいっぱいの秘密があるんだろうなぐらいに思っていた。建物の中は隠れた教会になっていて、パパもママも他の大人たちもそこにあるご神体に祈りを捧げたり、時には訪れる旅の人たちとひそひその内緒の相談事をしていた。


だけど私にとってはここはただの遊び場だ。両親が誰かとひそひそ話をしている間、建物の中を隅から隅まで探検する。きっと、この教会の小さな隙間その一つ一つまで知っているのは私だけに違いない。


お気に入りは、書庫だ。本と呼ばれるものがたくさん並べてあって、そのページを意味もなくペらぺらとめくるのが好きだった。そうして暇をつぶしていると、手の空いている大人の人が代わる代わるに字の読み方を教えてくれたりする。


本に書いてあることはどれも刺激的で好きになった。本が読めたことをパパやママに報告するといっぱいに褒めてくれるのでますますそれが好きになった。


だからいつも教会探検に疲れると、書庫に隠れてパラパラと本を読んで両親のひそひそ話が終わるのを待つ。書庫にある小さな隙間に本を抱えてすっぽりとはまって、そこが彼女の定位置だった。


その日も、私は待っていた。大きくて豪華な表装の本を抱えて。それには優しくて哀しい王様の冒険譚が書かれていて私はその本がお気に入りだった。


どのぐらい時間が経ったのだろう。気が付けば部屋はすっぽりと暗闇に包まれようとするころだ。今日はやけにひそひそ話が長引いてるな、いつもなら完全に陽が沈む前には家に帰りつくのに。シトシトと外で雨の音がする。そういえば今朝からずっと降っている。こういう日は、何かおどろおどろしくて嫌いだ。


静かだ、と思った。雨音が大きく聞こえるぐらい異常に。そして静けさが少し怖くなった。恐怖が膨らみかけたとき、ギ―っと書庫のドアが開く音がした。やっと終わったんだ。パパかママが迎えに来たと思って飛び出す。でも現れた人影は、私の知るものよりわずかに大きくたくましかった。


「こんなところにまだ一人、小さな異端者が隠れていたとは」

低く、そしてやさしげな男の声が、雨音と雨音の間で響く。


新しい信者さんかな?そんなことを思いながら、とぼとぼと彼の方に歩み寄る。とてもやさしげな雰囲気で恐怖は感じなかった。抱きかかえるように持つ本はずっしりと重く、ほんのりと冷たい。


「本は好きかな?」

男の人は柔和な笑みで尋ねる。暗い闇の中で水滴が神を伝って落ちる。きっと雨にうたれながらここにやってきたばかりなのだろう。彼の着る服からもまた水滴はぽたぽたと落ちる。


「うん」

その問いに元気に答える。ここにいる人たちは本が好きだと答えるといつも褒めて頭をなでてくれる。だからきっとこの人も自分をほめてくれるに違いない。そう思ったのだ。


「それは…、」

男の声は一層優しい。

「いけない子だね」


聞き間違えだろうか?だって目の前の男はそういいながらも、優しく優しく私の頭に手を置いたのだ。暖かくて優しい手、さっきまで読んでいた冒険譚に出てくる、優しくて優しくて、悲しい王様ぐらい優しい手。その大きな手はそういいながらも私の頭を優しく撫ぜた。


男の手は雨でヌルリと濡れていて鉄のにおいがする。


「悪い子だ。本を読むのは異端だよ」

聞き間違えだ。そうに違いない。だってこの人の手はこんなに大きくて優しくて暖かいのだもの。そんな風に思った。彼がまた優しくなでる。そして人生が、終わった。


分厚くて重い本を抱きとめる力がするりと抜ける。ごとりと地面にぶつかって、本が開き、静かな風がパラパラとページをめくる。悲しくて優しい王様が女神さまにいざなわれて天へと昇る挿絵が、消えゆく視界の端で見えた。そうかこの物語はハッピーエンドで終わるんだね。


それが最後の記憶。

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