第2話 あなた次第


(本の匂い…)


 母は読書家だ。小さい頃から本が好きで中々本が捨てられないらしく、こうして我が家には『母の部屋』と銘打った『書斎』が存在している。四方八方、見渡す限りの本棚はいつ見ても圧巻だ。


「ふうん、母さん本当に色んな本持ってるなあ」


 目に付いたのは部屋の奥、本棚の最下部に置かれた一冊の本。題名は『百合の顔』とあるが、版元は書かれていない。個人製作の物かとも思ったが、装丁の古さが疑問を残す。


「あら、よく見つけたわね」


 音も無く部屋に入ってきた母に、慌てて本を戻そうとするが、焦って手元から本が零れ落ちた。


「ご、ごめん。勝手に触って」

「いいのいいの、丁度良かったくらい」


 母は部屋の隅に設けられた読書机に藍を座らせると、自分は持ってきた小さな椅子に腰を降ろした。


「その本、お母さんが書いたのよ」


 思いもよらぬカミングアウトに、開いた口が開かなかった。


(今、何て…?)


 二度三度、瞬きはすれど言葉が出て来ない藍に、母は続けて『出版もしたことあるのよ。こう見えてね』と言って笑う。


「お母さん、作家さんなの?」

「元ね、元。今はしがないパートのお婆よ」


 元だとしても、藍には驚きしかなかった。まさか自分の母親が作家だったなど、誰が予想しようか。


「最近の言い方で言うと『自分語り』って言うんだっけ。藍、お母さんの自分語り、聞いてくれる?」


 困惑の尾は引いていたが、それでも小さく首を縦に振る藍に、母は嬉しそうに喋り出した。


「お母さん、本好きでしょう? きっかけは忘れたけれど、時々本を読んでいると『惜しい作品だったなー』って思うことがあったの。中学生の時だったかな、思い立ってね。なら自分で満足のいく小説を書いてみよう! って思っちゃったのよねえ」


 うんうん、と頷く母に藍は内心で同意をする。


「それでね、書いてみるでしょう? そしたら全然上手く行かないの! 誤字脱字は当然なんだけど、書いてみたら矛盾だらけだし、キャラはブレるし、終わり方が解らなくなるし、そもそも書き上げれないし!」と、豪快に笑って藍の肩を叩く母。身に付けているエプロンに描かれた無気力なパンダが母を冷静な目で見ているように感じ、微妙な笑いが込み上げてくる。


「ようやく書きあがったと思って自信満々に公募に出してみるじゃない? 当然だけど爆死よ! 二次選考通過位は余裕でしょう、とか高を括っていたのに蓋を開けてみれば一次選考すら通らない! もう自信無くしちゃうわよ」


 そろそろ肩が外れるのではないかと思う程叩かれた後、空気の読める母は彼女の膝を次は叩き出した。一発一発は軽く大した物では無いが、この叩き癖はどうにかして欲しいものである。


「それでね、お母さんなんだか腹が立っちゃって! 自分でその本作ったのよ。我ながら努力の方向がおかしいとは思うけどね」

「え、これお母さんが作ったの?」

「そうよ! 正真正銘世界でたった一冊の本!」


 拾い上げた先ほどの本をまじまじと眺め見る。

 よく見れば紙も装丁もほつれがある様に見えなくも無い。


「それから二回は書いたんだけどやっぱり上手くいかなくてね、お母さん筆を置いちゃったのよ」

「諦めたの?」


 一つ手を打ち、母は立ち上がり新たな書籍を持ち出してくる。その背表紙には『穿つ月』とあった。


「読書友達にね、自分が作った本を読んで貰ったの。恥ずかしくて、誰が書いたのかは言わなかったけどね。そしたらもう酷評、酷評! お母さん凹んじゃって立ち直れないかと思ったわ」

「お母さんが?」

「そう、この母が」


 絵にかいたような前向きの化身にそんな時があったとは想像し難い。


「でもね、お友達が言ってくれたのよ『この本面白くないけど、僕は嫌いじゃない』って。意味わからないでしょう? 面白くない本が嫌いじゃないって。でもその子は本当にそう思ったらしくて『きっとこの人はいつか芽が出ると思うよ』って言い切ってねー」


 何が面白いのか母は一頻り笑うと、先ほど取り出した本を藍に渡した。


「それで吹っ切れたのか、そこから死に物狂いで書き続けてね。ようやく芽が出たのがその本なのよ」


 渡された本を見れば、初版は約三十年前。母が二十七歳の時に書籍化されたようだった。


「そこからはぼちぼち売れてね、とっても嬉しかったけど、でも物事って上手く行くばかりじゃないでしょう? スランプに陥っちゃってね、すっかり書けなくなったの」

「その時はどうしたの?」


 前のめりに聞いてくる藍に、母は困ったように表情を崩した。


「ファンレターに助けられたの。そこにはこう書いてあったわ『面白いばかりが全てじゃないと思います。僕は嫌いじゃないです、貴方の本』って。ちょっと上から目線のファンレターでねえ、だからピンときちゃった。ああ、あの子が書いてくれたんだって」


 腕を組み、思い出に目を瞑る母。


「だからもう一度書いてみたわ。そしたらとてもいい出来でね、今までで一番納得のいく出来だったわ。本の売れ行きも好調で、とっても満足したの」

「どうして小説家を辞めたの?」

「お母さんはそこで満足してしまったから。もう十分だと思ったの、そして思ったわ、次はこの子の為の物語を書こうって」


 装丁を撫でる母の手つきは優しい。


「藍が何で悩んでいるのかは分からないけれど、少なくともお母さんは藍の味方よ。藍が挫けそうな時には必ず背を押してあげる、だから諦めずに立ち向かってみたら? もしかしたらここが正念場かもしれないわよ?」


 悪戯に笑う母に、藍は零れ落ちそうな涙を堪える。


(友達が夢を諦めても、仲間が挫折していても、私が諦める必要は無いんだ…)


 失った自信はそう簡単に取り戻せはしない。それでも諦める理由を探すのは止めた。


「おーい、長話してどうしたんだ?」


 不意に、開いた扉から父親が顔を出す。今にも泣きそうな藍を見て驚いた表情を浮かべるが、彼女が手に持っている本を見て納得がいったようだった。


「また昔話をしていたのか」

「あら、いいでしょう? 大事な思い出だもの」

「娘に親の馴れ初めを恥ずかしげも無く話せるのは君くらいだよ」


 父親の言葉に、溜まっていた涙が瞬間的に消え失せた。


「馴れ初め?」

「そうよ。お友達って、お父さんの事なの」

「なんだ、言っていなかったのか」


 呆れる父と嬉しそうな母。藍は『自分は何を聞かされていたのか』と頭を抱え込む。けれど、頭を撫でて部屋を立ち去る父と、母の手の温もりに悪い気はしなかった。


「ありがとう、お母さん」


 これから先何があるかは分からない。でも、諦めるなら納得のいく諦め方をしよう。自分も数少ない読者の為にも。そう決意し、再びデスクへ戻るべく部屋の扉を開く。


「藍、あのね。お母さん、藍の小説好きよ」


 その言葉に、踏み出そうとした一歩が止まったのは言うまでも無いだろう。


「パソコンはちゃんと閉じておいた方がいいわよ」


 この日一番の叫びが小野寺家に響いたのは言うまでもない。

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藍の花 鞠吏 茶々丸 @IzahararahazI

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