第3話

緩やかな春の空気を取り込んで、その日の教室の空気は特に弛緩していた。

その伸び切ってダメになったシャツを引き裂くように、終礼を告げるチャイムが鳴る。すると永遠に続くように思われた教授の淡々とした朗読が止まり、「本日はこれまで」という彼の声を合図に生徒たちは活気を思い出す。一人だけ活気の取り戻し方を忘れてボーっと机に座る僕の方に近づいてくる足音があった。


「よお、パキラようやくお目覚めか?」

ウェーブのかかった緩い金髪に、メガネをかけたこの色白はミモザという。


「別に、寝てないよ」

「その寝起きみたいな顔で?」

彼はいつものいたずらっ子のような笑みを浮かべる。


「この顔は生まれつきだ」

何度目かわからない、お約束のやり取りで返す。


「なんか久しぶりな気がするな。最近学校に顔出してなかっただろ」

「うん、まあな」

僕は横眼で彼を見てすぐに視線を逸らす。


「?まあいいや。午後からあいつらと遊びに行くんだけどパキラもくるだろ?」

ミモザが指さす方向に、見知った顔が二つ並んでいた。視線に気づいた僕に彼らのうちの一人が手を振る。


「いや、今日はいいや」

小さく手を振り返しながらも、僕は断りを入れた。


「なんだよお前なんかあった?」

「…」

いぶかしむ彼の質問に答える気にはなれなかった。


「おーい、ミモザいこうぜ」

十歩ほど先で友人たちが手招きする。

「呼んでるぞ」

そういって彼を追い払う。


「あ~、すまん。先行ってて、後で合流するわ」

そんな僕の意図を感じ取ってか、取らずか、ミモザはまたその人懐っこい顔でいたずらっ子みたいにニヤリと微笑む。僕は一瞬驚いて、それからその顔に向って溜息を吐く。こいつはこういう奴だ。


「なんのつもり?」


ミモザは肩をすくめてから返事をする。

「昼飯食いに行こうぜ。お前は俺に話さなきゃならないことがあるというのが俺にはわかるのさ」


負けを認めるようにまたため息をつく。だが、しぐさにどこか微笑み返してしまうような気持が隠れていることに気づき、赤面した心を誤魔化すように無理矢理に腰を上げるた。僕は友達にありがとうを多分、一生言わないタイプだな、なんて馬鹿なことを考えた。


教室は僕たちの足音を残して、空っぽになった。


***


「はっ⁉MALUSに入隊した?」

ミモザの素っ頓狂な声は、レストランの喧噪の中でも少しだけ通りがよかった。周りから視線がいくつかだけ飛んでくる。


「声、でかい」

軽く注意する。別にやましい話じゃないが、単純に注目は嫌いだ。


「いつから?」「もうすぐ二月かな」

「学校はどうするのさ」「卒業はする。約束だから」

「単位は?」「入隊してる人間はある程度は色々融通してくれるってさ。卒業までは人よりちょっと時間を食うかもだけど」

「でも、お前確か市民権は…」「A級だな。入隊義務なし」


「はぁ~、パキラってさそんな奴だったかね」

ミモザの怒涛の質問が少しスローダウンした。


「そんなって?」

僕はステーキを口に運び咀嚼する。


「確かに世の中大変なのはわかるけどよ。この身捧げて世界を救ってやるっ、みたいなタイプじゃないと思ってた」

そこでようやく彼も目の前の料理に手を付ける。付け合わせの、野菜に雑にフォークを突き刺すと、持て余すようにくるっと回して口に運んだ。


「なんかさ、同じシェルターに暮らす人間でもさ、外で生まれた奴はなんか生き急いでる気がしてさ。奴らみんなこの理不尽な世界を前に使命に燃えて目の色変えて、近寄りがたくってさ。でもお前はなんか勝手に、他のやつと違うって思ってた」

かったるそうに咀嚼する彼は少し寂しそうに見えた。


「世界を終末から救いたいなんて、そんな崇高なこと考えたこともないよ」

「じゃあなに?」

ミモザが視線を上げて僕を見る。


「実際、世界が滅びかけてることとかどうでもいいし。もうすぐ人類が滅ぶにしたって、俺には俺が死ぬまでの平穏があれば十分だし。ただ平和な生活が欲しい一心で、市民権を勝ち取ったんだ。そんな感じが俺であってる」

ガラス窓から先みえるシェルターの日常はどこを切り取っても穏やかで、かつての僕が手に入れたいと願ったすべてだった。


「それはそれでひとでなしだな。若者がそんなに世の中に無関心じゃやるせない」

仕切り直しといった軽口で茶化す。柄にもなくしめっぽかったと思ったのだろう。


「で?じゃあ結局、なんでなんだ。仮に入隊したいにしたって学校卒業してからでも十分だろ。普通にしてれば後たった一年だ。ぶっちゃけそっちのがいいだろ。思い付きの非合理でバカなバカするなんて、お前そんな行動派じゃないだろ?」


「そうだな。なんというかさ…」

その質問には答えるつもりはなかった。


考えるそぶりをしながら、ただ何となくガラス越しに通りの様子を伺う。トラックが通り過ぎる、引っ越しのトラック。


「もうすぐさ、春になるんだよ」

と今朝の隣室を思い浮かべる。


「は?」

ミモザはただただ混乱して、キョトンとした顔をした。それが可笑しくて僕は思わず笑ってしまう。


「だからさ、春になればきっと隣の空室の扉が開いて地上から新しい入居者がやってくるだろ? きっと可愛い女の子が越してくる。その子に見栄を張りたいじゃないか。僕は世界を救ってるって、それが理由だよ」


寂しく言い切る僕の明らかな嘘を前に何かを察してくれたのだろうか。

「ま、そのかわいこちゃんを俺に紹介してくれるならそれでいいけどよ。無事にさ」

ミモザはただ僕の言葉を笑って流してそれ以上何も聞かないでいてくれた。


「無事にな」

念を押すように一言だけ添えて。


***


張りぼての青い空と、つくられた暖かな光。もうすぐ咲くだろう桜の並木。これは人工物じゃなく、地上から持ってこられた本物だ。三分の二が人工の春の中を僕は帰路に就く。足取りはそう、いつもと変わらない。この街に来てもう丸二年が終わろうとしていた。


角を曲がるとアパートの前にトラックが停まっていた。ミモザに言った冗談を実現するかのように、引っ越し用のトラックが。現実がきわめて律儀なやつだと知って僕は失望する。


アパートの階段をのんびりと登る。踊り場を過ぎれば、二階には二つの部屋がある。一つは僕の部屋で、もう一つは開かないはずの鉄の扉。


そこには鍵が差し込まれていて、中にしまってあったはずの空気はいつの間にか漏れてしまったようだ。


僕はそれに気づかぬふりをして向かいの自分の部屋の扉に鍵をさす。

「可愛い女の子が引っ越してきたな」

さっきミモザに言ったくだらない言葉が勝手に頭の中に浮かんだ。感情をしまって、心なしか錆の取れた新しい扉を振り返らないように中に滑り込むと、背中でドアを閉める。


程なく背後でドアが開いて、誰かがトラックに向って階段を下りていくのが分かった。足跡は偶然にも、あの聞きなれたリズムに似ている。それは幸運ではなく、不運でもない。ただこの街での三年目は去年より少し寂しくなるだろうねと教えてくれる親切な音だった。

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