記者と少女

加瀬優妃

意外な訪問者

「ごめんください。田中茂雄さんのお宅はこちらでよろしかったですか?」


 そう言ってやや歪んだ玄関の木戸を開けたのは、この春の暖かい日にはひどく不釣り合いな黒手袋をした女だった。


 三十前後ぐらいの、もうすぐ七十に手が届こうとしている俺からすれば、娘……いや孫といっていいぐらいの女性。その異様な黒手袋を除けば、女はこんな鄙びた田舎にはいそうにない、小奇麗な恰好をしていた。

 艶々した黒色の髪を後ろで軽く一つ縛りにし、春らしい色合いのパンツスーツを着て、右手には茶色い革の書類バッグを持っている。

 

 バリバリのキャリアウーマンっぽいその出で立ちといい、間違いなく都会から来たんだろう。こんな山奥に引っ込んで日がな過ごしている老人に、いったい何の用があるんだろうか。


「そうですが……」

「良かった!」


 女性は大きく目を見開くと、嬉しそうに顔をほころばせた。


「水口日向子と申します。覚えていますか?」



   * * *



 東京で雑誌記者だった俺が、行き過ぎた取材で先方を怒らせ、会社をクビになったのは四十も半ばだったか。

 たかがこんなことぐらいで、と憤ったが、上司は

「かねてから君を扱いかねていた。今回の件が決定打となっただけだ」

と冷たく言い放った。

 たまにアタリを引いてくるから飼ってやっていたが、もう限界だ、と。


 これまで仕事を優先して家庭を省みなかった俺に、妻は冷たかった。


「もう限界。無職になったあなたとやっていく気はないので、離婚しましょう」


 養育費代わりに家は貰いますから出て行ってくださいと言われ、追い出された。

 そのとき十五歳だった娘も助けてはくれなかった。ロクに顔も合わさない、合わせば偉そうなことばかり言う俺は、とっくに邪魔者だったのだ。


「俺が売り上げを伸ばしてやっている」

「俺がお前たちを養ってやっている」


 そんな風に思っていたのに、どちらも「ちょうどいいから」と俺を切り捨てた。

 自分の傲慢さに気づいたものの、もう手遅れだった。


 最初はいろいろな雑誌社を巡ったが、俺の悪評は轟いていたようでどこも雇ってはくれなかった。

 わずかな貯金と失業保険が尽きかけた頃、見かねた知人が地方の工場を紹介してくれた。背に腹は代えられず、記者を続けることは諦め、その工場で働き始めた。


 水口日向子に出会ったのは、工場で働き始めてから二か月ぐらいした頃だろうか。

 当時中学生だった彼女は、工場の近くの交差点で交通事故に遭った。

 たまたまその場に居合わせた俺は、慌てて救急車を呼んだ。



   * * *



「これ……」


 彼女が書類バッグから取り出したのは、あちこちがボロボロになったレポート用紙の束。字が滲んで読めないところもあるが、これは……。


「何で、あんたがこれを!?」


 これは、かつての俺が書いた記事……にもならなかった、ただの雑記。

 水口日向子を取材したときの、日記のようなもの。

 アパートを引き払うときに、捨てたはずなのに。


 

    ◇ ◇ ◇



『手……私の手……』

 車に轢かれ血まみれになった少女のうわ言。

 意識もあるかどうか定かではないのに……手に思い入れがあるのか?


   ・ ・ ・

 

