玄関を開けた途端、粘っこい疲労感がどろりと笑美にまとわりつき、倒れ込む。

 かつて体験したことのない疲労感だった。

 なぜ?どうして?

 初めて働いて、緊張したから?

 いや、緊張などしなかった。ヤンはずっと優しく温かく、なごませてくれた。

 慣れない作業をしたから?

 でも、作業中はずっと快適な室内で、ゆったりした服を着ていた。

 それに、広いお風呂でゆっくり温まって、帰りは素晴らしく豪華な車でうたたねまでした。

 どんなに考えても分からなかった。笑美はもう、指先ひとつ動かせそうになかった。

 どうせお風呂にも入っているし、服も下着も新品だ。考えても分からないなら、考えても無駄だ。

 笑美は落ちてくるまぶたに逆らわず、眠りに落ちた。


     〇


 空を飛んでいた。眼下にはほとんどなにもない。

 しばらくすると高度が下がり、徐々に見えてくるものがある。

 牧場だ。夜だからか牛も馬も見えないけれど、恐らく間違いない。そこを目指して飛んでいる。

 気付くと、粗末な建物の前に降りていた。

 明かりがついている。なぜか、どうしても、なにがあっても、入らなくてはいけないような気がする。

「たすけてください」

 後ろから声をかけてくる人がいた。振り向くと、大勢いた。

 先程までなにもなかったが、今は、女ばかりがひしめきあっている。

「たすけてください」

 女が足に縋りついてくる。

「赤ん坊が殺された」

 別の女が叫んだ。

「私の子供は串刺しに」

「私の子供はやわらかかった」

「私の子供はやわらかいから深く刺さった」

「私の子供は私が押しつぶしてしまった」

「私の子供は串刺しに」

「私の子供はやわらかかった」

「私の子供は串刺しに」

「私の子供は串刺しに」

「私の子供はやわらかいからよく刺さった」

「私の子供は串刺しに」

 皆、赤ん坊を抱いていた。赤ん坊は肛門から刺し貫かれていて、口から棒の先端が飛び出している。

「やわらかくて美味しい子供を差し出せば本当に救われると思ったのですか」

 耐えかねてそう言うと、足元にわだかまっていた女たちは慟哭した。聞いているこちらが苦しくなるような悲痛に満ちた声だった。

「ここに正しい者はいない」

 そう言うと、女たちはさらにひどく泣き崩れた。

 建物に入ろうと一歩踏み出すと、強い力で頭を抑えつけられる。自然と、跪くような形になった。

「まだそのときではない」

 頭に声が響いた。

「まだそのときではない」

 そのとおりだ。

「回向、永眠、保温」

 そのまままた、空に引き上げられ、燃え盛る街を見下ろす。

 

    〇

 飛び起きた。

 文字通り飛び起きたので、笑美はベッドから転がり落ちて膝を強く打った。

 昨日感じた泥のような疲れは消えているが、代わりに強烈な頭痛と吐き気に襲われる。

 トイレにかけ込んで思い切り吐こうとしても、透明で酸っぱい液が出るだけで、吐き気も頭痛も一切治まらない。

 体を引きずるようにしてベッドまで戻り、枕元の時計を確認する。

 八時半。大変だ。

 昨日、ヤンは九時に迎えの車を寄越すと言った。

 笑美は昨日帰ってきたままの恰好で、さらに体中汗まみれ……こんな有様で出社できるわけがない。早く支度をしなくてはいけないのに、頭痛のせいで全ての動作が緩慢になる。

 どうにかこうにか洗顔と歯磨きだけして、汚れた体を汗拭きシートで拭き取る。シャワーを浴びる時間は作れそうになかった。

 ヤンがくれた服をハンガーにかける。VALENTINO。石原さとみが着ているといって、以前ネットで話題になっていた。

 そんな女優が着るような服を、どうしてヤンはくれたのか。いくら好かれているとは言っても、そこまでしてもらう理由がない。この服は返さなくてはいけない、そう思うが、サイズまでぴったりのこの服は笑美のためにあつらえたようだった。


それに、ヤンは笑美のことを愛していると言った。

 

 そんなことを考えているうちに、インターフォンが鳴る。モニターに、昨日笑美を駅から施設まで送り届けた男性が映っていた。相変わらず虚ろな目をしている。

 鞄を持ったところで、このまま車に乗ったら吐いてしまうかもしれない、そう思って笑美はプラスチックの引き出しを漁って、吐き気止めを掴んだ。

 その瞬間、腕が勝手に動いて引き出しを床に叩き落した。

 腕は笑美の意志を完全に無視してバタバタと動き、そこらじゅうのものを床に撒いていく。

「やめて、やめてっ」

 叫んでも、笑美自身の腕なのだからどうしようもなかった。

 時間は一分も経っていないだろうが、十分に部屋の中を滅茶苦茶にしてからやっと腕は止まった。

 机の上のマグカップ、綺麗に並べたフィギュア、お守り――兄から貰ったガラス製のウサギまでも粉々になって散らばっている。

 どうしてこんなことに。狭いながらも整頓された部屋だった。笑美にとって綺麗な部屋は、何もできない自分が持つ数少ない自信だった。それが目の前で砕かれてしまったのだ。ほかならぬ自分の腕で。

 指先で無意味にフローリングの隙間を擦ると、確かな感触がある。それでも、自分の体の一部ではない、別の生き物のように感じられた。腕を引き千切ってしまいたいとさえ思う。

 立ち上がれずにいると、ふたたびインターフォンが鳴った。

『どうしましたあ』

 やる気のない、それでいて苛立ったような声で男は言った。

「すぐ行きます……」

 部屋の惨状を見ないようにして笑美は立ち上がった。頭痛はまだ消えないが、ショックで少し薄まったように感じる。

 片付けたいのはやまやまだが、とにかく、今は出社しなければいけない。

 憂鬱な気持ちを抱えたまま、笑美は靴を履いた。

「痛っ」

 ガラス片が足の裏に深く刺さっている。

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