第32話 おかえり
「ひどいよね、
ずるいって心のどこかで自覚しながら、いつもの冗談っぽい調子で振ってみる。だけど健太は乗ってこなかった。
「誤解じゃない」
莢の目を真っ直ぐに見つめる。
「俺、
「そんなこと、ないけど……」
かーっと顔が火照ってくるのを感じる。健太の方をまともに見れない。別に嫌いとか、そういうんじゃないけど。どっちかって言えば、その反対かもだけど。
「ごめん今日は一人で帰る」
早口の小声になると、うつむきがちに行き過ぎる。
「あ……」
健太が掠れた吐息を洩らす。その淋しげな響きに、莢は襟首を掴まれた。
「明日、明日は一緒に!」
くるりと踵を返し、ぶんぶんと手を振ってみせる。健太が笑うのを確かめると、またすぐに前に向き直り、地面を蹴って駆け出した。
「ただいまー」
息を切らせながら玄関の中に駆け込む。心臓がバクバクいっているのは、もちろん家に着くまで走り通しだったせいだ。他の理由は今は考えないでおく。
「おかえり莢。ずいぶん慌しいな。何かあったのか?」
膝に手をついて呼吸を整えていると、出迎えに現れた父に不審そうに問われてしまう。莢はそそくさと平静を取り繕った。
「あ、パパ、ただいま。別に大したことじゃないよ。気にしないで」
「そうかい。ママがクッキーを焼いてくれたから、手を洗ったらいただきなさい」
「はーい、ありがとパパ」
当り前のように返事をしてから、ふと違和感にとらわれる。わたし、パパなんて呼び方してたっけ? それにママって――。
首を傾げながらも、甘い香りに誘われてリビングに向かう。中にいたのはもちろん見知った相手ばかりだ。
「ただいま、ママ」
「おかえりサヤ」
ソファに腰を下ろした女の人が、莢に親しく笑いかける。艶やかな赤髪をしどけなくほどいて垂らし、左の目尻の下に二つ並んだ泣きぼくろが愛らしくも色っぽい。男の人達にモテまくるのも納得だ。
「ん。おかえり」
〈母〉の隣に座る男の人が、素っ気ない頷きを寄越した。その鳶色の瞳を見返した莢は、なぜか胸の奥に痛みを覚えた。
「ただいま……えーと、お兄ちゃん、だっけ?」
戸惑いを隠せずに尋ねると、男の人が眉をひそめた。呆れられてしまったらしい。顔立ちは整っているのに、甘い雰囲気に乏しいせいで、気後れしそうになる。
「お前、こんな時間から寝ぼけているのか?」
「そ、そうだよね、わたしってば馬鹿みたい」
莢は気まずい思いで顔をこすった。全くどうかしている。勘違いするなんてあり得ない。この人はもちろん――。
「お兄ちゃんに決まってるだろうが」
「ふふっ、おかしなサヤね」
〈兄〉と〈母〉は互いに顔を寄せると、くすくすと笑い合う。やはりお兄ちゃんだったらしい。だがこれで納得していいはずなのに、莢の心は少しも落ち着いてはくれない。
「はいお兄ちゃん、あーん」
〈母〉はテーブルの上のお皿からクッキーを一枚つまむと、〈兄〉の口の前へ差し出した。
「あーん」
〈兄〉も躊躇なく〈母〉の指からクッキーを咥え取る。
「どう、おいしい?」
「ああ、うまいな」
「まだまだたくさんあるから、お好きなだけ召し上がれ。はい、あーん」
「あーん」
「あんっ」
〈母〉がいきなり変な声を上げた。〈兄〉が〈母〉の指ごとむしゃぶりついたせいだ。〈兄〉はもぐもぐと口を動かしてクッキーを飲み込むと、次の獲物に狙いをつける。
「俺にはこっちの方がもっと甘い」
ふざけたことを抜かして〈母〉の唇に吸い付いた。流れるように舌を挿し入れ、ぴちゃぴちゃといやらしい音を立てながら絡めていく。
限界だった。
「馬鹿っ、信じらんない! どうしてわたしがいるのにそんなことするわけ!?」
顔を真っ赤にして怒鳴りつける。もちろんちゃんと分っている。莢に二人がいちゃつくのを邪魔する筋合いなどない。けれど慎みなく他人への気遣いもできないのは人として最低だ。だからこれは正当な非難なのだ。
莢が涙目で睨むと、〈兄〉はやっと〈母〉から唇を離した。おもむろに莢へ向き直る。さすがに反省したのだろうか。唇を尖らせながら謝罪の言葉を待つ莢を見て、〈兄〉は顔色も変えずに手招きした。
「お前もしてほしいのか。いいぞ、来い」
「へ……? へ、へへ変なこと言わないでよ。意味分んない。そんなことあるわけないし」
「強がらなくてもいい。本当は一人ぼっちになって寂しかったんだろう? 今までよく頑張ったな。だがもう我慢しなくても大丈夫だ。抱いてやるよ。お前を俺のものにして、ずっと傍で守ってやる」
「わたしそんなこと頼んでない……全然嬉しくなんてないんだから」
莢は顔を背けた。いつの間にか〈母〉の姿が消えているが、特におかしいとも思わない。
〈兄〉は莢を迎え入れるように両手を広げた。莢はおずおずと歩み寄ると、男の胸の中にぎこちなく身を預けた。きつく抱き締められて息が詰まる。けれど不思議と苦しくない。むしろ心がふわふわと浮き上がりそうだ。
もしも直接肌と肌で触れ合えば、もっと気持ち良くなれるのだろうか。そして手の届かない過去のことを、きれいさっぱり忘れてしまう。
男が唇を寄せてくる。もしもこの先に踏み出せば、きっともう後戻りはできない。莢はためらいを傍らに押しやった。危うい予感を覚えながら、体の力を抜いていく。
「ぐごっ」
――え?