 水口日向子、高枝中学3年。

 全日本ピアノコンクール3位の実力者。中学を卒業したらイギリスに留学する予定だった。

 救急搬送されたおかげで命はとりとめたが、彼女はこの事故で指の神経を損傷し、ピアニストの道を断たれた。


 アパートの向かいに他の家の三軒分ぐらいはありそうな大きな家が建っていた。そこから毎日のように聞こえてくるピアノの音が、水口日向子のものだった。

 そのピアノの音は、わたしの生活を潤していたらしい。いつしかピタリと止み、気になっていたのだ。

 まさか、そんなことになっていたとは。


   ・ ・ ・


 病院に見舞いに行った。その場に居合わせた人間だし許されるだろうと思った。

 しかし面会できるような状態ではないと彼女の母親に断られた。

 気になる。どうしても気になる。俺の取材根性が刺激されているのだろうか。もう記者じゃないというのに。

 水口日向子を取材したところで、載せる場所などないというのに。


   ・ ・ ・


 病院で、たまたま彼女が一人のところを見かけたので話しかけてみた。

 居合わせて救急車を呼んだことを言うと、

「おじさんが呼んだの。サイアク」

と睨まれた。

「ピアノを失うぐらいなら、あのまま死んだ方がよかった」


   ・ ・ ・


 このまま放っておけない、と何度も話しかける。何しろ蛇のようなしつこさには自信がある。それでクビになったのだから。

 しかし日向子は、俺を罵倒し続けた。


   ・ ・ ・


 もとの会社の名刺を見せてみた。今は記者じゃないけど、いつか君のことを書きたい、と。

「バカじゃないの」

 少女はひどく冷めた目で俺を見た。


   ・ ・ ・


 意外なことに、日向子は俺と会っていることを家族には言っていないらしい。

「ただでさえお母さん大変なのに、心配するじゃん。変なおじさんにつきまとわれるって知ったら」


   ・ ・ ・


 今日も日向子は怒っていた。……というより荒れていた。

 立派な家に住んでいるし留学する予定だったというからてっきり金持ちだと思っていたが、内情はそうでもなかったらしい。

 父親が

「これで日向子に余計な金をかけずに済むな」

と母親に言ったらしく、両親が大喧嘩をしたそうだ。

「全部、めちゃくちゃだ。私のせいで」


   ・ ・ ・


 ピアノを失ったら自分には何も残らないという日向子。

 記者という仕事が無くなったら、自分には何の価値もないと思っていた俺。


 でもそうじゃない、俺は現場に居合わせて、日向子の命を救った。

 そして、こうして彼女の罵倒を聞き続けることが、彼女の気持ちを救うことになるのではないか。


 でもこれもまた、傲慢な考えだろうか。

 そうかもしれない。

 彼女のピアノの音で癒されていた、だから俺が彼女を癒してなどという思いは、自己満足以外の何物でもない。

 俺は単に、「生きている意味がない」という日向子を見ていたくないのだ。


「これから新しい生きがいを見つけて頑張るわ!」

という日向子を見たい、と。そういうオチにしたい、と。

 俺の幻想を、たった15歳の少女に押し付けているだけなのだ。

 


    ◇ ◇ ◇



 その後、好意で雇ってくれたその工場は不況の煽りを受けて閉鎖となり、俺は再び職を探す羽目になった。

 住んでいたアパートは工場の持ち物だったから、当然ここも出ざるを得なかった。


 最後に水口日向子に会った日のことを、俺はよく覚えている。


「明日、退院するの。もう会わなくて済むね。さすがに家にまでは来ないでしょ」


 日向子がなぜか、勝ち誇ったような顔をしている。


「そうだな。俺も、一週間後にはあのアパートを出るしな」

「えっ、何で!?」


 それまで睨みつけるか馬鹿にするか、とにかく不快な表情しか浮かべていなかった日向子が、真っすぐに聞いてきた。

 俺の事情を説明すると、日向子は「ふーん」とつまらなそうに呟いただけだった。

 ここでも、特に俺が期待するようなものは得られなかった。



   * * *



「おじさん。こんな個人名が入ったもの、迂闊に捨てないでよ」


 そう言ってニヤリと笑う日向子は、もう四十なのだという。あまりにも生き生きとしていて血色もよくて綺麗だったから、若く見えただけで。


「どうして、それ……」

「退院してからもしばらくは外に出れなかったけど、窓から向かいのアパートはよく見てたの」


 さんざんつきまとわれたから、今度は私がつきまとってやる!と思ったらしい。

 ……というより、何もやりたいことが見出せなかった、というのが本当のところらしいが。


「おじさんがさ。夜中にゴミ捨てに行ったのを見たの。朝に捨てないといけないのに駄目だなー、チクってやろうかなとか思ったんだけど……」


 右手に何やら紙の束を持っているのが気にかかったらしい。

 それはひょっとして自分を取材したものじゃないか、と。


 このときのことは覚えている。

 途中になってしまった、どこにも掲載されることのないネタ。捨ててしまおうと何度も手に取るが、どうしても袋に入れられない。


 結局、アパートを出るギリギリまで手元に残していた。いや、ゴミを捨てるその瞬間まで。

 しばらくゴミ捨て場の前で立ち尽くしていたが……思い切って口を開き、目をつぶってレポート用紙を投げ込み、ギュッと口を縛り、そのまま走ってゴミ捨て場を後にした。


「拾った……のか」

「うん。だっておじさん、様子が変だったから」


 とは言っても、そのときゴミ袋の向こうに自分の名前を見つけた日向子は、

「ちょっと人の名前を書いたもの捨てないでよ!」

と思っただけらしい。

 カップ麺の汁がこびりついていて汚かったけど、幸い入れたばっかりだったから拾う気になったと言って、日向子は「ふふふ」と笑みを浮かべた。


 その後日向子は俺の記事を読んで、すぐに立ち直った……という訳ではないが。

 少なくとも「今のままじゃいけない」という気にはなったらしく、周りに助けられながら高校受験の勉強を始めたという。

 その後やっぱり音楽に携わる仕事をしたいと思い、今では音楽雑誌の記者になっているそうだ。


 黒手袋は、指を守るため。日常生活を送る分には問題ないのだが、それでも時々痛むことがあるという。

 何となく守られている気がして、どうしても手放せないらしい。


「おじさん、どうしてるかなって何回かは思ったの。でも……忙しくてね」


 日向子はその後二十五のときに結婚、出産。一時仕事をセーブしていたものの、子供も大きくなったので仕事を再開することにした。

 自分の娘があの頃の自分と同じ年になった。自然とあの頃の思い出が蘇ってきた。


「それでようやく思い立って、おじさんを探したってわけ。おじさんが見せてくれた名刺を頼りにね」

「こんな山奥にいる俺を見つけられるとは、なかなか優秀な記者だな」

「まぁね。……おじさん、こういうオチだけど、どう?」


 日向子が左手を腰に当て、右手の手の平を上に向ける。

 黒手袋は、日向子がこれまでの人生を戦ってきた証なのだろう。

 俺の口角が、自然と上がる。


「――ああ、満足だ」


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記者と少女 加瀬優妃 @kaseyou

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