第29話 緊縛

 そろそろ客が訪れ始める頃合だった。リンは赤猫亭の一番人気だが、それだけに「来る者拒まず」では体がいくつあっても足りない。相手をするのは予約客のみで、今夜の務めが入っているのはもっと遅い時間だ。


 だが娼婦であるのと同時に、リンはこの宿の主でもある。訪れる人はなるべく自ら出迎えたい。愛想を振りまくのは商売の基本だし、客筋の良し悪しを見定めるためにも重要なことだ。


 薄い下着を身に付けただけの格好で鏡台の前に座り、化粧をする。掛ける手間は多くない。この仕事にしてはかなり薄めの方だろう。

 白粉をはたき、頬と唇に紅を差す。眉を作るための筆を取る。


「リン」

 唐突に扉が開き、断りも抜きに入ってこられたことにいくらか驚きはしたものの、リンは恐れも慌てもしなかった。芯の通った力強い声も、彼女の名を呼ぶ時の甘くはないがどこか洗練された響きも、今最も馴染みのある男のものだ。


「リン、ミアはいるか。それとサヤは……」

 彼には珍しい性急な調子に、リンは逆にあえてゆっくりと振り返る。

「なあによ、どうしたの? ずいぶんがっついてるじゃない。まさかあたしからあの子達に乗り換えようってつもり?」

 もちろんただの冗談だ。彼の好みなら知っている。エッチはリンに苦笑さえ返さず、ごつごつと床を踏み鳴らしながら傍らに歩み寄った。


「あと十年経ったら考えてもいいが、そんなには待ってられないな。もしあいつらに何かあったら、お前だって少しは寝覚めが悪いだろうが」

 少しどころではない。リンは眉をひそめた。自分にとってこの宿にいる子達は全員家族に近い。


「ミアとサヤなら一緒に出掛けたらしいわ。どこへかは知らない」

「心当りは?」

「これといってないわね。あの二人がどうしたの?」


「まだ分らん。一つ確認するが、ミアをここに斡旋したのはドラギッチ商会の関係か?」

 リンは瞬きした。予想外の質問だったが、隠すことでもない。


「ええ、そうよ。あのお上品そうな館の人が、こっちの商売もするのかって少し驚いたんだけど。結局あの一回きりだったわね」

「だろうな。俺はミヒャエル氏の所へ行っている。もしミア達の居場所が分ったら、連絡を寄越してくれ」


 エッチは身を翻した。くちづけの一つも残していかない。去り際があっさりしているのはいつものことだが、今日は本当に急いでいるようだった。もちろんリンも無意味に引き止めはしない。


 ミアはどこか危うい感じがする。いつか厄介事を引き起こすかもしれない。

 それは以前から思っていたことだ。しかしリンは自分が今さほど心配していないことに気付いた。サヤが一緒にいるなら、きっと早まったことはさせないだろう。それにエッチも動いている。リンが認めた男だ。万事よろしく片付けるに決まっている。


「あたしはあたしで、できることはしておかなきゃね」

 寝転んでアハンウフン言ってるだけではこの商売は立ち行かない。噂や情報集めは娼館の主として当然の心得だ。リンは役に立ちそうなツテの一覧を頭の中に広げた。




 なんだかすごく嫌な夢を見ていた気がする。内容はうまく思い出せない。ただ不快な感覚だけが、今もなお生々しく続いている。

 息が苦しい。まるで首を絞められているみたいだ。早く逃げたい。でも逃げられない。寒い。冷気が肌に落ちて身が震える。


 せめて縮こまって自分を守ろうとする。だめだ。手も足も動かせない。力は入るのに、無理に動かそうとすると痛みがきりきりと体に食い込む。意地悪な誰かにきつく押さえつけられているせいだ。

 いや違う。誰かじゃない。

 ――わたし、縛られてる?


「んんっ」

 不当な扱いに抗議したくても、くぐもった唸り声が洩れるばかりだ。言葉も自由にはならないらしい。


 だが意識はだいぶはっきりしてきた。そろりとまぶたを持ち上げる。苦労して頭をもたげ、自分がどうなっているのかを確かめる。

 軽く泣きたくなった。我ながら実に悲しい有様だ。全身を縄でぐるぐる巻きにされているうえに、その下は真っ裸である。荒い縄の感触が、柔肌をざらりとこする。いたいけな乙女になんという仕打ちをするのか。責任者出てこい。断固として待遇の改善を要求する。


「うーっ、うーっ」

 だが口にも縄を噛まされているせいで、文句をつけることはかなわない。今の自分にできるのは、ただ助けを待つことだけだ。


「サヤ? 気が付いたんだね……よかった」

 ――え? ミア?

 掠れ声が聞こえた方にどうにか瞳を向けると、火明かりにうつろう陰の奥から、ほっそりした少女の姿が現れた。

 確かにミアだ。惨めな格好の莢を見下ろして、色のない笑みを浮かべる。


「怒ってる?」

 莢の心を気遣うはずの言葉が、ひどくよそよそしく響く。答えを返せない莢はただ首を振った。たぶん怒ってはいない、と思う。だけど納得できるかどうかはまた別だ。

 ちゃんと説明してほしい。莢がぶつけた視線の意味を、ミアは読み取ったようだった。自嘲するようにふっと小さく息が洩れる。


「父親がね、死んだの。ギュスターブ・ガリウスって奴」

 他人事みたいな口調のせいで一瞬聞き流しそうになって、だが誰のことか分った途端に身の奥が軋む。


 ギブと呼ばれていた人のことに違いない。樽のように太い体つきをした髭面の傭兵だ。ミルとその友達を殺そうとして、その場に駆けつけたエッチと戦いになったすえに斬られて死んだ。エッチが莢の言う通りにしたからそうなった。


「最低の人間だった。博打にのめり込んで、何回も大負けしたのにやめられなくて、そのせいで借金がいっぱいあった。死んでくれて清々したけど、借金までは消えなかった。全部あたしに残された。でももしサヤを連れて来たら、その分は減らしてやるって言われたの。だから、仕方ないよね」

 ミアの声がふいにじわりと湿った熱を帯びる。


「いいな。綺麗だよ、サヤ。殴られた傷痕なんて一つもない。男の人に犯されたこともないんだよね。これは、まだサヤだけのもの……」

「んっ」


 莢の身がびくんとよじれた。動きを拘束する縄の隙間から、ミアが指先を差し入れていた。痛くはない。ただ優しく撫でられているだけだ。なのに深い穴に落ちていくような恐さがあった。


「分るよね? これから自分がどういう目に遭わされるのか。売られちゃうんだよ。サヤがかわいそうがってたあたしと、おんなじ立場になるの。嬉しい? それともやっぱり嫌かな。あたしみたいにはなりたくない?」

 莢は何度も繰り返して首を振る。ミアの言葉のどれを否定しているのか、自分でも定かでなかった。

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