横たわった莢の体がびくりとした。なんだか妙な音がした。まるで男の人の鼾みたいだった。それもほんのすぐそこで聞こえた気がする。
「あれ、わたし……?」
一瞬意識が混乱するが、どうやら寝ていたみたいだ。うっすらと纏いつく夢のかけらを払い落とし、目を開ける。息のかかる真近にエッチの顔があった。
莢はぎょっとして仰け反りそうになった。しかしなぜか身動きができない。そういえば自分は縛られていたはずだと思い出すが、縄が肌に食い込む時の苦痛はない。むしろ温かくて心が休らう。まるで誰か大きな人に抱き締められているかのようだ、というか相手はまごうかたなきエッチである。
つまりこれはどういうことなのだ。莢は視線をあちこちとさまよわせた。すぐに分る。エッチの部屋だ。もはや事実は明らかだ。
エッチと一緒に寝ている。
ガツンと全身が覚醒する。胸の鼓動が三倍速で刻み始める。
もちろんこの部屋で共に夜を過ごしたことは何度もある。しかしそういう場合、莢は居候らしく片隅で毛布にくるまって眠るようにしていた。だからこんな事態は全くの想定外だ。
なんで? ぐるぐるする頭を探って記憶を掘り起こし、過去に発生しただろう事象を組み立てる。
莢はミアの家で待ち伏せしていたクリシュトフに気絶させられた。そして物みたいに梱包されたうえ、どこかに運び出されようとしていた。だがミアがクリシュトフに立ち向かい時間を稼いでくれたおかげで、ぎりぎりのところで助けが間に合ったのだ。おそらくそのあと莢は失神し、駆けつけたエッチが部屋に連れ帰って寝かせてくれた。そして同じ寝台でエッチも休んだ。
流れにおかしな点はない。文句をつけるべき理由もだ。自分の部屋なのだからエッチは当然自分の寝台を使う権利があるし、莢を部屋の隅ではなくここに寝かせたのは体調を慮った結果だろう。
莢を抱き締めているのはきっと眠っている間の無意識のことで、太ももに何やら硬くなったものが押し付けられているのだって男の人特有の単なる生理現象に過ぎない。だから変に意識する必要などないのだ。どうせエッチには大して意味もないことに決まってる。
「……なんかむかつく」
莢はエッチを蹴り放すようにして寝台から転がり出た。どうせ必要ないとは分っていても、純な乙女としては一応確かめないわけにいかない。
まずは自分の体を見下ろしてみる。とりあえず裸ではない。頭からかぶる形の、いつもの寝間着姿だ。だがとても残念なことに、その一枚きりだった。股の辺りがすうすうしている。まことに頼りない。
じっくりと覗き込んだり、触って調べるような度胸はなかった。たぶん大丈夫だとは思うけど。たとえ気を失っている間のことでも、もしされたのなら分るだろう。きっとすごく痛いはずだし。だってあんなに大きくてごつごつしているんだから。
莢は熱っぽく湿った目でエッチを睨んだ。あるいは不穏な気配を察知したのか、エッチは何度か身動ぎしたのち身を起こすと、莢の方へ顔を向けた。
「まだ痛いか?」
莢は咄嗟に腕を縮こめ後ろに退った。
「それって、どういう意味で言ってるんですか」
莢の不信感丸出しの声音に、エッチは逆に眉をひそめる。
「一応念のため、といったところだ。俺が見た限り大した傷はなさそうだったが、体の中のことまでは分らんからな」
ふうん、見たんだ。別にいいけど。いや少しも良くはなかったが、状況を考えれば責めることはできない。そもそもエッチが来る前に既に裸にされていたのだ。なんてかわいそうなんだろう。今さら泣きたくなってくる。
「わたしに、なんにもしてない?」
ぽろりと問いがこぼれ落ちる。途端、耳がひどく熱くなる。うつむけた顔を上げられない。
「してほしかったのか?」
軽く問い返された瞬間、莢の頭の中は真っ白になった。
「そういえば、俺が童貞を捨てたのも今のお前ぐらいの歳だったな。胸も腰もまだ全然足りないが、お前がしてほしいのなら抱いてやる。どうせ今日は休むつもりだった。相手をする時間はたっぷりある。ほら、来い」
誘われるまま足が自然と前に出て、だが二歩目の途中で我に返る。
「はっ……? 違っ、そんなわけないから! あなたみたいなエッチな人と一緒にしないでください!」
捨て台詞を残して背中を向ける。莢にエッチはまだ早い。先のことは分らないけど。
(第一章 「莢とエッチ」 了)
JSと、エッチ しかも・かくの @sikamo
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