第30話 愛憎

「だけど安心して。サヤを一人になんてしないから」

 莢のへその辺りを探っていたミアの手が、おもむろに上へ動いた。みぞおちからさらに先、微かな胸の膨らみを捉えると、柔らかに揉みしだき、先端を指先でこすって弾く。

 莢の目に涙が滲む。行き場のない声が喉に絡む。やめてと言いたい。けれど言えない。ミアを拒む術を、今の莢は持っていない。


「あたしもサヤと一緒に働くわ。残りの借金を返さないといけないし、生きていくためには仕事が必要だもの。サヤだって、あたしが傍にいれば怖くないよね?」

 ミアの指が怪しく蠢くのをやめた。莢は息をつき、抗う力を弛めた。ようやく終わってくれた。ほっとする。肌の下にはなお火照った熱がくすぶり残る。だけどもうたくさんだ。もっと触れてほしいだなんて、そんなこと思うわけない。

 ミアの唇の端が、見透かしたように吊り上がった。


「教えてあげる。痛いことも、気持ちいいことも、全部」

「んぁっ!」

 莢の背中が弓のように反り返った。股間にある小さな突起に触れられていた。太ももを締めつけてどうにか守ろうとするが、ミアは容赦なく指をねじ込み執拗にこねくりまわす。


 莢は口を塞ぐ縄をめいっぱい噛みながらミアを見上げた。たまっていた涙がこぼれ、それでもミアから瞳を逸らしはしない。

 ランプの細い火が頼りなく影を揺らめかせる。ミアは莢の一番深いところを探り、中に入ってこようとさえしながら、自分こそ泣き出しそうな顔をしていた。


「ねえサヤ、あたし……」

 震えた声が途切れる。莢にミアの苦しみは分らない。だから知りたい。ミアの心を、一つも取りこぼしたくなかった。


 ミアは莢をなぶるのをやめた。乞うようなまなざしに莢は頷き、ミアはそっと唇を綻ばせると、静かに顔を寄せた。

 けれど二人の息は重ならない。

 表の戸が荒々しく開かれる気配に続き、耳障りな怒声が少女達のいる室内へ押し入った。


「邪魔だ、どけ!」

 ひどく苛ついた男がミアを容赦なく突き飛ばす。ミアは大きくよろめいて壁にぶつかり、立てかけられていた剣が倒れて床を打った。


「んーっ!」

 莢は激しく身をもがかせた。縄がぎしぎしと肌に食い込んで痛い。だが無視だ。しつこく動き続けていれば、わずかなりとも緩むかもしれない。少しでも可能性があるならやってやる。


「お前っ、じたばたするな! うっとうしいんだよ! 今度こそ絞め殺されたいのか!?」

 クリシュトフ・ドラギッチは莢を狂躁的に罵った。首元に手を掛ける。ただの脅しではなかった。じわりと力が加えられ、たちまち呼吸が苦しくなる。


 兄のミルに比べてどこか幼さを残したクリシュトフの瞳には、刃物よりもぎらつく光が浮いていた。この男を下手に刺激するのは危険だった。いつ破滅の淵に落ちてもおかしくない。


 莢が大人しくなると、クリシュトフは大きな袋を持ち出した。莢の足を抱え、つま先から袋をかぶせていく。まるで荷物みたいな扱いだ。そして事実その通りなのだろう。莢はこのまま袋の中に押し込まれ、どこか別の場所へと運ばれるのだ。そこから先のことは、今は考える気にもなれなかった。


 ミアはどうなっただろう。莢のこの世界での最初の友達――それとも友達になれたつもりでいただけの少女。ミアが莢を連れてきて、この悪夢さながらの窮地へ陥れた。きっと莢にはミアを恨む資格がある。ならばミアが恨み、憎しみをぶつけるべき相手はどこにいるのか。

 生地の粗い、ごわついた袋ですっぽりと覆い隠されようとする刹那、莢はミアの魂が軋んで立てる音を聞いた。


「……してやる、お前なんか、お前らなんか、みんなみんな、あたしの前から消えちゃえっ!」

 床に転がっていた剣を掴み取り、クリシュトフめがけて叩きつける。クリシュトフは叫び声に振り返った。だが間に合わない。


「ぐがっ」

 刃は鞘から抜かれておらず、クリシュトフは斬られなかった。だが鉄塊に顔面を強打されて苦鳴とともに倒れ込む。無様に床に伏した男を、ミアは呆然と見下ろした。握り締めていた剣がするりと手から抜け落ちる。


「んっ、んんっ」

「サヤ!」

 莢は喉だけでめいっぱいに唸った。気付いたミアがすぐに駆け寄ってすがりつく。


「ごめん、ごめんね。あとでまたちゃんと謝るから、もう少しだけ我慢して」

 袋に入ったままの莢を抱え上げると、ミアは半ば引きずるようにして運び始める。ふらつき気味の足取りながら、どうにか家の外まで出ると、表には一台の荷馬車が止まっていた。おそらくクリシュトフが乗ってきたものだろう。


「あれで逃げよう。御者なんてやったことないけど、あの男でもできるぐらいなんだから。大丈夫に決まってる」

 ミアは迷いを振り払うようにして馬車へ近付く。やはり御者の経験などない莢には、どのくらい難しいことなのか分らない。だがミアだけでは莢を抱えて遠くまで逃げることなど不可能だ。


「せえのっ、よいしょ!」

 痩せた腕に懸命に力を込めて、ミアは袋詰めの莢を荷台に載せるため持ち上げる。簡単なことではないが、覚悟を決めたミアならば十分にやり遂げられる、はずだった。


「ふざけんな、このガキがぁー!!」

 ミアの体が棒のように硬直した。早くも追ってきたクリシュトフに背中を蹴りつけられ、次の瞬間ひとたまりもなく吹き飛ばされる。莢はまともに地面に落ちた。強烈な衝撃に全身を貫かれ、軽く意識が飛びかける。


「……もう一度だけ、機会をやる」

 どくどくと顔面に血をしたたらせたクリシュトフが、憤怒に染まった視線でミアを突き刺す。右手には抜き身の剣を掴み締め、錆びの浮いた刃は薄暮の中で赤茶色をしていた。

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