第31話 夢

「這いつくばって俺の靴を舐めろよ。奴隷になって死ぬまで奉仕すると誓え。そうすれば命だけは助けてやる。その薄汚い異族のメスガキの今後だって考え直すかもな。家畜じゃなく人間扱いしてやってもいいぞ」


 クリシュトフは剣先をミアの目の前に突き付けた。力無く地面にへたり込んだミアは、少しでも凶器から遠ざかろうとして顔を背ける。

 その視線の先に莢はいた。丸裸にされて縛られ、袋詰めにされた様は、まさしく家畜にも等しい。


 もしミアが抗えば、クリシュトフは莢を本当に最底辺へと落とすだろう。行く末は欲望のはけ口として体を使われ続ける日々だ。想像するだけで吐き気がしそうになる。


 莢だって自分の運命は怖かった。だけど決めるのはミアだ。ミアの思う通りにすればいい。きっと恨んだりはしないから。

 ミアは莢と瞳を合わせた。眉根をぎゅっと寄せて下を向く。父親に娼婦として売られた少女は、やがて吐息に紛れるような言葉をこぼした。


「……いやだ」

「ああっ? 聞こえないだろうがよ! 俺を馬鹿にしてるのか? やっぱり今ここで殺されとくか?」


 ミアはゆっくりと顔を上げた。抜き身の剣を手にした兇人を前に、静かに大地を踏み締める。

 クリシュトフの頬が小刻みに震えた。


「おいっ、俺の許可なしに勝手に立つな! 靴を舐めるんだよ! さっさとしろ、この薄汚い淫売が!!」

「嫌よ。死んでも嫌。あたしはあんたなんかには従わない。あたしの体も心もあたしのものなの。あんたなんかに……ううん、もう誰の勝手にもさせない」


「ふざっ、ふざけるなぁ! どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって……ぶっ殺してやるっ!!」

 クリシュトフはどす黒く血の上った顔面を激しく歪めた。錆の浮いた剣を狂乱の勢いで振りかぶる。ミアは薄い胸を張ったまま立ち尽くした。動かない。否、動けないのだ。痩せた体は固くこわばり、自分の命を奪う刃をただ呆然と見上げるばかりだ。


 今にも途切れそうな意識を、莢は懸命に繋ぎ止めていた。傍らに投げ出されたまま、手も足も言葉も自由にはならず、縛られた痛みと息苦しさが力を奪う。だけどまだ終わりじゃない。莢はまぶたを下ろした。地面から微かな震動が伝わってくる。この世界に落ちてからずっと、それとももっと遥かな過去から縺れ合い結ばれていた糸が鳴っている。

 鈍い光が空をよぎった。


「かはっ……」

 大量の血塊が口を衝いてあふれ出る。未だ剣を振り上げたまま、兇人は呆然と下を向いた。


「……あ、あ」

 その胸の真ん中から剣の切っ先が突き出していた。とめどなく迸り落ちる赤が、ぐっしょりと体を濡らす。クリシュトフは地面に崩れ落ち、そして二度と動かなかった。


 夜が迫る。薄闇の道の彼方に、騎馬の戦士の影があった。あり得ない距離から剣を投げ放ち、兇人を屠り去った男の瞳は、きっと鳶色をしている。莢はそのことを一瞬たりとも疑わない。


 あるはずのない出逢いだった。だけど出逢ってしまった。奇跡か、それとも運命か。どっちでもいい。もう無理。疲れた。体中痛い。眠い。ちょっと休む。

 いつの間にか傍に来ていた男の固い腕に抱かれながら、つかのまの夢のあわいに莢は沈んだ。


     #


 代わり映えのしない、だけど楽しい毎日だ。莢はいつものように平穏な放課後を迎えると、いつものように教室を出た。

 廊下を歩きながら、ふと後ろを振り返りかける。何か忘れ物をしている気がした。それも結構大事なことだ。けれど考えても思い出せない。


 違和感に悩みながらも、体は自動的に前へと進んだ。昇降口で靴を履き替え外に出る。

 校庭を過ぎると、美優みゆとそのグループの女子達が門のところに立っていた。


「莢」

 まるで行く手を阻むかのように、美優がすっと前へ出る。綺麗だけどきつめの顔立ちのせいで、間合いを詰められるとちょっとした迫力だ。無視して通り過ぎることもできず、莢は足を止めた。美優は腰に手を置くと、莢と真っ正面から向かい合った。


「一緒に帰ろう!」

「うん!」

 にっこりと笑いかけてきた美優に、莢も元気に頷き返す。もちろん断る理由なんてない。


 莢は美優達と連れ立って歩き出した。自然と足が弾む。

 学校は楽しい。だって友達がいるから。けれど学校の外はもっと楽しい。だって友達と好きなことをして過ごせるから。


 やらなくちゃいけないこともない。全部が自由な莢の時間だ。あちこち寄り道することを想像して、莢は早くもわくわくしたが、始まったばかりの冒険行には意外な展開が待っていた。

 校門を出てすぐのところ、車道と歩道を隔てる柵に、健太が浅く腰を掛けていた。


「じ、陣内、あのっ」

 スポーツ万能でいつも明るいクラス一の人気者が、右手と右足を同時に前に出しながら莢の方にやって来る。


「健太、くん……? ど、どうしたの?」

 健太と莢はいつも冗談を言い合ったり、じゃれて遊んだりしている仲良しだ。なのに相手のぎごちない態度のせいで、莢まで変に緊張してきてしまう。


 わりと本気で困っているというのに、美優達は助け舟を出してくれない。それどころか、まるですごく面白い場面にでも出くわしたみたいに、ニヤニヤ笑いを浮かべている。


「ふっふー、邪魔者は退散しよう。じゃあね莢、がんばってねー!」

 しまいには動揺しまくりの莢を置き去りに、キャーキャー言いながら駆けていってしまった。


「なによもう、美優達の意地悪ーっ!」

 思いきり怒鳴ったあと、健太と二人だけになってしまった莢は、気恥ずかしさを振り払おうと、頬をぷっくり膨らませた。

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