第13話 逃げるは恥か
最初に仕掛けたのは柊だった。
『ハルカ、目を閉じて』
「!」
頭に響く、柊の声。彼女の方を見やると微動だにせずチリンへと目を向けていた。
テレパシー、と言えば良いのか、以前キューにやられそうになった時も同じことをされた。
「光って」
俺が目を閉じたのと、柊が一言告げたのはほぼ同時だった。
瞬間、まぶたの裏で強烈な光が見えた。
柊が魔法を放ったのだと瞬時に理解した。
何もない空間から突如として光を生み出したのだ。
「!」
前回キューに放った時と同じ、光の弾をチリンに向けたのか?
「走るよ」
「え、ちょ、ちょっと!」
くるりとチリンに背を向けるや否や、柊は俺の手を引っ張って走り出した。
目を開けば、未だ眩しくて再び閉じざるを得なかった。
手を引かれるままに足を動かす。
危うく転びそうになるところを踏ん張って体を動かす。
「まだ戦うんじゃないのか!?」
「戦って欲しいなら続けるけど・・・もう少し待って」
正面を向いたまま彼女は応答する。引っ張っられた俺は柊の後頭部に目がいき、
煽られたチリンに背を向ける形となった。
「やっぱり、威勢だけだったかなあ。・・・さあ、エバックローチ。行っておいで」
背後から訝しげな言葉を吐いたチリンの言葉に悪寒が走る。
まるで最初から仕掛けられるのを予想していたみたいな声だった。
先ほどの柊の言葉に対する安心感は何処へやら、急に命の危機を感じた。
「逃げられるはずがないよ。エバックローチは魔力を好むんだ・・・ハルカクマダニのような魔力を目の当たりにして、逃すはずがない」
余裕げな態度を示しているであろうチリンの声が段々と遠ざかる。
ようやく目を開けることが出来た。
背後を振り返る余裕なんかない。
そもそも、柊に手を引っ張られている俺はどこに進むかも分かっていない。
ガサガサガサガサ・・・
「・・・っっっ!!」
虫嫌いがこんな目にあったら泡を吹いて気絶するに違いない。
そこまででもない俺でも背後からのこの音を聞くのは気分が悪くなる。
脚が6本ほどある生物が地面を這いずる音が、すぐそこから聞こえてくる。
全身の毛が逆立つ感覚。
あいつらだ・・・。
「背後に障壁を出す。ハルカには指一本触れさせないようにするから、迷わずに走り続けて」
息切れを感じさせない柊の声が正面から俺の耳へと流れてくる。
右、左と、どこまでも入り組んだ迷路のような路地を駆け抜ける。
「!、正面!」
俺らは立ち止まらざるを得なかった。
突き当たりの壁と思うほどに高いそれは、よく見れば蠢いていた。
その時に初めてはっきりと黒い物体を目視してしまった。
「・・・」
蜘蛛のようでいて、体が扁平で光沢のあるあいつにも似ていて、無数のうねうねとした触覚をこちらに向けている。
日本で・・・いや、世界中を探し回ってもいないだろう。
あまりにおぞましい姿をしていた。
「エバックローチは体内で作成した特殊粘液を対象に放つ。捕獲しつつ弱らせていくんだ。その際、数秒間だけど飛翔することも可能なんだ。多機能でしょ?エバックローチは」
背後からコツコツとチリンの足音が聞こえる。
最初から俺らが逃げることを考えて配置していたんだ。
エバックローチの口元から茶色い粘液が垂れている。
それは、空から降ってきた泥のような物体と同じ色だった。
こいつ・・・空も翔んだ上で攻撃もしてくるのか!
「・・・こっち」
狭い路地の中でも人が通ることを想定していないような細い道へと柊は走り出す。
石垣、電柱、木々にぶつかりながら逃げに逃げる。
柊はただ逃げているだけなのか?
さっき言っていた、もう少し待ってというのはどういう意味なんだ?
はたから見れば追い詰められているようにしか見えないだろう。
エバックローチは先ほどから俺を捉えようと粘液を俺めがけて撃ってきてきている。
その度にべちゃりと背後で柊の障壁に粘液がぶつかる音がして、俺の不安を高めていく。
「・・・」
柊は無言で狭い狭い道を、俺の手を引っ張って走り続ける。
「止まって」
細道を抜けた先で、柊が突如立ち止まった。
周りは昭和に建てられたてあろう家々や古びたアパートが立ち並んでいる。
都内にこんなにも時代に取り残されたエリアがあるのかと思うほどに郷愁漂う町並みだった。
「どうしたんだよ、奴らが来るぞ!」
「ここで良いの」
俺の目を見て柊が言うものだから何も言えない。
先ほどまで俺らが走り抜いけて来た細道へと振り返る。
「うっ・・・」
今にも逃げ出したくなるほどにおぞましい光景だった。
無数の赤い点が左右上下に蠢きながら近づいてくる。
その点が眼だと頭ではわかってはいるけれど拒絶した。
道を埋め尽くし、こちらまで来たら溢れかえりそうになるほどの黒い塊がどんどん、どんどんと近づいてくる。
柊はいったいどうしたいんだ。
元カノが魔女だった話 沢野沢 @azon8972
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